第三章 天狗

第九話 鞍馬天狗

 ——壱——

 天保四年(1833年)の八月二十日、京都は先日からの台風一過で雲のない晴天だった。

 天野宗歩が大橋柳雪の屋敷に住み込みを始めてから早二か月が過ぎ、京の暮らしにも慣れはじめたころのことだった。

 その日は朝から玄関口が何やら慌ただしかった。

 日課の詰め物(詰将棋)を自室で解いていた宗歩のところに、女中(和風メイド)がやって来た。


「宗歩様、大変でございます。京都西町奉行所のお役人様がいらっしゃっておりますわ。旦那様はまだお休み中でございますし……いかがいたしましょうか?」


(この女中は若いのにいつも冷静だな。今だって、「大変」と言いながら全く焦った様子がないわ。さすがは柳雪様の……)


「あの、宗歩様?」


 女中は宗歩の返事がなかったので首をかしげながら少し不思議そうに呼びかけた。


「あ、ああ、そうですね、それにしても奉行所が一体何の用でしょうか?」

「わかりません……。なにやら急ぎの御用らしく、旦那様と宗歩様をすぐに奉行所までお連れしたいとのことでしたわ」

「そうですか……まったく心当たりがありませんが、とりあえず柳雪様に知らせてください」


 宗歩がそう伝えると、女中は「わかりました」とだけ応え、柳雪の部屋まで走って行った。


(柳雪様、昨夜も遅くまで何度も私と対局してくれたし、あの人のことだからきっとなかなか起きてこないでしょうけどね)


 大橋柳雪は美丈夫であり、さまざまな技芸にも精通する「粋人」である。

 が、そんな達人にも弱点はあるらしく、どうにも朝が滅法弱かった。

 いつも正午近くにならなければ起床してこず、女中を苦労させている。

 江戸にいた頃は御城将棋など早朝からのお勤めには本人も相当苦労したらしい。


(さて、私も出かける支度をするとしましょう)


  宗歩は寝間着として着ていた麻の浴衣を静かに脱ぎ捨て、胸に巻きつけていたサラシを一旦はずした。

 棋士として男装をするためにも常にサラシを巻き続けなければならない宗歩にとって湿気の多い京都の夏は想像以上の難敵であった。

 宗歩は露わになった自分の乳房をじっと見つめている。

 歳を取るとともに少しづつ膨らむこの胸だけはどうすることもできず、宗歩は夏場に湿気で蒸れてしまうこの不快感に堪えながら日々の対局に望んでいた。


(でもこのサラシだけはしょうがないか……)


 宗歩は、自慢の長い黒髪を後ろで纏めてひとつに括り、ポニーテールの髪型に整えた。


 最近の宗歩の暮らしぶりは、柳雪の紹介で京都の大旦那や幕府高官たちの指導対局を勤めることが中心になっていた。

 さすがは大橋本家の五段格。

 京の町でもその名は通っており、皆がその天賦の棋才を堪能しようと、次々と手合いを求めてきたそうだ。

 彼らにとっては麒麟児の異名を持つあの江戸の天野宗歩と一度手合わせしたことがあると言えばさぞ自慢にできるのだろう。

 宗歩としてもいつまでも柳雪家の居候のままではいかないと考えていたので、収入をしっかりと確保しておく必要があった。

 そこで週に一度はいやいやながらも旦那衆の殿様将棋のお相手を務めつつ、それ以外は柳雪との真剣対局か一人で詰め物などして過ごすようにしていたのだ。


(それにしても京の夏は本当に蒸し暑い。どこか涼しいところはないものかしら)


 宗歩は新しいサラシを巻きなおし、浅葱あさぎ色の着物と袴を身に着けて部屋を出た。と、そこに起床直後と言わんばかりの柳雪が目をこすりながらふらふらと歩いてくる。


「ふわぁぁ……おはようございます、宗歩さん。何やら外が騒がしいようですね」

「おはようございます、柳雪様。町奉行所のお役人様が来られています。何用でしょうか?」


 宗歩は、はきはきとした口調で柳雪にそう伝える。

 柳雪の聴力はほとんど失われているからだ。

 そうすることで読唇術を使える彼と会話することに特段の支障は生じない。


「さてねぇ。とりあえず話を聞いてみましょうか。」


 それだけ言うと柳雪は洒落しゃれた浴衣の恰好のまま玄関口へ進んでいった。


(やれやれ、あの格好じゃあ、遊里に泊まった若旦那のようだわ。)


 そんなことを頭に思い浮かべながら、宗歩も柳雪の後を追った。


 玄関にはこの暑さにもかかわらず羽織袴の恰好をした武家の男が立っていた。

 こちらを見て柳雪の恰好に少し驚いた様子ではあったがすぐに頭を下げる。


「大橋柳雪先生と天野宗歩先生でござるか?」

「いかにも」

 

 柳雪は先ほどと打って変わった言葉遣いで返事をした。

 なんだか宗歩にとってそれが少し可笑しく思えてしまう。


「拙者は京都西町奉行所の大塩平一郎と申す。この度は急の用向きで参上した。お奉行様がお待ちゆえこのまま奉行所まで同行願いたい」

「して、その御用向きとは?」

 

 柳雪が目が覚めたかのようにぴしゃっと言葉を放つ。

 大塩と名乗ったその役人は、

「お奉行様が直々に話されるとのこと。それがしも詳しくは知らぬ」

 と不躾ぶしつけに言うと、「さぁ、こちらへ」と催促した。

 柳雪が宗歩のほうをふり向いてこっそりと呟く。


「どうやらお断りすることは難しいようですね。宗歩さん、申し訳ないが私と付き合ってもらえますか?」

「お奉行様からの直々のご用向きですし私は構いません。一緒に参りましょう。」


 ——弐——

 二人を乗せた籠は伏見から一時間ほどで西町奉行所へと辿り着いた。

 東町奉行所とともに京都の治安維持の中枢を担うこの奉行所は二条城の隣に位置している。

 奉行所の正面で籠を下ろされた二人は、そのまま歩いて大門をくぐり敷地内の最も立派な屋敷の中へと進んだ。

 屋敷の中ではいくつもある部屋を横目に奥へ奥へと案内され、突き当りの部屋のふすまの前で二人は平伏したまましばらく待った。

 役人がうなずいて合図をすると、側に控えていた小姓が襖をそっと開けた。


 部屋の奥には初老の男がひとり腰を据えていた——


(この御方が、京都西町奉行の松平定朝まつだいらさだとも様か)


「おお二人ともよう来た。ささ近くによれ」


 定朝が扇子を振りながら二人に対して声を張った。

 意外と高く透き通った声で聞きやすい。


「ははっ」


 だが、二人は頭を下げたままその場を動こうとはしない。


「さぁさぁ、頭を上げてもそっとちこう寄れ。そんなに離れておっては話もできぬわ」

「はっ」


 そう言われて、じりじりと正座を崩さずに近づてゆく。


(か、顔が真っ白い……。お白粉でも塗っているのかしら。)


 橙色と金色の豪奢な着物を羽織ってはいるものの、定朝の体格は痩せていてか細く、腰も曲がっていた。

 六十をゆうに越すその老いはどうにも隠せそうにない。

 だが、その眼光は鋭くこちらを見据えていた。

 宗歩は一瞬自分の秘密を見抜かれたかと感じ、身辺に異変がないか確認した。


(大丈夫だ、特に問題はないわ。)


 定朝の背後の床の間には立派な掛け軸が掛けられており、その横には一際目立つ明るい紫色に染まった生け花が置かれている。

 定朝が手塩をかけて育てた花菖蒲「宇宙」だろう。


 品種改良を重ねに重ね、天皇にも献上されたという至高の品——


(橙色のお召し物と菖蒲色の花の対照が実に見事だわ。美しい。)


 宗歩は定朝の美意識に感服した。

 この男は武家でありながら菖蒲の栽培に精通しており、花道など技芸全般にも理解があるそうだ。

 決して頭の固い武家ではない。

 もちろん将棋界も例に漏れず彼の庇護を受け、少なからず恩があることも知っていた。

 柳雪と宗歩がこうしてすぐに駆け付けたのもそれがあってのことだ。


「実はな、上方棋界の俊英であるおぬし達に頼みたいことがあるのだ」

「どのようなことでございますか」


 柳雪が淡々と答える。


 ——おぬしら、鞍馬山の天狗を知っておるか。


「……確か源義経の伝説にでてくるあの天狗にござまいすか?」

「いや伝説ではなく、実際に今日も鞍馬におるのだ」

「まさかそんなことは……。」


 定朝は被りを振って、それが事実であることを暗に示した。


「……それに仮に天狗がいたとしても、我々をお呼びになられたこととどのような関係があるのでしょうか」

「うむ、先月から鞍馬山で天狗と思しき類が出没しているそうでな。旅人や参拝者に悪さをしているようらしい。その苦情が町奉行所に飛び込んできたのだ。儂としても立場上何とかしてやらねばならぬ」


 定朝はそれだけ言うと、一枚の絵が描かれた紙片を柳雪と宗歩に渡した。


 その絵には、鼻が長く、山伏の恰好をしているあやかしが描かれていた。

 顔が赤く、手には扇のようなものも持っている。

 確かにこれは天狗だ。

 しかし、宗歩が子供の頃から知っていた天狗と一つだけ違う箇所があった。


 ——なぜか座って将棋をしている。


「あ、あの」


 宗歩がおそるおそる定朝に尋ねてみた。


「なんだ?」

「この天狗は……どうして将棋をしているのでしょうか」

「そう、そこよ」

「は、はぁ」

「実はなこの天狗、大層変わった天狗でな、出会う者に将棋の勝負を仕掛けるらしい。勝負に乗る方も悪いといえばそうなのだが、『負ければ一両もらう、勝てば百両やる』と吹かすらしく、ついつい勝負に応じてしまうそうだ」

「変わった天狗ですね」


 宗歩が素朴な感想を漏らす。


「左様。奉行所としては放ってもよいのだが、市中でも噂がすでに広まっておってな。我々がどう対峙するのか注目されておる。で、そちらに来てもらったというわけだ」

「お言葉ですが、お役人様が直接引っ立てれば良いのではございませんか?」


 柳雪が横から冷静に尋ねた。


「そう、そこよ。この天狗はな、何も力づくで人から金品を奪っておるわけではない。正々堂々と将棋で勝負しておるのだ。それでも賭け事には違いないゆえなんとかせねばならん」

「といいますと?」

「おんしは勘の悪い奴だのう。要するに、ぬしらがこ奴を将棋で負かしたうえで引っ立てようと言うておるのだ」

「天狗と……将棋をですか……」

「上方の者たちは無粋な真似を嫌う。力には力で、将棋には将棋でことを解決せねば庶民の心はつかめぬのだ。」

「なるほど」と、柳雪がうなずく。

「さすがのお主らでも物の怪と対局したことはないじゃろう。」


(あ、あたりまえでしょ!)


 宗歩は心の中で定朝に悪態をつく。

 どうもこの殿様は何かを楽しんでいるらしい。


「で、いつでしょう?」

「明日の夕刻」

「それは急でございますな」

「いろいろ事情があってな。そういうことじゃて、今宵はわしの屋敷に二人とも泊まりなさい。馳走もたんと振舞ってやる」


 もはや天狗退治も宿泊も嫌とは言えない雰囲気であったため、二人は仕方なく定朝の屋敷に向かうことにした。


(やれやれ、天狗退治だなんてすごいことになったわね……)

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