第八話 覚
——壱——
長三郎から飛騨山中で物の怪を最近見たという話を初音が聞いたのは、二人でこれから狩猟に出かける直前のことだった。
その化け物は全身の色が黒っぽく、毛むくじゃらで一目見れば大猿の様でもあるが、人の顔をして人語を解するらしい。
長三郎が恐れの余りその場で固まっていると、「お前はいま恐れているだろう」と言い、長三郎が何とか逃げ出そうとすると「お前はいま逃げようとしているだろう」と人の心の内を言い当てたという。
「うーん、長三郎。きっとそれは獣か何かを貴方が見間違えたのでしょう。猿が喋ったというのも空耳に違いない」
初音が冷静にそう言うと、長三郎は大きく頭を振って、
「いや、これが本当なんだよぅ。おら見ちまったんだよぉ」
「見たって……物の怪なんて本当にそんな者がいるのでしょうか?」
初音はあまり信じていない様子を長三郎に隠そうともしない。
「いきなり木の上から振って降りてきてさ。おらの考えていることを何でも言い当てたんだよぉ。そんで、おらに『ここから先には立ち入るな』って脅してきたんだ。もぉ、すんげぇ怖かった」
長三郎は今にも泣き出しそうな顔をして、初音の着物の袖を掴んで一向に離さない。
この大男は三十路にもなるが少々気が小さく、いつも初音の後ろを付いて回っている。
「まぁ……仮にその話が本当であっても、私たちは日々の狩猟をしなければ生きていけません。
「そうだげども」
「それに万一その化け物が旅人でも襲えばそれこそ問題になりましょう。そうなれば私たちはお代官様からきつくお叱りを受けますわ」
初音が長三郎につんと厳しく言い放つ。
今年で十七になるこの娘は目鼻立ちがはっきりしており凛とした雰囲気がある。
美しい黒髪を後ろで一つに縛って狩猟の邪魔にならないようにしているようだ。
「うう……おらは嫌だよぉ。きっと化け物に喰われちまうよぉ」
「物の怪が人を食ったという話を私は聞いたことがありません。実際貴方も喰われてないじゃないですか。せいぜい物の怪なら脅かす程度でしょう。さぁぐずぐすしないで出発しますよ。」
初音と長三郎は飛騨山の麓に住む猟師である。
彼女たちは、野生の鹿や猪、熊などを狩り、その肉と毛皮を町の獣屋に売りに行き生計を立てていた。
二人とも子供のころから自然豊かな飛騨山中に馴染み、登山道も獣道も知り尽くしている生粋の山人だ。
二人は実の兄妹ではない。
長三郎の父がある日、山中に狩りに入った際に捨てられた一人の赤ん坊を見つけた。
それが初音であった——。
その後、長三郎と初音は本当の兄妹のように育ち、父が亡くなった後は二人だけで猟師業を継いでいた。
飛騨地方は江戸中期までは金山氏が治める飛騨高山藩の支配下にあったが、その豊かな天然資源や鉱山に目を付けた幕府が移封を命じ、現在は天領(直轄領)となっている。天領の支配を一手に任せられる飛騨郡代には江戸から任命され赴任してくる旗本が歴代就任したが、その統治には圧倒的に役人が不足していた。そこで飛騨の猟師達には狩猟だけでなく山中の警備も任せられていたのだ。
既に秋が深まり飛騨の山中にもうっすらと雪が積もり始めている。
日々捕れる獣も徐々に少なくなり、あと一週間もすれば完全に山は死の世界となるだろう。
登山道の入り口から山奥へと二時間ほど進んだ先のだらだらと続く昇り坂を二人は警戒しながら歩いていた。ここからは登山道から獣道に外れてさらにそのまま深山へと入っていくことになる。猟師のみが知る道だ。
「あそこにムジナがいます」
初音がそっと長三郎に呟く。
「ああ本当だぁ、初音は目がいいなぁ。どうする?」
「いや、まだ小さい。やめておきましょう。きっと長三郎が遭遇したのも大きいムジナだったのでしょう」
「な、なぁ初音……」
「なんです?」
「実は、おらが物の怪に出会ったのはこの山道を下ったあの沢の辺りだったんだ……」
長三郎はそう言いながら下の方を指さした。
長三郎の手が少し震えている。
初音はじっとその方向を睨みつけている。
しばらく考えたあと、「そうですか……。では——」
確かめにいってみましょう、とだけ初音は言った。
「うう、おらは嫌なんだけどなぁ……」
「山中の異変を確認し、代官様に速やかに報告することも我々の仕事です。さぁしっかりして」
初音は長三郎より年下だが気構えもしっかりしており、猟師としての腕前も頗る評判が良い。
二人は十分に警戒をしながら沢のあたりまでずるずると崖を降りていく。
沢はほとんど手が付けられておらず、流れてくる水はかなり冷たく信じられないほど澄んでいた。青木が周囲にびっしりと自生しており、見通しはあまり良くない。
初音が沢に沿って上流へと昇り歩きながら周辺を見回すが特に何も見当たらない。
すでに初音の足下はぐっしょりと濡れている。
「何もいないじゃないですか」
「あれぇ、おかしいなぁ。確かにこの前は……」
その瞬間、ザァーザァーと周りの木々が揺れる音がした。
「ひぃ!」
長三郎が頭を抱えてしゃがみ込む。
「落ち着きなさい、ただの木枯らしよ。おや、あれは……」
そこには、全身の色が黒っぽく、毛むくじゃらの大猿がいた。
否、顔はまさに人そのものであり、こちらを見て不気味に笑っている。
———ああ、これは……覚(さとり)だ。
昔、初音は養父からその話を聞いたことがあった、山中で猿のような化け物を見たことがあると……。
「おい」
———その化け物の名は覚といい、人の心を盗み取るらしい。どうして、自分は今までその話を忘れていたのだろう。
「おい」
———せめて、長三郎だけでも……
「おい!聞こえているのか!」
「は、はい?」
初音は目をぱちくりさせた。
「ふぅ、やっと返事したか。どうやら遭難したらしい。あんたら猟師だろう。すまんが町まで連れてってくれないか。」
その男は一気にそう捲し立てると疲れ切ったようにその場にへたり込んだ。
初音もふっと力が抜けてその場にへたり込んだ。
「そっかぁ・・・おらの見間違いかぁ。ほんとによかったよぉ」
長三郎も今にも泣きそうな顔をしながら安堵している。
その男はすっかり疲弊して動けなかったので、長三郎がそのまま担ぎ上げて家まで連れ帰ることにした。
——弐——
既に夕刻を過ぎて辺りは相当暗くなっている。
気温もめっきり低くなっており座敷の中も外と大差がないほど冷えてきた。
初音は昏睡している男を介抱し、長三郎は囲炉裏の薪をしきりに火にくべ続けた。
しばらくすると男が目を覚ました。
「ふぅ。助かった。本当にありがとう」
男は起きてすぐに出されてきた食事を取りながら礼を言う。
「いえ、私たちも驚きました。まさかこの時期に飛騨の山奥をさ迷い歩く者がいるとは」
「まぁずっと迷ってたわけじゃねぇがな。途中の宿場町で滞在しながら飯を食ったり、それなりの準備もしていたんだけどな。しかし飛騨に入ってからは雪に降られてさすがに往生したぜ。」
男はわははと笑いながら残った飯をかき込んだ。
「幸運にも鹿を捕まえ毛皮を剥ぎとって
本当にありがとう、と男は丁寧に頭を下げた。
「あなたは一体……」
「あぁ、自己紹介が遅れたな。俺は江戸の本郷菊坂の市川太郎松という。しがない将棋指しさぁ」
「しょ、将棋指し……将棋ってあの遊戯のですか?」
「あぁ、大きい声では言えねぇが賭け将棋で日銭を稼いで糊口を凌いでいるんだ。宿場町でも暇を持て余した旅人にだいぶ稼がしてもらったぜぇ」
そういうと太郎松はあははと笑って見せた。
(この男、よほどの阿呆かそれとも豪傑なのか……)
「で、ところでお前さんたちは?」
太郎松が二人に水を向けると、初音が落ち着いて話し出した。
「私は初音。あの男は長三郎という。私たちはここで猟師をやっています。貴方を見つけたのも狩りの最中でした」
「そうか。それは済まんことしたな。いや本当にありがとうございました」
太郎松はまだ重く感じる身体を起こし正座をして頭を下げた。
「いや、気になさらないでください。山中の遭難者の救助も我々の仕事の一つですから。」
「そうなのか」
「江戸、とおっしゃられましたね。幸いここは天領です。郡代様に申し伝えれば何かの助けをしていただけるでしょう」
「ほう、そりゃあありがてぇな。」
その後、太郎松は二人に道中の旅路の話をたんと聞かせて眠りについた。
翌朝、万全に回復したとまでは言えない太郎松は、しばらくはここに滞在することを決めた。特に急いで行く当てがあるわけでもないし、まだ江戸には戻る気もしなかった。
そもそも自分が何者かよく判らなくなって家を飛び出してきたのだ。
何らかの答えを掴むまではどうしても帰りたくはなかった。
初音と長三郎の二人にしても客人は珍しく、何より太郎松の天真爛漫さを彼女たちは気に入った。
そして、太郎松の滞在が半年ほどが続いた冬の終わりのある日——
「太郎松様、あなたは本当に変わった人ですね。」
太郎松と初音は、縁側に座りながら猟師道具を直しつつ毎日こうやってよく話をした。
「そうか?」
「えぇ、なんだか野生の獣と話をしているようです。」
「なんだそりゃ、馬鹿にしてんのか」
太郎松がちょっとムッとした顔をすると、初音はクスクスと笑いながら、
「うふふ、そうではありませんわ。私や長三郎は町の人間が一体何を考えているのか良く分かりませんの。」
「それは……なんとなくわかるかな」
「ですが、あなたには裏表がありません。まるで本能で動く山の獣と同じ感じがするのです」
「本能で動く獣か……」
「私達狩人は獣を捕縛するのが仕事です。ですが、
「……なぁ、一つ聞いていいか」
「は、はい、なんでございましょう」
「その本能ってやつは生まれつき備わってるもんなのか」
「ええ、獣は親に教わるわけでもなく自然と狩りを行います。人間のように特別な修練も必要とはしませんわ。偉い方のお話しでは獣自身もその本能には逆らえないそうです」
「そうか……」
太郎松は何かをじっと考え込んでいるようだったので、初音は静かにそれを見守ることにした。
「うん、なんかわかったような気がする」
「そうですか。良く分かりませんが良かったです」
「はぁ、なんだそりゃ」
二人はけらけらと笑いながらその後も一緒に時を過ごした。
初音はいつまでもこんな時間が続けばいいなと思った——。
——参——
長い長い飛騨の冬が終わり春が到来したある日のことだった。
「二人とも今までありがとう。俺はもう大丈夫だ。そろそろ行くことにするよ」
太郎松がいきなりそう言うと、二人はとうとうこの日が来たかと覚悟した。
「あ、あのさ、太郎松さぁ、おら達と一緒に猟師をやらねぇか」
長三郎は今にも寂しくて泣き出しそうな顔をしている。
「ああ、そうだな。それもいいな。」
「じゃ、じゃあさ。」
「だが、すまねぇ。俺にはやらなきゃいけねぇことがあるんだ」
「そ、そっかぁ。残念だなぁ」
初音はじっと俯いていた。何も言わない。
「初音さん」
「は、はい」
「以前、お前さんが俺に話してくれた本能の話を覚えているか」
「はい、覚えています」
「あれから俺はずっと考えていたんだよ。俺の才能の正体について。お前さんの話を聞いてなんとなくそれがわかったんだ。将棋は、俺にとって本能そのものなんだ」
「……」
初音は何も答えない。
「だから技芸とか修行とかそういうもんじゃなくて、ただ俺はそれに従って生きてくしかねぇんだって」
「はい……」
「……すまねぇ。初音さんの気持ちに応えてやれなくて」
ずっと俯いていた初音はこの言葉を聞いて一瞬震えた。
太郎松の優しさに触れて泣きたくなった。
(太郎松さんは私の気持ちに気付いている。だから未練を残さないように——)
「はい……。太郎松さんも……しっかり頑張ってくださいね」
それから初音と長三郎の二人は旅の準備を終えた太郎松を関所まで見送り届けることにした。
「あ!そうだぁ、太郎松さぁ」
長三郎がふと気づいたように大きな声を上げた。
「おう、なんだ」
「おらと一番最初に二人で山ん中で出会ったときさぁ、お、おらの考えていることをずばり言い当てただろぉ。あれは一体どういう仕掛けだったんだぁ?」
「……はぁ、なんのことだ?俺はお前とは二人で出会ったりしてねぇよ。初音さんと三人で初めて出会ったんだろ。」
「え!……じゃ、じゃあ、おらが出会ったあれは一体……」
初音と長三郎は目を合わせ、パチクリした。
飛騨の山中は新緑が芽生え生命の息吹を感じさせていた。
———春がやって来た、さぁ行くぞ!
飛騨美濃の深山に玃あり
山人呼んで覚と名づく
色黒く毛長くして、よく人の言をなし、よく人の意を察す
あへて人の害をなさず
人これを殺さんとすれば、先その意をさとりてにげ去と云
『今昔画図続百鬼』より「覚」
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