第二十話 旅立ち 

 江戸に初雪が降り積もった師走の頃のこと。

 本所にある大橋本家では将棋家の定例会合が執り行われていた。

 将棋家の各当主が日々担うものは、寺社奉行への陳情や報告、将軍家の冠婚葬祭への強制参加、在野棋士への段位認定など多岐にわたっている。

 これらについて三家で話し合うだけでも一苦労なのだ。

 だが、朝から続いたこの膨大な作業にもようやく終わりが見えてきた。


「そういえば、天野宗歩からふみが届いたそうだな」


 伊藤家当主の伊藤宗看第十世名人が大橋本家当主の大橋宗桂に水を向ける。

 大橋宗桂は無表情のまま黙って文箱から一枚の文を取り出してすっと差し出した。


「ふん、どうせあの小童のこと。さぞ生意気なことでも申しておるのでしょう」


 大橋分家当主の大橋宗与はさきほどから機嫌を悪そうにしている。

 どうも天野宗歩の話となるとこの男は不愉快になるらしい。


 その文には、小林東伯齋に公開対局で勝ち、大阪名人の使用と段位免状の交付を諦めさせたこと。

 大坂の在野棋士を監視するためにしばらくこのまま大坂に滞在すること。

 そのまま当初の目的であった西国への武者修行に向かいたいので、報告はこの文の提出をもって代えたいことなどが記されていた。


「ふん、麒麟児め。公開対局とはさすがにやりおるわ」


 伊藤宗看が文を片手にしながらくくっと笑う。


「小林東伯齋もこれに懲りたら大人しくなるでしょう」


 大橋宗与としてもこの件が大橋分家から端を発していることが気がかりだったらしく安堵している様子だ。


「……宗与よ。おぬしもそろそろ東伯齋のことを許してやれ。あやつも若かったのだ」

「な! あの者は私に無礼なことを申したのです。到底許されませぬ」

「やれやれ。あやつはお主を馬鹿にしたのではないぞ。将棋家全体を案じてのことを申したのだろう」

「仮にそうであったとしても師匠に意見するなど門弟風情が差し出がましいことです」


(こいつ昔は素直で可愛かったのに……なんでこんなひねくれたおっさんになってしまったんだろうな)


「なぁ、宗与」

「なんです?」

「覚えておるか。おぬしがまだ少年だった頃、儂と練習将棋をしていた時に互いの夢を約束したことを」

「……覚えています」

「おぬしがこれまでしてきたことは将棋の発展にきっと繋がるはずだ。世間に将棋家の定跡を普及させてしまったことでおぬしが気に病むことなど何も無いのだぞ」

「……」

「焦燥から後輩達に厳しく当たるのもよく分かるが、世の流れに逆らえぬ部分もある。儂たちの時代はもう……」


「そろそろ考えないといけませんね。来年の御城将棋のお手合わせ」


 ……

 …………

 ……………

 伊藤宗看と大橋宗与が同時に驚いた


『鉄仮面が口をきいた』



 九世名人大橋宗英の嫡子、大橋宗与は棋才に恵まれなかったため苦労が多かった。

 だが、父である「鬼宗英」の棋譜を深く読み解き、これを世に広く知らしめるために棋書の出版事業に励んだことは、将棋の歴史において偉大な功績と言っても良いだろう。

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