第三十一話 魔性
「あなたの屋敷に連れてって頂戴」
池田菊の突然の申し出に、大橋宗珉がぎょっとする。
「いろいろと教えてもらいたいことがあるの」
「なにを?」
「将棋家のことよ」
「俺に? 師匠に聞けばいいだろう」
「あの人……なにもしゃべらないのよ……」
(まぁ確かに身内の話をべらべらと喋るようなお方ではないだろうな)
「……一体何のために?」
「なんだっていいでしょ」
菊はなぜか不機嫌そうな顔をした。
どうやら一歩も譲る気はなさそうだ。
確かに宗珉は対局を約束したが、自分の屋敷に連れて行くとは一言も言っていない。
だが一方で、この場で菊と将棋を指すのは伊藤家の目もあって少々やりづらいのも事実。
それに宗珉は、この少女が裏に何か秘めた物を隠していると確信していた。
それを確かめるため、ここは大人しく引き下がって、屋敷へ連れていく方が良いだろうと判断した。
定例会が終わったあと、宗珉と菊は屋敷を別々に出て、細い路地へと入った。
そして往来の激しい大通りを通り過ぎ、予め定めておいた稲荷社の前で二人は再び合流する。
屋敷までの道すがら、菊は宗珉にさっきから気になっていたことをまず尋ねた。
「さっきも聞いたけど、あなたは江戸で今一番強いのでしょう?」
「そうかもしれないが、私など天野宗歩様に比べれば足元にも及ばない」
宗珉は、天野宗歩にこれまで五連敗している。内容も完敗に近い。
段位は同じ五段格であるものの、今のところその実力差には天地ほどの開きがあると宗珉は考えていた。
「ふーん、宗歩様ってどんな人?」
「とても聡明で強いお方だよ」
「ほかには?」
「……そうだな。すごく不思議な方だった。将棋を指しているときと普段とで雰囲気がぜんぜん違う。そう、普段はお優しくて気さくなのに、将棋を指した途端、鬼のように恐ろしい顔をする」
「そう……。私も会ってみたいわ、天野宗歩様に」
「無理さ。昨日の話を聞いただろう。あの方は今、将棋家を敵に回そうとしている」
「ええ、それなら敵としてでも戦ってみたいのよ」
強い者と戦いたいという菊の純粋な気持ちが、宗珉の胸をちくりと刺す。
宗珉にもそういった気持ちがないと言えば嘘になる。
だが、将棋家の中で生きる以上はその気持ちを押し殺し、他を優先させることが求められる。
菊が将棋家にいるかぎり、宗歩やその弟子たちと正々堂々と戦うことは難しいように宗珉には思われた。
二人はそんな話をしながら歩き続け、大橋分家の屋敷にようやく到着した。
伊藤家の立派な白亜の屋敷を見た後だと、宗珉には何の変哲もない我が家が余計みすぼらしく見えた。
昔はこの分家にも住み込みの門人が何人かいたが、今は通いの門人だけだ。
今日は定例会だったため、こちらに戻って来ることはないだろう。
父の宗与は数日前から遠方に出張しており、母は幼少の頃に亡くしている。
屋敷には女中がいるだけだ。
父と二人で暮らすにはいささか広すぎるその屋敷の玄関で、宗珉はその女中を呼んだ。
が、何度呼んでも出てこないところで、女中がいつもこの時間に出かけていることに気づいた。
(しまったな。これじゃぁ二人きりじゃないか)
年頃の娘を屋敷に連れ込んだとなれば、あとあと面倒なことにもなるかもしれない。
宗珉は今になって慌て始めた。
しかたがないので早々に引き取ってもらおうと考え、宗珉は菊を応接用の広間に通し、自分はそそくさと自室へ行く。
大橋分家に来たからには、大橋宗英名人の古棋譜を是非とも見たかったらしい。
「宗英名人の棋譜はこれだ。全て写本だがな」
宗珉は自室から持ってきた私物の古書を菊に渡す。
「ありがとう」
菊は写本をゆっくりと捲りながら何かを考えている様子だった。
先ほどから宗民が何か言いたげに菊をじっと見つめている。
「なに? そうやって見られるとすごく気になるんだけど」
「おまえ、いくつだ」
「あなた……、女に年なんて聞くもんじゃないわ」
最初十代に見えたこの少女が、宗珉には今は自分よりも遥かに年上に見えてきたのだ。
両膝に古棋譜を乗せて、思案を巡らす菊の姿は、とても知的で美しかった——。
「何故将棋家に来た?」
「……」
「本来ならば女は将棋家に入門できぬはずだ。なにか特別の故あって来たのだろう。お前は一体何者だ?」
宗珉はこの娘が単に将棋を習いにきたわけではないことに気づいていた。
なにより上野房次郎に発した殺気が尋常ではなかった。
ただの町の娘に出せる代物ではない。
おそらくなにか深い業でも背負って生きてきたのだろう——。
「鋭いわねあなた。伊藤家のぼんくら御曹司とはえらい違い」
「誤魔化すな」
「将棋を習いに来たのは本当よ。安心してあなたの敵ではないわ。それよりも教えてくれないかしら、将棋家のこと。私すごく興味があるのよ」
「特に話すことなど何もない。だが、お前も話すと言うならば話してやってもよい」
「うふふ、わかったわよ。後でちゃんと話してあげる」
菊がころころと笑っている。
先ほどからこの娘は宗珉の調子を狂わせてばかりいる。
宗珉は自分の頭の上にぼんやりと霞がかかっているような気がして軽い眩暈を起こした。
このときのことを後で振り返った宗珉は自分の判断能力が正常でなかったことを認めている。
「将棋家はいま瀕死の状態だ」
「瀕死って……。ねぇ、将棋家ってどうしてそこまで弱くなったの?」
「将棋家が定跡を独占できなくなったからだ」
「定跡を独占?」
「私の祖父の大橋宗英名人のころまでは、全国の在野棋士の棋譜が支所を通して将棋家に集められていたそうだ。私たちはそれを調べ上げ、研究を重ねて新たな定跡を秘伝として溜め込んできた」
情報の独占——
意図的に情報を与えずに、他者を愚者に陥らせることで、意のままに支配する。
「将棋が強くなりたければ、将棋家に入門するしかなかった。秘伝の中には口伝されるものすらあったからな」
「定跡を独占できなくなったのはどうして?」
「将棋が広く普及したのが大きいな。もはや将棋家だけでは管理できないくらいの大量の棋譜が全国各地で日々量産されている。これを在野棋士たちが独自で研究し、徐々に出版し始めた。噂だが、地方の在野棋士の中には独自で戦法を開発した者もいるらしい」
田沼時代は
将棋もこの例に漏れず庶民層に爆発的に広まり、結果として賭け将棋が横行した。
人というものは分かりやすい。
将棋がただの遊戯にとどまらず金儲けになると知れば、皆が躍起になってこれを研究し出した。
在野棋士の定跡書も当初は誤りが多く、内容も古かった。
だが、その定跡書を見た別の在野棋士が手を加え、それを見た別の在野棋士が……たった数十年の間に在野棋士たちの実力は一気に向上する。
将棋家は、この目まぐるしい社会変化を指をくわえて見ているほかなかった——
もはや、将棋家に入門せずとも定跡を学べることは常識になりつつあり、ここに至って将棋家の情報独占は瓦解したのだ。
「極めつけは、大橋宗英名人の遺言を受けた父が、将棋家の秘伝まで公開してしまったことだろうな」
「将棋歩式」、「将棋定跡集」、「将棋相懸集」、「将棋早指南」
大橋宗英の棋譜を徹底的に研究し、それまでの将棋家の秘伝を加えた究極の体系書——
「どうしてそんなことをしたのよ? ずっと隠しておけばよかったじゃない」
「たしかにな。だがそれも時間の問題だろう。人の口に戸は立てられん。秘伝に価値があるうちに公開して一儲けしようとしたんだろう。まさに身を切る思いだったろうな」
「あなた……他人事のように言うわね」
実際、この秘伝書の発行により将棋家には莫大な収入が転がり込むことになる。
将棋家の俸禄は二十石しかない。
それだけで多くの門人を抱えたり、幕府高官たちと交際することは難しい。
何かまとまった副収入が必要なのだ。
「今の在野棋士達の棋力は相当高い。なにせ、去年の御城将棋から将棋家以外の在野棋士も登城するようになったくらいだからな」
「でもあなたたち将棋家が勝ったんでしょう?」
「ああ…勝つには勝ったさ」
「どういうこと?」
「私たち将棋家は——」
決して一人では戦わないんだよ、と宗珉は苦々しくそう言った。
「はぁ! それってどういうことよ!」
「御城将棋は事前に全部指してしまう。これを「下打ち」と言う。対局時間はほぼ無制限にある。一手に数時間かけて長引かせて、夕刻になればそのまま指し掛けにしてしまう」
宗珉が——ひどく憂鬱になり始めた。
ああ、嫌だ、嫌だ、もう嫌だ。
菊に話すごとに自分の身体がどんどん汚れていくように感じてしまう。
「そして——夜に将棋家の者達が集まってその指し掛けの局面を徹底的に研究する」
菊は宗珉の話を黙って聴いている。
だが、その瞳には怒りとも侮蔑ともつかない感情が潜んでいた。
やめろ――そんな目で俺を見ないでくれ。
「翌朝にはその研究結果に基づき指し手を進める。在野棋士は何もできぬまま敗れ去るというわけだ」
「そんなの卑怯じゃない、いかさまだわ! 相手は正々堂々一人で戦っているのに……」
「だが、将棋家を守るためには仕方のないことだ。たかが在野棋士ごときに将棋家が負けたとなればその権威は失墜するからな」
二人が口を閉じてから、どれほどの時間が経っただろうか。
だだっ広いだけの部屋に夕陽が深く指しこんでくる。
鴉がどこか遠くで寂しく鳴いていた。
「そんなこと私は絶対に許さない」
それだけ呟いて、菊は真っ直ぐに宗珉と向き合った。
――違うものを違うと言えるこの少女の心は自分なんかよりもずっと強いのだろう。
「……たしかにな」
「え?」
「お前のいうとおりかも知れん」
「……あなた、意外と素直なのね」
「そうか?」
「ねぇ? 腐った将棋家を救う方法は無いものかしら?」
「そうだな……将棋家の権威を取り戻し、正道に戻るということであれば――」
天野宗歩を倒すことかもしれないなと宗珉は呟いた。
「倒せるの? あの天野宗歩を……」
「わからん。だが、あれは――」
化け物だと宗珉は呻いた。
言った瞬間、宗珉の身体に悪寒が走った。
御城将棋で天野宗歩に敗北し、破滅する自分を想像したからだ。
二百年続いた将棋家を、たった一つの敗北により自分が死にいたらせる――
宗珉は、
さっきまで将棋家など滅べば良いとうそぶいていた宗珉だったが、その実、将棋家に一番取り憑かれているのは自分なのではないかと気づいた。
「負けるのが怖い?」
目の前の少女に心の中を不意に覗かれ、思わずこくりとうなづいてしまった。
白くて細い菊の手が、宗珉の頬に差し伸べられる。
「きっと大丈夫よ。あなたは勝つわ――」
そう耳元で囁いて、彼女は宗珉の唇に優しく口づけした。
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