第十九話 洗心洞

 会合が終わって俺たちは大塩平八郎様の部屋に通された。


「宗歩はん、太郎松はん、儂はねこの大塩先生のお話しを聞いて、これまでの将棋家のやり方に疑問を感じているんや」


 東伯齋が大塩平八郎の方を見ながら話し出す。


「大塩先生は町奉行所の与力として幕府の腐敗をこれまでぎょうさん正してこられたそらどえらい先生や。今も全国で起きている大飢饉を大層気に病まれて、お奉行様に支援米を配給することを具申されておられるんや」


「小林先生、その件は……」


「ああ、そうですな。すんまへん」


 東伯齋がすぐに頭を下げる。


「宗歩はん。儂はね、大橋分家を破門された後、江戸からこの大坂に流れ着いてきて遠縁の商家に拾われたんや。たまたまそこの主人が儂のことをいたく気に入ってくれてな、『娘の婿にならんか』と言ってくれたんや」


 東伯齋はこれまで見たことないほど優しい目をして宗歩に話しかける。


「それからや。将棋しか知らへんかった儂は必死に商売の勉強をした。世の中のこともぎょうさん勉強したで。それでな、ますます将棋家がおかしいと思い始めたんや」

「し、しかし将棋家は由緒ある幕府のご意向の元で……」

「その幕府がなくなったら、名人は一体どうなるんや」


 ば、幕府がなくなるだと……そんなことこれまで一度も考えもしなかった。

 宗歩も同じように衝撃を受けている。


 困惑している俺たちに大塩平八郎が語りかけた。


「天野殿、市川殿。今、世の中は激しく動こうとしています。これまでの常識が常識でなくなるような時代がもうじきやってくるでしょう。その時に『将棋』というものが世の民にとって必要とされるものかどうか今一度真剣に考えてみて欲しい」

「世の民のためですか?」

「そうです。公方様のためでも己のためでもない、世の人々のためにです」

「儂はね。威張り通して有難がられる将棋はもうあかんと思うんや。今日の催し事みたいにみんなで笑って面白がって、また明日頑張ろうって元気を与えるために将棋はあるんと違いますか、なぁ宗歩はん!」


 東伯齋が宗歩に食い下がる。


「皆さんに元気を与えるような将棋……」

「そうや。技芸ってもんは本来人々に感動を与えるもんちゃいますやろか」

「感動を与えるもの……」


 宗歩がうつむいてぶつぶつと何かを呟いている。


「まぁまぁ、小林先生。いきなりまくし立ててても混乱するでしょう。どうですか天野殿、暫くここ大坂に滞在されてみては。小林先生のもとで江戸と違う空気を吸うことであなたも何か感じることがあるでしょう」

「そうや、それがええわ。宿代は気にせんでええで。儂の家におったらええ。丁度男手も欲しかったところやし、店を手伝ってもらうのと、菱湖の指導をしてもろたらそれでええよ。あの子は不憫な子でなぁ。将棋の才能はあるけれど体が弱いから、儂としか将棋を指したことがないんや。お二人に鍛えてもろたらあの子にとっても幸せなことやから」

「わかりました」

「お、おい、宗歩! 将棋家の役目はどうするんだ!」


 俺は咄嗟の宗歩の返事に慌てた。


「太郎松。私は今日皆さんと将棋をさせてとても楽しかったんだ。たぶん太郎松もそうだったんじゃないか?」

「……」

「私は小さいころから将棋家に入門して厳しい修行に耐えてきた。すべては名人になるためにだ。でも名人になれないと知ってから自分は一体何のために将棋を指しているのだろうと考えることが多くなってきたんだ」

「宗歩……」

「子供のころ太郎松と一緒に将棋を指したあの頃、二人で近所の親父さん達の目を丸くさせてけらけらと笑い転げてたあの頃。将棋ってたのしいなぁって思っていたあの頃――」


「私は、あんな風にもう一度将棋が指してみたい」


 そこにいたのは俺の知らない宗歩だった。


 将棋に負けて泣いていた弱々しい少女でもない。

 将棋家の言いなりになって人形のように心もなく将棋を指す少女でもない。

 自分の意思で歩いていこうとする強い女性がそこにいた。

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