第三十話 神童
「よろしくね! お・ば・さ・ん」
茶目っ気顔の上野房次郎が、池田菊に挑発的な言葉を投げかける。
房次郎としてはさして悪気のないものではあったが、悪ふざけが過ぎた。
「……殺す」
「うへっ!」
菊が発する凄まじい殺気を感じ取って、房次郎は思わずたじろいだ。
「菊が初日のため平手(ハンデなし)とする」
伊藤家師範代の
将棋家の入門者は初日に平手で指して、実力を計られる。
初日にいきなり初段を允許される神童も過去に存在した。
ここで成績が悪いと低級から始めることになり、一つずつ階段を上がらなければならない。
そういう意味で、この戦いは菊にとって負けられない勝負である。
菊が五枚の歩を手に掴み、手中で振り混ぜ、盤上へ静かに落とす。
ジャラ——
「歩が三枚、私が先手ね」
「はーい」
振り駒の結果、菊が先手。
振り駒とは、先手後手を決める方法である。
表(歩)が多く出れば先手、裏(と)が多く出れば後手となる。
真剣な顔つきの菊に対し、房次郎はこれから手遊びでもするかのよう。
さっきまで菊に気圧されていたことなどすっかり忘れているらしい。
憎たらしいほど将棋が強い子供は、大体こんなものである。
房次郎と菊が深く呼吸を合わせて、一礼をする。
『よろしくお願いします』
▲7六歩△3四歩▲2六歩……
先手の菊が「居飛車」を選択した。
さきほどまでニコニコしていた房次郎の顔つきが一気に勝負師になった。
(のこのこやってきたような奴に、平手で負けるわけにいかないんだよ)
房次郎とて、ここで無様に負ければ養子の話が流れるかもしれない。
そんなことは絶対に許されないのだ——
房次郎は上総の農民の子だった。
「だった」と書いたのは、房次郎の家族はもうこの世にいないからだ。
日照りの大飢饉で、父も母も兄姉も家族全員を失った。
一番下の房次郎だけがなぜか生き残った。
が、食う物はどこにもなく、草や木の皮をしがみながらじっと助けを待った。
空腹で眩暈がひどくなり朦朧としてくる。
猛暑で脱水症状まで進行してきた。
いよいよ自分も死ぬのかと、房次郎はゴロンと仰向けになって覚悟を決めようとした。
が、怖くてできない。
人は簡単に「死ぬ」なぞ言うが、考えただけで恐ろしくて狂いそうになる。
房次郎は、死ぬのは嫌じゃと最後の力を振り絞り、家の外に転がり出て、
「助けてください!」
(死にたくない! 死にたくない!)
それこそ泣きながら必死に叫び続けた。
奇跡とはまさにこのことだろう。
偶然にも視察のためこの地にやってきた藩の巡見使達がこの声を聞きつけたのだ。
将棋の神様は、この童を選ぶことにした。
宿命に抗い、自分の力で生きることを選択した勇気あるこの子を——。
そして彼は「神童」になった——
房次郎はこの世の本当の地獄を知っている。
それに比べれば将棋家の修行などたかが知れていた。
一度手にしたこの幸運を二度と手放すわけにはいかない。
さて、将棋には大きく分けて二つの戦法がある。
居飛車とは、飛車を右翼(2~4筋)に配置する戦法。
振飛車とは、飛車を左翼(5~8筋)に配置する戦法。
房次郎が、飛車を振れば「居飛車」対「振飛車」となり、居飛車を選択すれば、「相居飛車」となる。
△4四歩▲2五歩……
房次郎も「居飛車」を選択したため、「相居飛車」が決定した。
この後もいくつかの「戦型」に分かれることになるが……。
△3三角▲4八銀△3二銀▲6八玉△5四歩▲5六歩△8四歩▲7八玉△8五歩▲7七角△5二金右……。
どうやらこれは「相矢倉」の戦型になりそうだ。
「矢倉」は最も古い戦型のひとつで、初代大橋宗桂の頃から古棋譜に登場する。
「矢倉」の語源だが、
①玉将を囲む金銀の形が「物見櫓」の形に似てる説
②大坂の「やぐら」さんが得意だったから説
など諸説あり。
もちろん個人的には②を押す。
相矢倉戦は、すべての駒を活用する戦型なので、総力戦となることが多い。
序盤は、互いの王将を金銀でゆっくりと固め合い、比較的穏やかな展開。
中盤は、歩の突き捨てを開戦の狼煙に、飛車・角行・銀将・桂馬の攻め駒が躍動する。
瞬く間に盤上のあちこちで戦火が上がり、一気に終盤へと突入する。
互いの玉将が矢倉城へと入場した——
開戦の用意は整った。
まずは菊が先攻した。
バチィン!
四七手目▲4五歩
駒を人差し指と中指で挟み、指をしならせて一気に盤面へと振り下ろす。
冴えわたる音が響き、一瞬だけ駒が盤面に貼りつく。
「将棋の実力は駒の扱い方を見ればわかる」
名人伊藤宗看の言葉である——
子供のころから数え切れないほど駒を掴んできた者だけができる美しい所作。
この所作だけで菊がこれまで血のにじむような努力をしてきたことが伺い知れた。
菊が歩を突き捨てて開戦の合図を出し、△同歩に▲同桂と跳ねた。
「桂馬の高跳び歩の餌食」という格言がある。
桂馬は機動力のある駒だが、守備力が弱い。
勢いよく戦場に飛び出した結果、最弱の歩兵に掴まることを皮肉る格言だ。
何事も慎重すぎて丁度良い——
4五の地点にいる桂馬が戦果を挙げれば良いが、失敗すれば途端に菊は不利になる。
桂馬の高跳びは勇気のある一手なのだ。
その後も小駒を交換し合いながら、じりじりと力を一点に集約させていく。
ギリギリのところまで力を溜め、盤上の均衡はもうすぐ破裂するだろう。
徐々に駒同士がぶつかり合い、一触即発といったところだろうか。
ここで、房次郎の猫のような目が一瞬光った。
バチィ!
六十二手目△3七銀打!
急転直下、房次郎が駒台に置かれた銀将を相手陣に打ち込む。
飛車と銀将の両取りを狙っているのだ。
菊が日和って飛車を逃がせば、銀の丸損が生じて一気に敗勢となる。
「ふふん。どうさ」
房次郎が得意げに挑発を飛ばした。
この少年は棋才に恵まれてはいるが、天狗になるところがあるらしい。
菊は下唇を噛んで盤面を睨みながら、「うん」と頷く。
(飛車はあなたに差し上げるわ……その代わり……)
飛車を奪われている隙に、敵陣へ銀将を突っ込ませた。
ダン!
▲5三銀成!
中央にいた菊の銀将が単騎で敵陣深くへ駆け抜ける。
そして——開戦時に跳ねた4五の桂馬とこの銀将が繋がり合った。
菊は一瞬で、房次郎の喉元にがぶりと喰らいついた――。
「あなたの首をもらうわ」
「ぐはっ!」
房次郎が初めて苦しそうな顔を見せた。
なんとか歯を食いしばり、読みを深く入れ、△同銀と応酬する。
房次郎は少しまずいと判断し、勝負手を探し始めていた。
が、それさえも許すまじと菊の細い手が高く振り上げられて鞭のようにしなった。
バシぃぃぃぃぃ!
▲7一角打ち!
菊が駒を盤上に強烈に打ち付ける。
「先ほどのお返しよ」とばかりの飛車と金将の両取りだ。
房次郎は、心の動揺を気づかれないようにするため反射的に応手する。
△7二飛車打ち
飛車が真横に二つ並ぶ珍形。
しかし、ここは△5二飛と横に逃げていればまだ互角だった。
菊の気迫におされて、房次郎は悪手を指してしまったのだ。
房次郎も指し盛りとはいえまだまだ子供、修羅場の数では菊のほうが一枚上手だったらしい。
「くそぉ! こっちは負けられないんだよぉぉ」
悪手に気づいた房次郎ではあったが、時すでに遅し。
なりふり構わず暴れるほかない。
桂馬、歩と持ち駒の全部を前線に投入して猛烈に攻めかかった。
菊も、ここで受け間違えば途端にひっくり返されることは承知の上。
落ち着いて、小刻みに読みを入れながら対処していく。
このあとも二十手近く、房次郎が攻め続けた。
が、なかなか菊は崩れない。
房次郎の攻めが少しづつ細く、鈍くなり、とうとう息が上がり始めてきた。
その瞬間——
「とどめよ」
菊が全く音も立てずにスッと歩を進めた。
百五手目▲3四歩
「ひぃ、く、来るな!」
房次郎がむやみに振り回す大太刀を掻い潜り、小太刀で相手の喉元に突き立てる——
菊はその後も、粘るだけの房次郎にひたすら連撃を放ち続けた。
百五十五手目の▲3五桂打ちを見て、房次郎が投了する。
「うわーん」
突然、房次郎が天井を見上げて泣きだした。
「え?」とびっくりして菊が目を丸くする。
周りの門下生たちは「やれやれまたか」と呆れていた。
「泣きの房次郎」
房次郎は負ければ必ず泣く。
泣いて泣いて、悔しがる。
そして泣き止んだあと、一度泣いた相手には二度と負けないと心に誓う。
「将棋に負けて泣く子は強くなれない——」
伊藤家にはそんな言い伝えが昔からあった。
これは「強くなる子は泣かない」という意味では、ない。
将棋に負けて泣く子は将棋を辛く思う。
辛い思いをし続ければ、いずれその子は将棋を厭いだす。
そして、伊藤家を去ることになる。
だから、将棋に負けて泣く子はほとんどが強くなれない。
しかし、その中でも極ほんの一握りの子供だけが泣き続けながら指し続ける。
誰に言われる訳でもなく、泣いても泣いてもそれでも歯を食いしばって指し続けるのだ。
そういった子供だけが「本物」になる、というのが真の意味だ。
全国の神童たちを二百年間見守ってきた伊藤家ならではの教訓かもしれない。
房次郎は負けて負けて泣き続ける。
そして歯を食いしばり立ち上がる。
そんな姿を見た伊藤宗看が、これぞと惚れ込んで養子に迎えたのだ。
突然、なにやら稽古場の外が騒がしくなった。
屋敷の母屋の方で誰かが騒いでいるらしい。
「親父! 親父はどこだ!」
怒号のような男の声がここまで響いてきた。
「ぬぅ。あやつめ帰ってきおったか……」
伊藤宗看が苦虫を噛み潰したかのような顔をして、腰を浮かす。
「宗珉殿、すまぬがしばらく失礼いたす」
そう言い残して、伊藤宗看と伊藤宗壽は稽古場からそそくさと出て行ってしまった。
——弐——
伊藤宗看達が走りながら母屋に戻り大広間に辿り着くと、そこには一人の男が門人たちに詰め寄っていた。
その男は宗看の顔をみるやいなや、
「おう、親父いたのか。本家の上野房次郎を養子に取ったってのは本当か? 俺は一体どうなるんだ!」
宗看が不快の色を浮かばせて、眉間に皺をぐっと寄せる。
「おぬし、いまさら何をしに帰ってきた……」
伊藤宗看に食らいついてきたこの男の名は、伊藤金五郎——。
伊藤宗看の三男だ。
伊藤家は長男、次男と立て続けに死なれて、三男の金五郎が思わず嫡子候補となった。
だがこの男、もともと素行が悪く、賭け将棋に手を染めている噂がかねがねあった。
真偽の沙汰は不明であるが、伊藤宗看としては名人として将棋家を守るためにも、早々に金五郎を退けて別に養子をとることを決意した。
その話をどこから聞きつけてきたのか、金五郎が伊藤家の屋敷に乗り込んできたわけだ。
「親父! 俺を勘当する気か?」
「今まで好き勝手に生きてきおったくせに。おぬしなんぞにもはや居場所はない」
「くそぉ! ふざけんな!」
父親に殴りかかろうとする金五郎に慌てて、叔父の伊藤宗壽が止めに入る。
「き、金五郎様、おやめください! 誰かであえ!であえ!」
金五郎は、伊藤家の門人達にしょい担がれて玄関先まで連れ出されてしまった。
「全く鬱陶しい奴め。おい、塩でもまいておけ!」
「何か外が騒がしいわね。あなた何か知らないの?」
菊がようやく泣き止んだ房次郎に尋ねた。
「僕も良く分からないよ……ぐす」
「ふん、全く意気地のない子ね。男の子でしょ。いい加減に泣き止みなさいよ」
菊が房次郎の頭をコツンと拳骨で打ちつける。
仕方がないわねと菊は、稽古場の師範席の方にずかずかと歩み寄っていった。
そしてそこに座っていた大橋宗珉に、
「勝ったわ」
宗珉も先ほどまで菊の後ろから対局の様子を見ていてた。
「ああ、勝ったな」
「約束どおり私と手合わせして」
「いきなりだな」
「だって、宗珉様は江戸で一番お強いって有名よ。師匠に聞いたわ」
「ならここで一番指すか」
菊はうーんと首を少し傾げて、
「それもいいけど。できればあなたの屋敷に連れてって頂戴」
と思い切って申し出た。
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