第十一話 船上対局

 ——壱——

 天狗が腕を組みながら、船の定員は三人だと告げる。


「立会人として私も乗りましょう。他の方は下山して、事の成り行きをお奉行様に伝えてください」


 柳雪の言葉に護衛は黙ってうなづき、そのまま走り去った。


 宗歩達は後ろに佇む魔王殿を背にして山を下りた。

 一時間ほどそろぞろと歩き、鞍馬川のほとりに着く。

 渡しには屋台船とは名ばかりの小さな船が浮かんでいた。


「さぁ、乗るがいい」


 そう言って、天狗も船に乗り込む。

 船首には背の高い船頭が一人いて、なぜか狐の仮面を付けていた。

 提灯に照らされた船には狭い小部屋があり障子が開け放たれている。

 その真ん中には七寸の将棋盤が置かれていた。


「これでは——」


 丸見えじゃないか、と宗歩がつぶやく。


「ふふふ、そのほうが衆目を集めるだろう。今時分は川床にも大勢いるだろうからなぁ」


 公開対局ですか、風情ですねぇ——と盤側に胡坐をいた柳雪が涼しげに話す。


(これは、いよいよ負けられないわ)


 宗歩の勝負心に火が付いた——

 将棋盤の前に正座をして、自分の頬をパチンと引っぱたき、気を引き締めす。


「では……出すぞ」


 船頭が船をゆっくりと漕ぎ始める。

 合わせるように天狗が駒箱から駒袋を取り出し、盤にひっくり返した。


「さぁ、始めようじゃないか。手合いは……平手だ」

「平手……」


 平手とはハンデなしをさす、上位者が負けたときのダメージがでかい。

 将棋家の宗歩としては駒落ちが妥当だが、今回は事が事なだけに言い分を通し、後で言い訳が立たぬようにしておく。


「わかりました。ただし先手はそちらに譲ります」

「ふん。後悔するなよ」


 幅の狭い鞍馬川ではあったが、先日の台風の影響により水嵩みずかさが相当増していた。

 船はゆっくりと川を下り始め、灯された提灯の火だけがその位置を告げている。


「よろしくお願いします」


 宗歩が静かに頭を下げる。


「よろしくお願いします」


 天狗も同じように頭を下げた。


 ▲7六歩△3四歩と進み、宗歩は十手目に△4二飛と飛車をさっと振った。

 四間飛車——

 振り飛車の構えの中でも攻守の均衡が取れた戦法である。


「ほぉ振り飛車か……めずらしいな」


(この人……、私のことを知っている?)


 宗歩は江戸で振り飛車を指していない。指すようになったのは京に来てからだ。

 柳雪にその手ほどきを受けた影響が大きいと宗歩は感じている。


 天狗は間を置かずに2筋の歩を伸ばし、居飛車の構えを見せかける。

 ここまで相当の早指しである。そもそも差し手に時間を全く掛けていない。


 互いに自玉を囲い合い、ここから大局観が問われる中盤局面へと移る。

 ▲5五歩——▲5六銀——▲5七銀

 天狗が五筋の位を取り、その下に銀を二枚潜り込ませ、中央に厚みを作った。


 まるで、天狗の鼻のようにそびえ立っている——


 ふしゅぅぅ、と天狗が鼻息のような声を漏らす。

 宗歩の陣営をこのまま圧迫する狙いだ。


 たん!

 △4四飛


「お……」


 それまで間髪入れずに指していた天狗の手が初めて止まった。

 宗歩が飛車を浮かせて仕掛けを見せたのだ。

 天狗に隙があれば閃光の如く駒をさばく狙いだろう。


 ▲6六歩——▲6七金

 天狗は角道を止め、空いたスペースに金を前進させる。

 さらに中央に厚みを構築させ、一気に攻め押しつぶそうと構想を描いているのだ。


「そう簡単にはさばかせんぞ——」


 舟は細く曲がりくねった鞍馬川をゆっくりとくだり続けている。

 瞬間、盤上に淡い蒼碧色の光が浮遊した——

 川辺に視線を移すとそこには蛍が舞っていた。


(ゲンジボタルだ。あぁ、まだいたんだ……)


 この近くには蛍岩と名付けられた岩があり、平安貴族が恋の歌を詠んだとか——

 そんなことを思いながら、宗歩は盤面全体を見渡し小刻みに読みを入れていく。


(……よし! いくぞ)


 かち——

 △2四歩

 宗歩は相手が突き出してきた2筋を逆用し、飛車を右辺に転身させようする。

 互いの着手が数手進むが、天狗は意に介さず早指しを続けた。

 宗歩はそれには釣られずに舟を漕ぐようにゆっくりと指してゆく。


 ダン!!

 ▲2七歩打!

 天狗は鈍い駒音を立てながら2筋を完全に封鎖した、宗歩の攻めを完封し中央突破の楽しみを残そうとしている。

「くくく、無駄だよ」と、天狗が不気味に笑った。

 宗歩の手が止まる——

 駒を積極的に前進させた分、これ以上指し手が伸びないのだ。


(ッ! ——だめだ、このままだと抑え込まれる……)


 ぐらぁり——

 そのとき、船底に岩がぶつかり、船が大きく左右に揺れた。


「うわ!」


 宗歩がよろけて倒れ込みそうになる。

 とっさに何かに掴まろうと手を伸ばす。

 あぶないと、誰かがその手を掴んだ——


 盤側にいた柳雪だった。

 大丈夫ですか——と宗歩を心配そうに見つめている。


「は、はい。すみません」


 宗歩は慌てて姿勢を整え、盤面に視線を戻した。


(ふぅ、あぶない、あぶない)


 揺れに備えて宗歩の右手は無意識に柳雪の腕を掴んでいる——

 宗歩が盤上に没我していると、船はようやく山域を出て賀茂川の上流にまで下りてきた。


(あれ!? なんだかいきなり暑くなってきたわ……)


 鞍馬山を下りて京の町に近づくにつれて気温は上昇する。

 おまけにここは川の上、狭い船には四人がみっしりと詰め込まれた状態だ。

 一気に上昇する船室の湿度に危うく集中を乱されそうになる。


(うぅ、苦しい……で、でも集中しないと)


 船が進む方向に目を凝らすと市中の明かりがとうとう見えてきた——


 ——弐——

 京都三条から四条にかけて鴨川に架かる大橋には人がぞろぞろと集まっていた。

 西町奉行松平定朝が報告を聞くや否や、市中に御布令おふれを発布したからだ。


 ——大橋本家 天野宗歩五段 くだんの天狗と今宵鴨川にて船上対局をすべし——


 上方の町民はこういった催し事を大層好む。

 御布令おふれが市中の者らの口の端にかかりその噂は一気に広まった。

 見物客が川沿いにぞろぞろと集まり出し、船がやって来るのを今か今かと待ち望んでいる。


 と、そこに——


「お、おい見ろ。船がやって来たで!」

「あの人ら……ほんまに将棋しとるやないか!」

「あ、阿保や。大したど阿保やでぇ!!」

「宗歩様、がんばれー!負けるなー!」


 観衆が騒然としながらも声を張り上げて声援を送る。


(よし、ここで決める!)

 △5二飛!

 最初4筋にいた宗歩の飛車が2筋に回ったと思いきや今度は5筋へと中央展開した。

 気づけば宗歩の攻め駒が5筋にすべて集中している。


「な、なんだと——」


 天狗は宗歩が2筋から攻めてくるものと考えていたため対応に出遅れてしまった。


「将棋天狗——お奉行様に代わって成敗いたします。お覚悟!!」


 ——宗歩もノリノリである。


 バチィィ!

 △5六歩

 宗歩の「」が前進し躍動する。

 その刹那、盤上に一直線の閃光が走った。


 これは、蛍だろうか——


 天狗も構わず▲同銀と受けて立つ。

 だが——宗歩の左手がしなる。


「いっけぇ!」


 △5五金!


「き、金だとぉ……しゃらくせぇ!」


 ▲同銀!


「まだよ!」


 △同銀!


「くそぉぉ」


 ▲同角!


「私は——もう止まらない!」


 △同角!


 一瞬で、『天狗の鼻』をほふった——

 盤面中央から駒が消失し、ぽっかりと穴が開いたように見える。


 天狗が苦しげに駒台の歩をつかんだ。


「これで止まったろぉ!」


 ▲5六歩打!!


「無駄よ」


 △4七角打!!


「なにぃぃ!」


 宗歩は、自分の角をわざと見捨て、もう一枚の角を相手陣に放つ。


「か、角を逃げないだとぉ……くそぉ」


 天狗は目を回しながら、仕方なくその角を取るが……

 宗歩は△3八に打った「歩」を△3九にじっと進めて駒を裏返した。


 ——


「へっ、そんな辺鄙へんぴが間に合うわけねぇ」


 現代将棋には『と金のおそはや』という格言がある。

 と金で攻めるのは一見遅い攻めのように見えるが、有効性も考慮すると一番いい攻め方だとする教えである。

 この教えがいつから存在していたのか誰も知らない——

 だがしかし、この時の宗歩は、がその見かけ以上に速いことを確実に理解していた。


 この後に続く宗歩のの指し手を以下にしるす。

 △4九と

 △5九と

 △6九と

 △6八と

 △7八と

 △8八と


 百十四手目の△8八とを見て天狗は空を仰いだ。

 3筋に誕生したと金が自玉の真横まで迫っている。


「お、俺の負けだ……。ありません」


 天狗がいさぎよく投了した——


「ありがとうございました」


 宗歩の勝ち将棋鬼のごとし——

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