第十九話 錦旗

 ――壱――

 俺と菱湖りょうことの対局が決着したのをきっかけに玉枝たまえ錦棋きんきちゃんも座敷へ入ってきた。

 どうやら部屋の外で勝負の行方を二人で見守っていたらしい。

 玉枝はすぐに菱湖の傍に寄り「大丈夫か」とやさしく気遣った。

 錦期ちゃんも姉の様子に不安そうだ。


「菱湖、大丈夫かえ?」

「……うん、大丈夫ちょっと疲れただけだから」


 錦旗ちゃんはそれでも心配なのか菱湖の手をぎゅっと握りしめて離そうとしない。


 東伯齋が突然立ち上がって、こちらを睨みつけるようにして言い放つ。


「ほな、二人とも五日後の夜に儂と付き合ってもらうで」

「一体どういう用件なんですか」


 宗歩がたまらずに聞いた。


「なぁに簡単なことや。天満てんまで月に一度の将棋の催し物があってな、儂はその取りまとめをやっとる。」

「将棋の催し物……」

「大坂の町衆から農家まで大勢の人間が将棋を見物しにくるんや。その催し物にあんたらにも登場してほしい思っとる」

「なんだ。それならそうと初めから言ってくれたら」


 俺がほっとため息をつく。


「あんさん、初めにそれ言うたら菱湖と真剣勝負をせえへんと思てな」


 あ、なるほどね。確かに。


 宗歩に聞いた話では将棋家の面々も全国に出張して在野棋士を相手に指導対局を行うことがあるらしい。

 ただし、この普及活動はどちらかというと在野棋士に将棋家の権威を見せ付け畏怖させることと地方の有力者に財政支援を求めるような狙いがあって、宗歩は好きではなかったそうだ。


「それまでは適当にしてもらってもええで」


 それだけ言い残すと東伯齋は部屋を出て行ってしまった。


 将棋の催し物っていったい何なんだ……


 東伯齋と入れ替わりに水無瀬さんが部屋に入ってきた。


「皆さん大変お疲れ様でした。夕餉ゆうげを作りましたので宜しければ食べてってください」

「それがええわ。そうしいな」

「わっちもうれしい」

「ぼくも…」


 そういうことで俺たちは小林家の晩御飯にお邪魔することになってしまった。

 なんだか変な展開になってきたな……


 ―—弐――

 そして……五日後の夜がやってきた。


 俺達は東伯齋の屋敷を再び訪ねてそのまま彼と一緒に天満まで歩く。

 1時間ほど歩き続けたら、がやがやと人だかりができている大きな屋敷が見つかった。


「ここは……」

「洗心洞といってな。まぁ私塾や」


 東伯齋はさらりとそれだけ言って、すいすいと人混みを切り分けて進んでいく。

 武家屋敷を大幅に改築した建物で中に道場のようなものが造作されているらしく、玄関口からそのまま大人数を収容できるようにしてある。


「こっちや」


 東伯齋に案内され屋敷の裏口に回ると、この家の者と思わしき下男が待っていた。


「小林先生、毎度おおきに。お待ちしておりました」


 その男は流暢な話し方で俺たちをそのまま裏口から屋敷の中へと通す。

 そうして道場の裏側にあたる控えの間でそのまま待機するよう言われた俺たちは暫くじっと待っていた。


「ここはな、普段は陽明学っちゅう学問を教える塾なんや」

「その塾でどうして将棋をするのですか」


 宗歩がもっともな質問を東伯齋にぶつけた。

 こいつは本当に素直でよろしい。


「まぁ、息抜きやな。ここの塾は普段は相当厳しいからな。それだけでは民の心は掴まれへん。たまには娯楽も大事っちゅうことや」


 他にも上方落語の寄席なども行われることがあるらしい。

 娯楽に厳しい昨今のお上の風潮を考慮すれば、こういった目立たない工夫をすることも必要ということなのだろう。

 そんなことを喋っていると、道場のほうがなにやら騒がしくなってきた。


「さてみなさん、大変お待たせしました。毎月恒例の将棋振興会の始まりでございます。なんと本日ははるばる江戸から有名な先生をお招きしております」


 先ほどの下男が道場の中で一つ分高くなっている高座の側に立ちながら聴衆に向かって口上を述べ出した。

 だれや、だれやと観客からはヤジが飛ぶ。


「かの将棋家で『麒麟児』と謳われた大橋本家の天野宗歩先生と市川太郎松先生です」


 俺は勝手に宗歩の弟子にされてしまった。

 おお、と観客がどよめきだす。


「では先生方、どうぞ」


 パチパチパチ

 俺と宗歩が観客の拍手を受けながら高座の真ん中に立つ。


「ど、どうも皆さん、は、はじめまして。天野宗歩です」


 宗歩が滅茶苦茶ぎこちない挨拶をする。

 そこに大橋本家五段格の威厳は……全くなかった。


 緊張しすぎやがな! と誰かがツッコミを入れると、がははと周りも笑いだす。


 ま、まずい宗歩がもう泣きそうだ。顔が真っ赤になっている。

 こいつはもともとこういった場所に慣れていない。

 俺は堪らず救いを求めて東伯齋の方を見る。


 東伯齋も腹を抱えて笑っていた——


 く、くそぉ……奴は俺たちを笑いものにする気か。

 卑怯卑劣なり小林東伯齋!


「さて、まずは天野先生には『大阪名人』であらせられる小林東伯齋先生と一局指していただこうと思ております」


 な、なにぃ。公開対局だとぉ。


 司会の男がそう言うと数人の下男がやってきて、あっという間に高座に将棋盤と座布団が用意された。


「では天野先生、小林先生、ご準備をお願いします」


 突然の対局宣言に動揺しながらも盤の前に座ればさすがは麒麟児、落ち着きを取り戻したようだ。


『よろしくお願いします』


 二人が呼吸を合わせて頭を下げる。

 さすがにうるさかった観客もこのときばかりは静まり返っている。

 △3四歩、▲2六歩、△5四歩、▲2五歩、△3三角、▲4八銀、△5五歩……

 小気味よく二人はどんどん指し続ける。

 そのとき、

「はい、ではお二人ともそこで止めて!」となぜか司会が対局を止めた。

 なんだ、一体何が起きたんだ……。


「では皆さんここで天野宗歩先生の次の一手を予想してみましょう」


 はぁ?

 よ、予想って……なんじゃそりゃ。

 勝手を知っているかのようにわいわいと皆が相談をし始める。

 宗歩も相当困惑しているようだ。


「候補手は三つに絞りましょうか。それでは市川先生、候補手を二つお願いします。三つめは『それ以外』としますので」


 いきなり振られた俺は、取りあえず俺ならこう指すだろうという手を二つほど告げると、下男たちが大きな紙に筆でそれらを書き出し壁に張りつけた。


「さぁ皆さん、どの手が次の一手かご投票を願います!勝ち残った方だけが次の問いに進めますからね」


 どうやら参加者の中には将棋に詳しくない女や子供達も混ざっているようだ。

 なるほど、こうすれば棋力に乏しい者であっても十分楽しめるという訳か。

 そういやぁ、子供のころ俺が縁台将棋を指してたら、後ろで親父さんたちがああでもない、こうでもないってみんなで楽しそうに話し合ってたなぁ。

 この後も何度かそういったことが繰り返され、対局はとうとう終局に近づいた。

 宗歩が、▲5八銀と指したところで東伯齋が「ありません」と頭を下げる。


 その瞬間、観客が二人を讃えて盛大な拍手をする。

 なんだろうこの一体ライブ感は。

 初めて感じる感覚だ。


「天野先生、小林先生ありがとうございました。さてお次の演目は市川太郎松先生と参加者のどなたかで対局を行いますよ。なお、市川先生の方は『目隠し将棋』でお願いします」


 なぬ。

 目隠し将棋とは盤面を見ずに符号だけで指す将棋をいう。

 俺や宗歩ぐらいになると造作もなくできるのだが……

 突然、横にいた東伯齋が小声で俺に囁く。


(ええな、途中で手を抜いて負けるんやで)


 な! なんだとぉ。そんないかさまを……


(一晩付き合うっちゅう約束やろ)


 ぐぬぬ。


「おっと市川先生、そこに飛車を進めるとタダです!これはあきません。あーっとやっぱり飛車をタダで取られてしまったぁ」


 司会の饒舌な解説に、観客が腹を抱えて笑いだす。

 自分の将棋は真剣勝負であって殺し合いに等しい。

 決して見世物などではない。

 そんな抵抗感が最初はあったが俺はふと思い出した。


 子供のころ近所の親父たちと将棋を指していたころだ。

 彼等は駒の動かし方すら覚えたての俺にわざと手を抜いて勝たせてくれた。

 ああ、将棋って楽しいなぁ――

 そんな素朴な感情が芽生えたのをはっきりと覚えている。

 いつの間にか賭け将棋に揉まれて生活の糧となってしまったが、

 あのときのように俺は将棋の本来の楽しさを思い出した気がした。

 将棋は勝ち負けを競うものではなく、単純に娯楽として生まれてきたはずだ。

 なのに俺たちはいつの間にか必死になって勝ち負けに拘っていたのかもしれない。


 そうして会合が終わると観客はそろぞろと帰っていった。


「楽しかったよ。ありがとう。お兄ちゃん」


 と嬉しそうに話す幼い男の子の顔が、俺の頭からいつまでたっても消えてくれない。


 俺と宗歩が茫然と立っていると、そこに一人の初老の大男がやってきた。


「本日はこのような下々の催し事にご参加いただきありがとうございました。お二人の奮闘ぶりをとくと見させていただきました。」


 大男はそう言って、深くお辞儀した。


「初めまして。私は大塩平八郎と申します。この私塾の塾頭を務めております」

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