第十話 魔王殿

 ――壱――

 日の出とともに宗歩が目を覚ます。

 枕に頭を付けたまま横を向くと柳雪がいた。まだ眠っているようだ。


(おはようございます――柳雪様)


 まだ起きるには少々早い時刻だ。

 が、柳雪が起床する前にさっさと着替えを済ませてしまおうと考えた宗歩は、そろりと布団から抜け出した。


(昨日は緊張したなぁ。柳雪様もだいぶ酔っておられたのかも……)


 宗歩はそそくさと着替え終えたあと、詰物(詰め将棋)本を取り出して静かに解き始めた。

 二時間ほど経ったところで小姓の日吉丸が二人を起こしにやって来た。


「おはようございます。柳雪様、宗歩様。朝餉の準備ができておりますゆえ」

「ありがとう。すぐに支度して向かいます」」


 宗歩がそう答えると日吉丸は黙ってその場を去った。


「柳雪様、起きてください」


 宗歩が柳雪に声を掛けながら肩に触れる。柳雪の耳は聞こえないため仕方がない。


 だが、返事がない——


(まぁ、昨日も遅かったし簡単には起きないか。柳雪様ほんと朝が苦手だな)


「柳雪様!」

 もう一度大きな声で肩をとんとんと叩きながら起こそうとする。


 が、やはり返事がない——


「起きてください、朝餉ができたそうですよ。柳雪様」


 仕方がないので柳雪の肩に手を掛けて大きく揺すって起こそうとする。


 ゆさゆさ、ゆさゆさ―――ぐるん!


 宗歩の力が意外と強かったのか柳雪の体がこちらに寝返ってしまった。

 途端に柳雪の浴衣が肌蹴てしまい上半身があらわとなった。


(う、うわ! しまった、何かで隠さないと……)


 宗歩が慌てて手元にあった自分の掛け布団で隠そうとしたところ―――

「う、うーん」と、柳雪が寝言のような声を漏らす。


(お、起きたかな?)


「あ、ああ……宗歩さん……おはようございます」

「おはようございます。朝餉ができたそうですよ、起きてください」

「わかりました。あの……」

「え……あああ! すみません!」


 柳雪から見れば自分の上半身が宗歩に脱がされたような格好になってしまっている。


「こ、これは違うんです! 起こそうと思って」

「ふふ。大丈夫ですよ」


(な、なにが大丈夫なんだろう……)


「すみませんが着替えますので先に向かっていてください」

「わかりました。二度寝してはなりませんよ」

「はいはい」


 そういうと柳雪はもぞもぞと布団から懸命に抜け出そうとしている。

 芋虫みたいだ。


(やれやれ手のかかる御仁だ。あの女中はいつもこんなやり取りをしているのだろうか)


 大広間で朝餉を済ませた二人は出立の準備をする。

 とはいえ特にするほどの準備もない。

 せいぜい山登りに必要な装備を用意してもらったくらいだ。

 柳雪も宗歩も町民の身分であるがゆえ、帯刀は許されていない。

 したがって、万一戦闘になった場合は奉行所の護衛に任せることになる。


 出発は正午過ぎとなった。

 まずは、町奉行の松平定朝が二人を気遣って用意してくれた籠を乗り継いで山の中腹にある鞍馬寺まで進む。

 そこからは護衛の同心たちと共に登山道を徒歩で進むことになるらしい。


「では定朝様、行ってまいります」


 二人を見送りに大門まで出てきた定朝に柳雪がそう告げる。


「うむ、二人ともよろしく頼んだぞ」


 定朝もうなづきそう答えた。


 ——弐——

 奉行所のある二条から途中で休憩を挟みながら籠に揺られて鞍馬寺にようやく到着したのは三時を過ぎた頃だった。

 すでに日は傾きつつある。

 この寺は天台宗の古刹で京都の庶民たちの信仰の対象になっているほど由緒がある。

 宗歩は籠から降りてすぐ、周辺が相当涼しいことに気づいた。


(市中と比べるとほんと別世界だな。)


「さぁ、宗歩さん。まずは寺の住職に事情をうかがいましょうか」

「はい」


 二人は奉行所から付いてきた護衛達とともに仁王門という山門をくぐった。

 その先には石で作られた階段が長く上まで続いている。


 階段を上りきった先に立派な袈裟を着けた住職が立っていた——


「大橋柳雪先生と天野宗歩先生ですな。よう来なさった。」


 僧侶と言うより僧兵とでも言わんばかりの筋骨隆々の老僧が二人に挨拶をする。


「拙僧はこの寺の住職をしておる是安ぜあんと申す。今回の騒動の件、何かとよろしくお願い申し上げる」

「いえ、こちらこそよろしくお願いします」

「将棋天狗が出るのは決まって六時ごろじゃから、まずは寺の講堂で腹を満たしてくだされ。詳しい話もそこでいたそう」


 二人は寺院の中を案内され和尚と共に講堂までの廊下を進む。

 途中で和尚が、

「して、今回の対局はどちらの先生が務められるのかな」と聞いた。


 柳雪は宗歩をちらっとだけ見て、

「こちらの大橋本家門下、天野宗歩殿がお相手をいたします」と言う。

 

 宗歩も和尚に黙ってうなずく。


「ほほう、あの江戸で麒麟児と謡われた天才棋士か。それはそれは楽しみじゃ」

 となぜか和尚は楽しそうに笑った。


 講堂の奥にある客間に二人は通されて、そこで小坊主から茶菓子を出された。

 急須でいれられた湯気の立つ茶をすすりながら和尚はこれまでの経緯を話し始める。


「将棋天狗はな、先月頃からこの付近に出没するようになったんじゃ。」

「最初は旅人などに声を掛けて路銀を稼ぐ程度のしょっぱい賭将棋をしておった。なんでまあ、儂らも大道詰将棋屋と同じもんかとほっといたんじゃ。」


 大道詰将棋屋とは縁日で客に詰将棋を出題する店のことだ。

 時間内に正解すると難易度に見合った景品がもらえる。

 宗歩も子供のころ縁日で店を潰したことがある。


(そういえば……あのときのおじさん、『お嬢ちゃん、いいんだよ……いいんだよ」って泣きながら言ってたなぁ、ごめんなさい)


「ところが、普通なら客にもある程度勝たせるのが商売のコツじゃというのに、その天狗はいっこうに負け知らずでなぁ」


 山のどこかでひぐらしの鳴く声がした——


「近所の腕自慢や終いには市中の在野棋士まで相手にするようになってもうてな。棋客の中には筋の悪いもんも混じっとるようじゃったし、日に日に賭け金もでかくなっとるようだし、儂らとしてもこのままほっとけば絶対揉め事になると思て、奉行所に相談した、ということじゃ」

「そういうことでしたか」

「まぁ天狗も将棋に負けてしまえば店をたたみよると考えておってな。あ奴も根が悪い奴ではなさそうじゃし、いきなり引っ立てるより将棋で負かしたった方がええ、とお奉行様に進言させてもろたんじゃよ。」

「なるほど、ご事情は大変よく解りました。それでは私たちはその将棋天狗と対局して勝てばよろしいのですね。」と、柳雪が念を押すように和尚に確認する。

 

 和尚はそうじゃ、そうじゃとなぜか楽しそうに答える。


(この和尚さん、どうしてさっきから楽しそうなのかしら)


 鞍馬寺から目的地までは傾斜がきつく山道は徒歩で進むしかない。


 目指すは、奥の院魔王殿――


 かつて六百五十万年前に金星からやってきた魔王が降臨し封じ込められていると言い伝えられる仏殿である。ちなみに魔王は永遠の十六歳らしい。


 宗歩たちは、山をいったん登ったあと、少しなだらかなった坂道をに下っていく。

 そこから歩きにくい木の根が地面を張った山道を進んだ先に魔王殿はあった。

 大層な名前とは裏腹に木造の建物が建っているだけだったが。


 天狗は不遜にもこの魔王殿に住み着いたようだ——


「さて、どのあたりに天狗がいるのでしょうか」

 

 柳雪があたりを見回しながらわざと大きな声を出す。


「いませんね……」

 

 そう言って、宗歩は荷物を下ろし持参した竹の水筒に口を付ける。

 冷えた水が乾いた宗歩の喉を潤した。


 柳雪と宗歩以外には警護の者達が数名だけ、周囲にはそれ以外誰もいない。

 夕暮れのためか見通しが相当悪い。


 そのとき突然上から声がした——


「そこな者、我と将棋で勝負をせんか——」


 見上げると木の上に天狗が立っている。


(おお、本当に天狗だ! 天狗がいるぞ)


 天狗はするすると猿のように木の上から降りてきてと宗歩の前に立ちふさがった。


(あれ? なんだ、天狗のお面をしているだけじゃないか……。)


 宗歩はがっかりすると共に人間と対局すると解って少しだけ安堵した。


「柳雪様……」

 

 宗歩がどうしましょうかといいたげに柳雪に目をやる。


「まぁ、依頼は依頼ですから。きっちりやり遂げましょう。」と柳雪がうなずき、手を口に当てて一つコホンと咳をして、

「そこな者! そなたは噂の将棋天狗か? 我らは大橋柳雪、天野宗歩と申す一介の将棋指しである。此度は京都西町奉行、松平定朝様よりご下命を受け、そなたを成敗しに参った! いざ尋常に勝負せよ!」と声を山に響き渡らせた。


(柳雪様、か、かっこいい……)


 さすがは花柳界で歌舞伎役者とも交流があるだけあって見栄も決まっている。


「ふふふ、いかにも俺が将棋天狗だ。奉行所か何か知らんが望むところよ!」


(まぁよいか、将棋は将棋だ。えい!)


「私がお相手をつかまつる!」


 宗歩も柳雪に倣って見栄を切りに前に出た。


「ほほう、みたところお主は……麒麟児、天野宗歩ではないか。これは相手にとって不足なし! 勝てば百両、負けても百両でどうだ」


(え……!? ひゃ、百両って……、聞いてた話と全然ちがうじゃない!!)


 宗歩は、慌てて柳雪の方を振り向く。柳雪はうんうんと頷いている。


(え、えと、負けた場合は全部私が払うのかな。どうしよう……そんな大金もってないぞ)


「大丈夫、勝てば良いのですよ。宗歩さん」


 柳雪が笑顔でそう答えた。


(簡単に言うなぁ……。)


「わかりました。それでは受けて立ちましょう。」

「よし、ではゆくぞ」

「え、どこに?ここで指すのではないの?」

「鞍馬川に屋台船を用意している。それに乗って川下りをしながら将棋を指すのだ。」

「なんで?」

「ふふふ。今日あたりそろそろ大物が釣れると踏んでおったのだ。それにそっちの方が風情もあろう」

「ど、どういうこと?」

「大勝負をこんな山中でちまちま指していても仕様がないだろう。天下の天野宗歩が無名の天狗ごときに負けるところを京の市中の輩に直接見届けさせようと思ってなぁ」


(な、なんて非情なやつめ。で、でも逆に市中の方が最後は捕まえやすいか。ここなら将棋に負けても逃げられる恐れもあるし……)


「わかりました。では船上で対局しましょう!」


 こうして天野宗歩と天狗の船上対局が始まった――

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