雪の巻

第四十五話 プロローグ

「御問合せの儀、例へば宗英は雪の白きが如く、宗歩は紅の赤きが如し――

 第十一代大橋宗桂」

 

 江戸八百八町、神田筋違にある長屋町。

 その目立たない裏長屋のひどく狭っ苦しい四畳半の部屋に、若い男と女が住んでいた。

 十月も終わりに近づいて、少しずつ寒くなってきた頃のことだった。

 閉じた木戸の隙間から土間を通り抜けて、冷たい秋風が容赦なく部屋に入り込んでくる。

 畳の上に寝転がっていた男の背中にも肌寒い風がふーっと吹きつけてきた。

 その部屋の一番奥側に、細身の美しい女が静かに座っていた。

 女は何も言わず自分の腹を手でさすり続けている。


 女の腹は、ぽっこりと膨らんでいた。

 臨月だと一目でわかるほどに。


 男の方は、さきほどから夢見心地。

 うつらうつらとしながら横になっている。

 女がそんな男に声をかけた。


 ――ねぇ、あなた。この子の名前、何にしましょうか?


 男は聞いていたらしく、ごろんと仰向けになって虚空を見つめた。

 瞼の中に納まった硝子細工のように美しいその瞳が、まるで空中に浮かぶ何kzを追い求めるかのように、ぐるりと弧を描く。


 ――そうだな。将棋でいちばん強い駒、『竜』の字を使おう。


 思いがけない言葉を聞いて、女が目を大きく見開いた。

 そうしてくすくすと笑い出したのだ。

 まったく、つくづくこの男の頭の中には『将棋』しかないらしい。


 ――あらまぁ、単純ですこと。でも……、もし女の子だったら『竜』という字はちょっといかめしくないかしら。


 女にそう切り返されて男は、少々困惑気味の顔を見せる。

 てっきり男しか生まれてこないと思っていたらしい。

 しばらく考え込んだ後、澄み切った目をした男が、

 ――よし。女だったら『柳』か『留』の字でどうだ? いや待て、『柳』は少し不吉だから、やっぱり『留』がいいな。


 男は空に向かって「留」の字を指で書いてみせた。

 女が、優しい目で自分の腹を見つめる。

 そうして手をあてて、幸せそうにさすりながら、

「お留……。とても良い名でございます」


 男は「ああ」とだけ言い、ごろりと女に背を向け目を閉じた。

 冷たい秋風がその顔に吹きつけてくることなぞ、一向に構いもせずに。

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