第二十二話 とある休日(中編)

 ――壱――

 翌朝から天野宗歩、市川太郎松、四姉妹の六人は大坂市中の観光へと出かけることになった。

 天候は快晴だが三月初旬とはいえ明け方はまだ肌寒い。

 空を見上げると二羽のカラスが空中を旋回していた。


 松屋町は菓子問屋が集中する街だ。

 お菓子が何よりも好きな錦旗きんきはこの街に一度でいいから来てみたかったそうだ。


 父母が亡くなってからは女子供だけで出掛けるのもはばかれるということもあり、こういった外出事が難しかったらしい。

 宗歩は屋敷を出る直前、水無瀬みなせから「錦旗が興奮して昨晩なかなか眠れなかった」と聞いて、不憫に思い切なくなった。


「そうふさま、もっとゆっくり歩いてくりゃれ」


 錦旗が後ろから声を掛ける。


「ああ、ごめんね」


 錦旗は楽しみにしていたといわんばかりに張り切って友禅染の振袖を着て歩いている。

 慣れない下駄に苦戦しつつも「自分で歩く」と言って聞かない。


 松屋町は菓子問屋だけでなく、おもちゃが売られている手遊び屋も軒を連ねており、往来の人通りは多かった。

 水無瀬と玉枝たまえは、太郎松と共に来客用の和菓子を買い付けるために問屋の方へと向かう。


「さて、錦旗ちゃんはどんなお菓子が欲しいのかな」

「そうふさま、わっちは金平糖こんぺいとうというもんが食べてみたい」

「金平糖……」


 金平糖はかなり高価なお菓子だから取り扱っている店も少ない。


「はいはい、ではあの店に行ってみましょうか」


 宗歩が錦旗と菱湖りょうこを連れて、品揃えが良さそうな店の中へと入っていく。

 店内はそれほど広くなかったが錦旗が喜びそうな砂糖菓子も棚に陳列しており、

 餅、団子、饅頭、せんべいのさらに奥には金平糖もしっかりと置かれていていた。

 ふと、店の奥の方で錦旗が立ち止まっている。


「錦旗ちゃん、どうかしたの?」

「このお菓子……昔、母様がわっちに買うてくれたもんじゃ。覚えておる」


 それは、何の変哲もない素朴な芋羊羹だった。

 錦旗は寂しそうにその羊羹をずっと見つめている。


「錦旗ちゃんは……お母様がいなくなって寂しい?」

「わっちはもう寂しくはありんせん。じゃが悲しいのじゃ」

「悲しい?」

「東伯齋は優しい。でもねねさまたちはもうとと様とはは様を忘れてしもたみたいじゃ」

「そんなことはないでしょう」

「うそじゃ。みんな好き勝手しよる。水無瀬も玉枝も店の手伝いばかりで父様と母様の話もせんようになりおった。菱湖も最近はふさぎ込んでおることが多い」


 錦旗の目に涙が溜まっている。


「みんな一生懸命なんだよ。決して忘れたわけじゃないんだよ」

「でも……そうふさまが来てくれて変わった。そうふさまがおればよかろ」

「錦旗ちゃん……」

「そうふさまは母様のようじゃ。わっちのはは様のかわりになってくれるかや」


 錦旗が切実な顔で宗歩を見つめている。


「……」


 宗歩は何も言えず錦旗を抱きしめることしかできなかった。

 抱きしめられながら錦旗が、

「そうふさまは、とと様とはは様を覚えておるかえ?」

「なんとなくね。母上はとてもやさしくて綺麗な人だったよ……なんだか錦旗ちゃんと話していると私もつい思い出してしまったな」


 その後、錦旗は芋羊羹を二つ買ってもらい店を出た。

 東伯齋にも食わせてやるのだと言い、大事そうに抱えている。


 さすがに錦旗はこれ以上は歩けないので、太郎松がおぶっていくことにした。


(賭将棋しか知らなかった太郎松が子供の面倒を見るなんて。太郎松の奉公人ぶりもなんだか板についてきたわね)

 

 宗歩は声を立てずに顔をほころばせた。


 ―—弐――

 正午前に四天王寺に着くと休日だからか参拝客で人だかりができていた。

 聖徳太子がはるか昔に建立したといわれるこの古い寺院は、大坂の庶民達の信仰を一手に引き受けている。

 古来から困窮者達への福祉活動にも積極的で、各地の貧窮した者達の受け皿にもなってきた。

 中門をくぐり抜けて本坊へと進みそこで受付を済ませる。

 寺院内には広大な墓地があり、そこに彼女たちの両親の墓があるからだ。


 六人は墓前で静かに手を合わせて故人をとむらう。

 水無瀬が宗歩の方を向いて、

「宗歩様、この度はありがとうございました。父母の墓参りにもろくに行けなかったので本当に助かりました」

「いやなに、お気になさらないでください」

「いえ、お二人が来られてから当家も明るくなりました。本当に感謝しています」


 水無瀬は残された四姉妹の長女として妹達の面倒を見続けてきた。

 それが自分の役目だと当然のように考えていたからだ。

 だが、父母があの世へ旅立ってから三年、彼女は気丈さを保ち続ける反面で息をつく暇もなかった。

 夫も店を立て直すことに必死で、新婚でありながら二人の間には夫婦らしい会話などほとんどなかった。ましてや水無瀬から愚痴などをこぼすなどありえなかった。


 自分の運命を少しでも呪わなかったかと言えば嘘になる。


 そんなある日、夫が突如として将棋を再開した。

 この人がかつて若いころ将棋の修行をしていたことは父から聞いていた。

 が、大阪にやって来てからは盤駒を触っているところを水無瀬は一度も見たことがなかった。

 ああ、この人は将棋を辞めてしまったのだ。

 水無瀬はてっきりそう思い込んでいた。

 だがそうではなかった。

 夫にとって商売を立て直すことも己の棋道を成就させる一里塚でしかなかったのだ。

 大橋分家を追われ自らをよしとする将棋を確立するために。


 たかが遊戯と言えば夫には叱られるかもしれない。

 だが、将棋とはなんと業の深い物なのだろう——

 水無瀬はそんな一途でいつまでも若々しい夫が羨ましくもあった。


 お参りが終わったので、近所の茶屋で昼餉を取ることにする。

 大門から大通りに出ると乞食のような恰好をした者たちがで将棋をしていた。

 将棋盤も駒も薄い紙で作られており、もはやぼろぼろだ。

 その周りを見物客が取り囲み、勝負の行く末を見守っている。

 菱湖が「あ、将棋してる」といって見物客の方に走っていった。


(ああ、こんなところにも将棋があった——)


(まったく、私の周りはどこもかしこも将棋だらけだわ)


 水無瀬はなんだかそれがとても可笑しく思えて、あははと声を上げて笑ってしまった。


 ―—参――

 難波新地は茶屋や芝居小屋など遊興施設とともに遊郭もある大歓楽街だ。

 昔は武家屋敷が並んでいたが、数度の火災を経て復興を重ねてきた新開地である。


 難波に到着した途端、水無瀬はここまで歩き疲れたらしく茶屋で一息つくといって腰かけてしまった。

 菱湖と錦旗も少し休みたいということなので一緒に店に入っていく。

 女子供だけではなんだからと太郎松も残ることにした。

 仕方がないので、宗歩と玉枝の二人で見世物小屋が立ち並ぶ地域へ進むことにする。


 玉枝は昔から優しい父が大好きだった。

 静かな屋敷の奥で手遊びをしているより、騒がしい店の帳場に座って働く父の側にいた方が不思議と落ち着いた。

 大人びた長女の水無瀬とは違い、活発でいつもやんちゃな遊びばかりしていた玉枝は将来は立派な染物職人になって父を助けようと考えていた。

 だが、ある日父にそのことを話すと「女の子は職人にはなれないんだよ」と諭されて、とても悲しい思いをしたことがある。


 父が亡くなったとき、一番悲しい思いをしたのは玉枝かもしれない。


 少女のころ父の大きい掌に繋がれて二人だけで猿回しを一度だけ見に行ったことがあった。

 父が商いに出かけた折に見つけてきた旅芸人の露店だった。

 見物客もまばらなその技芸を日が暮れるまで父と二人で見続けたことを今でも玉枝は忘れられないでいる。


(お父さん。うちを残してなんで死んでもうたんや)


「玉枝さん、こっちに芝居小屋がありますよ。「南総里見八犬伝」と言う演目らしいです」

 宗歩が通りの横に一際目立つ二階建ての芝居小屋を指さして玉枝に伝えた。

 曲亭馬琴という人気作家が書いた長編物語を題材にしているらしい。

 なんでも八犬士という侍が活躍する話で、芝居好きの太郎松が宗歩に一度話してくれたことがあった。


「あ、それは……」


 玉枝はなぜか悲しそうな顔をしている。


「どうしましたか?」

「いや、それは……ちょっと止めとくわ」

「そうですか。じゃあ、猿回しを見に行きましょう」

「あんな宗歩様、実は――」


「おや、天野先生ではありませんか」


 突然後ろから声を掛けられた。

 振り向くとそこには巨漢の男が立っていた。


 洗心洞塾頭の大塩平八郎だ——。


 この男はいつも真っ直ぐに他人を見る。

 よこしまなものを懐に抱える者であれば、きっとその目に射貫かれた思いをするだろう。


 大塩平八郎は宗歩に近づき、

「大坂での先生の評判、日に日に高まっておりますぞ。いや結構、結構」

 と機嫌よく話しかけてきた。


「小林先生からも伺っておりますよ。なんでも在野棋士の面目を躍如する新たな取り組みを考えておられるとか」

「新しい取り組み……ですか?」

「ふむ。天野先生は聞いておりませんか?」

「はい。」

「てっきり先生の発案だと思っておりました。いや、これは失礼」


 大塩平八郎が宗歩の横にいた玉枝に気づいた。


「おお、玉枝殿もご一緒でしたか。お久しゅうございますな。しかも大層お綺麗になられましたなぁ。」

「大塩先生もお元気そうでなりよりですわ。父がいつもお世話になっております」


 暫く三人で会話をしたのち、大塩平八郎はそれではと言って頭を下げて去っていった。


 その後、玉枝と宗歩は一緒に猿回しの芸を鑑賞し、茶屋で休憩していた水無瀬達と合流をした。


 見上げると夕焼けを背に二羽のカラスが空中を旋回していた。


 ―—四――

 難波新地を出て、夕餉のために「浮無世」という名の料亭でで東伯齋と合流する。

 休日でも何かと忙しい東伯齋も今日ばかりはと先ほど駆け付けてきたばかりだ。


 豪勢な懐石料理を楽しみながら東伯齋は今日一日の娘たちの話を聞いて大層喜んだ。


「いやほんまにおおきに。結局お二人には娘らの相手ばかりさせてしまいましたなぁ」

「いえいえ、お気遣いなく。私達も楽しめましたから」


 すると、錦旗が東伯齋の横に寄ってきて、袋に入ったお菓子を差し出した。


「東伯齋、これあげる」

「おお、なんやこれ。あ!芋羊羹やな。昔、奥様が良く召し上がられてたなぁ。懐かしいわこの味」


 おおきにな、と頭をなでられた錦旗はにへぇと顔をほころばせる。


「みんな今日は楽しんだらしいなぁ。ほんまよかった」

「それもこれも宗歩様と太郎松様がいらしてくれたからですわ」

「あの……お義父。」


 突然、玉枝が東伯齋に真剣な顔つきで話しかけた。


「今日、芝居小屋で偶然これを見かけたんよ。」


 そこには一枚の引き札(チラシ)があった。

 

 芝居の演目は「南総里見八犬伝」——


「あんた……今日が吉日なんかもしれませんよ」


 突然東伯齋の顔が真面目な顔つきになる。

 そして、宗歩の方を振り向き姿勢を正した。


「宗歩はん、いや天野先生。じつは折り入ってお話がございます」


―—あなたに小林家の三女、菱湖の秘密をお話しします。

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