第二十三話 とある休日(後編)
―—壱——
「小林家の三女、
そう言って
と、突然横から水無瀬が割って出て、
「あなた。私から宗歩様に直接お話しさせていただきます」
「そうか……ほな、頼むわ」
水無瀬が説明を買って出たことが彼女の長女としての強い自覚を宗歩に思わせた。
東伯齋も妻の気持ちを察しているのかそれ以上何も言おうとはしない。
「
「はい……」
菱湖が何かを覚悟したかのようにコクンと頷いた。
遠くから聞こえる客の騒々しさが、一層この部屋の静けさを引き立たせる。
「宗歩様、菱湖は……女ではなく男なのです」
(な、なんだってー!)
太郎松は口をポカンと開けたまま茫然とした。
四姉妹の中でも一番女らしいと密かに感じていたのが菱湖だったからだ。
太郎松が宗歩の方を振り向くと動揺している素振りが見られない。
そう言えば、以前に宗歩が菱湖に関して気になっていることがあると言っていたことを、太郎松は思い出した。
どうやら菱湖と指導対局を重ねていくうちに薄々感づいていたのだろう。
水無瀬が俯きながらぽつぽつと語り始めた。
「菱湖の本名は『宗次郎』と言います。この子は、私の父と母が江戸に染料を買い付けに行った際に宿泊した寺院の里子でした」
「里子……」
「住職によれば、菱湖の産着には「宗次郎」という名が記され、将棋の駒を握らされていたとか……ただ、それ以外は……」
(宗次郎……将棋の駒だと……)
太郎松は、眩暈がしてきて額に手を当てた。
(ああ、また将棋だ。どうも俺の運命は将棋から逃れられないらしい)
水無瀬は無表情のまま淡々と話し続けた。
「父と母は男の子が欲しかったこともあり、そのまま菱湖を引き取ることにしたそうです。ところが、大阪に連れ帰ってみると菱湖は発熱を繰り返しました。原因はよく分かりませんでしたが生まれつき虚弱体質だったのかもしれません」
確かに菱湖は男と言わなければ分からぬほどに線が細く色も白い。
目鼻立ちが細めに整っており、それが一層彼(彼女?)のか弱さを演出させた。
「そこで私の母は『体の弱い子には十五まで女名をつけ女装させながら育てると丈夫な子に育つ』という、ある武家の言い伝えに倣うことにしました。最初それを聞いたときは、耳を疑いましたが……」
芝居好きな太郎松はそこでピンときた。
ああ、それで南総里見八犬伝か——
「菱湖は……
水無瀬が太郎松を見てうなずく。
どうやら先代の奥様は当時世間で熱心に読まれていた長編読本から着想を得たらしい。
犬塚信乃とは、江戸の作家曲亭馬琴の「南総里見八犬伝」に登場する八犬士の一人で宝刀「村雨丸」を操る侍のことだ。元服まで女として育てられたその美形の剣士は、芝居でも主役として演じられることが多かったから、先代の奥様もこれにあやかったのだろう。
「まぁ、それでもここまで元気に育ってくれたからあながち間違いではなかったんでしょう。今では熱を出すこともほとんど無くなりました」
そこまで一気に話した水無瀬が菱湖の方向を向いて、
「菱湖、あなたも今年で十五になりました。これからはどうしたいの?」
いままでずっと黙って聞いていた菱湖が、強い意志を感じる声で、
「僕は……もっと将棋が指したい……」
「将棋が指したいってどういうこと?」
「僕は天野先生の……弟子になりたいのです」
(なに、弟子だと……)
この時代、弟子を取ることが許されたのは将棋家の当主だけだ。
これは師匠と弟子は家族同然の関係になるため、弟子を取る師匠としてはまず「家」そのものを創らなければならない、という理屈になる。
すなわち現在でいえば、大橋本家の大橋宗桂、大橋分家の大橋宗与、伊藤家の伊藤宗看のたった三人しか公に弟子をとることが許されない。
「おい! 宗歩。わかっているのか! 弟子を取るということは将棋家を敵に回すということになるんだぞ!」
「ああ、わかっているさ」
太郎松は承知の上で聞いたのだ。
宗歩とは昔からの付き合いだ。そんなことが分からぬはずがない。
だが、それでも聞かずにおけない理由が太郎松にはあった。
それは、菱湖の生まれつき病弱なところが、宗歩に何処かあの人を想起させているのではないかと危惧したからだ。
悲劇の棋士、
それに柳雪だけでなく、東伯齋もまた将棋家によって絶望の縁にまで落とされた身である。
宗歩も自分が菱湖をここで引き受けることが、将棋家の引き起こしてきた数々の因果に報いることになるのではないか、と最初考えた。
いやそうではない——
むしろ、己の前に偶然現れたこの娘の格好をした少年を受け入れるかどうかが、性を偽りながら生きねばならぬ自らの運命に対する試金石のようにも見えた。
復讐や同情といった俗っぽい何かではなく、この少年に何処か運命的で奇縁めいたものがそこにあるように宗歩には感じざるを得なかったのだ。
出来れば自分の手で育てて見たかった。
この自由な関西の棋風を土壌に大輪の花を咲かせてみたかったのだ。
だが太郎松は、柳雪の面影を菱湖に重ねてしまう宗歩に、嫉妬とも疑念とも取れる形容し難い想いを抱いていた。
「弟子の契りを交わすなら、最初に師匠と将棋を指すのが習わしだぞ」
「ああ、今ここでやるさ」
「けど、ここは料亭やから盤駒があらへんで」
「盤駒など要りませんよ。目隠し将棋で結構」
「なんやて! 菱湖は丸一日歩き通しや。せめて日を改め――」
菱湖が意を決したように、
「ぼ、僕やるよ。目隠しでもなんでもやります。天野先生」
菱湖という少女はもういなかった。
そこにいたのは一人の勝負師だった――
――弐――
宗歩と菱湖が互いに向き合い正座をする。
不思議なことに二人の間の空間には何もない。
「入門試験は『左香落ち』とします」
「はい」
(俺が菱湖と対局した時の手合と同じか。一体どういうことだ?)
『よろしくお願いします」
互いの呼吸を深く合わせ、両者頭を下げる。
「△3四歩」「▲7六歩」「△4四歩」「▲2六歩」「△3五歩」——
「▲2五歩」「△3三角」「▲6八玉」「△3二飛」「▲7八玉」——
「△6二玉」「▲1六歩」「△7二玉」「▲1五歩」「△4二銀」——
「▲4八銀」「△5二金左」「▲5八金右」「△9四歩」「▲9六歩」——
二人はものすごい速さで互いに符号のみを言い合っていく。
なんと序盤二十手目まで太郎松と菱湖が以前対局した内容と全く同じだった。
つまり宗歩は、
「あなたの将棋を私が全部壊してあげる」
と言っているのだ。
師匠として弟子を圧倒する気なのだろう。
二十一手目、太郎松が△5四歩としたところを宗歩の着手は「△8二玉」。
このあと太郎松は左香がないことを菱湖に上手く突かれて敗北した。
一方の宗歩は慎重に深く玉を囲うことで、この後の激しい戦いに備えようとしている。
菱湖の声量が一気に高まった。
三十二手目 「▲3三飛成!」
序盤早々で飛車を切る目隠し将棋とは思えないような大胆な手だ。
菱湖が宗歩を物怖じせずに真っ直ぐにみている。
「△同桂」「▲2三角打!」——
飛車取りと馬作りの両狙いの手だ。
その後、飛車に逃げられ馬を作った菱湖は2筋、3筋に歩を打ち、宗歩のお株を奪うようなと金攻めにより優勢を築こうとする。
太郎松の感覚では下手の菱湖が積極的に攻めているように見えた。
だが、宗歩は不気味にも菱湖の攻めを丁寧に受け続けていく。
手数が進むごとに少しづつ菱湖の攻めが切れはじめ、形勢がじりじりと宗歩に傾き始める……
中盤に入り局面が複雑になるにつれ、二人は体躯を前後に揺らし始めた。
目をつむり全神経を頭脳に集中させて、そこにありもしない将棋盤を描いているのだろう。
(どうした菱湖ちゃん、焦っているのか?)
と金が——もう間に合わない。
七十三手目「△9五歩!」
宗歩が、鋼鉄の槍で菱湖の胸を突き刺すような厳しい口調で言い放った。
「ひ……」
菱湖が咄嗟に悲鳴を上げた。宗歩得意の端攻めが開始したからだ。
太郎松と東伯齋には勝負の行方を追うことがなんとかできたが、水無瀬、玉枝、錦旗の三人には状況が分からない。
だが、それでも三人は菱湖が苦しい立場にあることを理解していた。
——菱湖、頑張って!
しかし彼女らの願いも空しく、菱湖の玉は九筋、四筋を既に抑え込まれていた。 八十五手目に「△6五角」を宗歩に打たれて完全に痺れてしまった。
(なんだこの角は……「盤上この一手」って奴か……)
この角打ちが最善手かどうかはさておき、攻防の四方を睨むように角を打ち付けたその姿は、まるで菱湖の手足を釘で打ち付けたかのようであった。
「……くっ!」
苦悶の表情を浮かべた菱湖は、目の前に将棋盤がないにもかかわらず前傾姿勢の状態でぴたりと止まっている。
その後は一瞬だった。
菱湖が何とか必死で粘ろうとかすれた声で九十手目「△4八歩打」と言ったのを聞くや否や――
宗歩は「△7七馬」とゆっくりと静かに呟いた。
雷光一閃、馬のただ捨て――
「あ……」
もちろん菱湖はこの馬を取るほかないが、取ったところで自玉が寄せられることは明らかだった。
「あああ……▲同玉……」
「△8五桂打」
間髪入れないところを見ても、宗歩は既に見切っているのだろう。
「……ありません。参りました。」
「ありがとうございました」
迄、九十三手で宗歩の勝ち。
目隠し将棋でこのレベルの寄せが見えている宗歩に太郎松は愕然とした。
(こいつまた強くなってやがる。それに……顔つきも以前より鋭くなったな)
と、そのとき菱湖の身体が壊れた機械人形のように崩れ落ちた。
「あ!危ない」
「菱湖ちゃん!」
咄嗟に宗歩が手を伸ばして菱湖を抱き寄せる。
同時に水無瀬と玉枝も菱湖に近づいて介抱する。
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