第二十九話 将棋家定例会

 屋敷を出た瞬間、大橋宗珉おおはしそうみんは深い溜息をついた。

 ここ最近、ひどい憂鬱に悩まされていたからだ。


 宗珉にはこの憂鬱の原因について思い当たる点がいくつもあった。


 まずなによりも御城将棋に出仕することが嫌でたまらなかった。


 父の宗与は、「誉れあるお役目」と大層喜んでいたが、宗珉には御城将棋がそのようなものに到底思えなかった。


 御城将棋は、将軍御前と言いながらここ数十年、将軍が謁見したことなど一度もない。

 老中たちも数分程度対局を見学したきりでそのまま戻ってくることはない。

 数日かけて死にもの狂いで指した名局も、将棋に興味がない者からすれば意味不明な遊戯にすぎないのだ。

 それに、下指ししておいた棋譜を並べるだけだから張り合いがない。

 余った時間に物好きな幕府高官と指導対局をすることもあるが、これも接待将棋で、真剣勝負と呼べる代物ではなかった。


「そもそも、あ奴らは将棋に関心がないのだ」


 幕府そのものが揺らぎつつあるこの時代に、将棋なんぞに関心を寄せるほど彼らに余裕はない。

 それでも幕府が御城将棋を続けたのは神君家康公から続く伝統という、ただそれだけの理由にすぎなかった。


 宗珉は一人で大通りを歩きながら俯き、ぶつぶつと不満を呟いてる。


 宗珉は、御城将棋だけでなく将棋家の人間も嫌悪していた。

 将棋家の俸禄や土地屋敷を管轄する寺社奉行を常に恐れ、その顔色を終始うかがう当主たちを見て幻滅したこともある。

 一方で将棋家の中には、立場の弱い門下生や在野棋士に偉そうな態度を取る者も少なくなかった。

 そのくせ、幼少の頃に将棋が弱かった宗珉をあざけ笑った彼らが、今となっては卑屈な顔でお世辞を言ってくるの見ると、吐き気を催すことさえある。

 なによりも宗珉は、息子に才能があると分かった途端、態度を翻した父のことを最も軽蔑していた。

 強者には媚びへつらい、弱者には横柄に振る舞う彼らを見て、怒りを通り越して憐れみすら感じてしまう。


 要するに、なにもかもすべてが形骸化しているのだ。

 気が遠くなるほどの長い年月をかけて家元制度そのものが疲弊し切っている。

 一度手にした餌にしがみつき、変化を拒み続けた結果、そのまま命が果ててしまう虫けらのように。


 だが宗珉は、そんな厭わしい将棋家から天野宗歩のように飛び出す勇気がない自分自身にこそ一番腹が立つ。


(自分は一体何のためにここまで強くなったのか?)


 もはや将棋家なんて滅んでしまえばいい――

 今日に至ってはそんな過激なことすら脳裏によぎる自分がいた。


(私は……もっと真剣勝負がしたい)


 瞬間、宗珉の頭の中に天野宗歩が思い浮かんだ。

 麒麟児として天才の名を欲しいままにした天野宗歩。

 その宗歩に一度も勝てずにいる自分が、今や「江戸最強」と謳われること自体、皮肉にしか聞こえなかった。


(宗歩様。私はあなたともう一度本気で戦ってみたい)


 宗珉がそんなことを鬱々と考えながら歩ていると、通りのその先に伊藤家の屋敷がかすかに見えてきた。

 白い壁に覆われたその巨大な屋敷は、斜陽にある将棋家にあってなお伊藤家の権力の大きさを分かりやすいほどに示していた。

 現役の名人を擁しながら、江戸に住む大名家、有力商家を支援者に持つ伊藤家の存在感は、分家の宗珉を圧倒するものがあった。


 毎月一度の「将棋家定例会」。

 門下生同士で手合わせを行い、その勝敗によって昇段を決める重要な機会だ。

 だが、その門下生も年々減少の一途をたどっている。


 宗珉が屋敷にたどり着くと、正面の門前に見慣れた少女がぽつんと立っていた。


 池田菊だ――


(先日のご当主会議にいた生意気な女か)


 宗珉は、まるで野良犬の前を通り過ぎるかのように鬱陶しそうな顔で、菊と視線を合わせずそのまま門に足を踏み入れようとする。


「ねぇ、あなた、大橋宗珉様でしょ?」


 突然、菊が宗珉に声を掛けてきた。

 宗珉は、娘の不躾な物言いに半ば呆れたかけた。

 が、この程度で怒りを見せてしまっては沽券に係わると思い、踏みとどまった。


「いかにもそうだが」


 宗珉はぶっきらぼうな返事を菊に投げ返して、構わず先へと進もうとする。


「待って。ねぇ、今日の定例会、私と手合わせしてよ」


(この娘はなにを言っているのだ。定例会は遊びではないのだぞ)


「冗談にもほどがある。手合わせの相手はすでに決まっている」


 そもそも五段格にある将棋家次期当主が、門下生同士の定例会で将棋を指すわけがないだろう。

 そんなことすらこの娘は知らないのだろうか。


 菊がぶすっとした顔で突っ立っているので、宗珉は彼女を無視することにして玄関口へと足を運んだ。


「じゃあさ! 私が今日の相手に勝ったら対局してくれる?」


 菊がどうしてそこまで自分に拘っているのか、宗珉には良く理解ができなかった。

 が、菊の今日の対局相手が誰なのか知っていた宗珉は、これ以上対応するのに面倒くささもあって迂闊に返事をしてしまった。


「ああ、いいだろう。ただし、勝ったらな」

「約束よ」


 菊はそう言ったっきり、稽古場のある方向へと走り去って行ってしまった。


(これは……早まったかな)


 ——弐——

 宗珉が稽古場に入ると既に五十人ほどの門下生が将棋盤の前に正座していた。

 稽古場の上座には伊藤家当主の伊藤宗看とその高弟達が連なって座っている。


「おう、宗珉殿。良く来たな。さあ、こちらへ」

「ははっ」


 鬱屈が激しい宗珉ではあるが、公の場に出れば自分を律することを弁えている。

 父の代理として出席する手前、乗り気でないが威厳を示すことも忘れない。


「今年の御城将棋、楽しみであるな」

「はい。精一杯お役目を務めさせていただきます」


 あれほど憂鬱のもとだった「御城将棋」を不意に持ち出されて、宗珉はさらにうんざりした気持ちになった。

 それでもかまわずに喋り続ける宗看に、適当に相づちを打ちながら、宗珉は視線を門下生の方へ逸らしていく。


 見知った者が多い中、一番奥に菊がいた。

 周囲の門下生が女が座っていることに驚きを隠せず動揺している。

 が、本人は全然気にしていない様子。


「それでは、例会を始める」


 定刻になったため、伊藤宗看の甥である伊藤宗壽いとうそうじゅが前に立ち、取り組みを次々と読み上げていく。


「池田菊!」

「はい」


 自分の名を呼ばれた菊は、そっけなく返事をして立ち上がった。

定例会に参加するのが初めてとは思えない落ち着きぶりに宗珉は感心した。


(あの女、なかなか肝がすわっているな)


「上野房次郎!」

「はい!」


 菊の横に座っていた少年が元気よく手を挙げて返事をした。


 菊が房次郎の方を向いて、鋭い眼光を放つ。


「わたし、絶対に負けないわ」


 房次郎は、敵意をむき出しにしてくる菊を見据える。

 そして、にやりと不気味に笑って、

「よろしくね! お・ば・さ・ん」

 と生意気に挨拶をした。

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