第七話 町奉行

「なに? 市川太郎松が失踪したとな」


 その知らせが、江戸南町奉行の市川備中守蘭雪の目に飛び込んできたのは、太郎松が失踪してから五日経った後のことであった。

 太郎松の母親が家を飛び出したきり全く帰ってこない息子にうろたえて、南町奉行所に相談したのだ。

 まずは同心たちが太郎松の人相書きを近辺に貼り付けて「町触れ」したものの功を奏さず、とうとう江戸全域にまでその捜索の範囲が広げられることとなった。

 その報告書がちょうど蘭雪の手元に届いたのである。


御用部屋のさらに奥の間に座していた蘭雪の表情には困惑と緊張の色がはっきりと浮かんでいた。

蘭雪は、二重黒紋付羽織に袴を身に着け、腰には打刀と脇差を帯刀し、額から頭頂部にかけて綺麗に剃った月代さかやきがまた美しく、その出で立ち格好からして大名家に匹敵する武家であることは間違いない。


 町奉行所とは、現在でいうところの警察と司法、行政の機能を担う幕府の役所である。呉服橋内に北町奉行所、数寄屋橋内に南町奉行所がそれぞれ一つずつ配置されており、江戸で生きる庶民達の日々の暮らしを支えている。

 人探しも町奉行所の重要な仕事の一つであり、毎日多数の捜索願が届けられた。

 手元に届いた報告書には名前しか記載されていなかったが、添付された失踪者帳簿をさらさらとめくっていると、蘭雪の見覚えがある名前と住所が目に飛び込んできた。


「本郷菊坂 市川太郎松 五月二十四日 明け方 自宅から失踪 付近に町触れするも行方不明」


(やはりあの太郎松に違いない。失踪だと……そ、そんな馬鹿な)


 蘭雪の趣味は将棋だった。

 いや、趣味というにはもはや行き過ぎと言わざる負えないほどの「棋狂きぐるい」と言えよう。

 齢四十を超え、南町奉行まで登り詰めた蘭雪としてはこれ以上の出世に興味はなく、若い頃から没頭していた将棋に残った余生を注ぎこむ気で日々を送っていた。

 お勤めの合間もこつこつと棋譜並べや詰め物など棋力向上の修練を欠かすことはない。

 職務上の交際という名目で寺社奉行管轄の将棋家にも頻繁に出入りし、家元から直接指導を仰ぐこともあった。

 実際のところ、当時の将棋家は段位免状を通じて在野棋士の管理なども行っていたことから全国の情勢にも明るく、犯罪検挙に役立つ情報を得ることも少なくなかった。

とはいえ職権乱用も甚だしいことはこの上ないのだが。


 蘭雪は賭け将棋にも精通していた。

 賭博は確かに重犯罪だが、賭け将棋については実際にはそこまで厳しく取り締まられることはなかった。

 むしろ娯楽に飢える庶民から楽しみを奪うことは彼らの反感を買うこととなり、他の重犯罪の捜査が難しくなるような弊害もありえたからだ。

 蘭雪自身は賭将棋をすることはないものの、在野の強豪棋士たちの指し回しを見物するために何度かそういった『現場』にも足を運んだことがある。


 そこで本郷菊坂に将棋がやたら滅法強い子供がいるという噂を聞いたのだ。

 その名は市川太郎松——。

 奇しくも自分と同じ姓の少年であった。


 蘭雪は、昨年溺愛していた嫡男を流行り病で失っていた。

三十路半ばでようやく手にした我が子と将棋を指してみたいと憧れを抱いていた矢先のことであった。

跡目に親類から養子を取ったものの、蘭雪の喪失感を埋めることはできなかった。

 そういうこともあり偶然にも同じ姓の太郎松にはなんだか妙に親近感が湧いたのだ。

 蘭雪は太郎松にどうしても会ってみたくなった——。


 ——弐——

 数日後、蘭雪は本郷の菊坂町にいた。

 江戸の庶民が生活する長屋町に出かけるときは、羽織袴姿ではなく着流しの格好で浪人風に変装することにしている。あまり武張った格好で行くと大騒ぎになるからだ。

なだらかな坂を上り詰めたその先の路地を左に曲がった長屋の中に太郎松の住む家はあった。

蘭雪はいても立ってもいられずに早速裏手へと回り、裏長屋の入り口となる木戸をそっと開けて中の様子を伺った。


(うむ、大丈夫だ。誰もいない)


長屋の女房たちが普段雑談する井戸端からそっと軒先の方向を覗き込む。

すると奥の方に太郎松本人と思しき少年が、縁台に腰掛けて大人たちと賑やかに将棋をしていた。

年のころ七つくらいだろうか。笑顔がなんとも愛くるしい少年であった。


(縁台将棋はいつ見ても騒がしく、また楽しそうであるな)

 

もはや我慢の限界とぱぁっと飛び出した蘭雪は、

「やぁやぁ、大層面白そうな将棋を指しておるではないか」

と、見物していた大人達にいきなり声をかけた。


浪人風情の男が突然入ってきて声をかけるものだから、大人達は一瞬ぎょっとする。

が、そこは好き者同士。見物に来たと分かればすぐに馴染んだ。

なにせこの市川太郎松の将棋は天下一品、江戸で噂になるくらい。

こうして見物にやって来る愛棋家は絶えなかったのだ。


江戸の川柳に、こんな歌がある。

「碁会所で見てばかり居るつよいやつ」

囲碁将棋は指したり打たなくてもただ見物しているだけで楽しいもの――。


 蘭雪が勝負の頃合いを見て「市川太郎松か?」と声をかけたところ、「おっちゃん、誰……?」と思い切り怪しがられてしまった。


「せ、拙者は、市川蘭雪と申す。坊よ。某とも一局指してくれぬか?」

「……いいけど、賭け金はどうするのさ?」

「いや、銭はよそう。代わりに坊が勝ったら饂飩うどんでも食わしてやろう」

「ははは、なんだそりゃ。まぁ腹も減ってたし、それでいっか!」


 天真爛漫で無邪気な彼を見ているとますます愛おしく思えてくる。

蘭雪は、少年の顔をまじまじと見つめて自分と似ているところがないか探してみた。


(ひょ、ひょっとすると、こ奴はわしと血が繋がっておるのではないだろうか)


「……何じろじろ見てんだよ。気色悪いな。ほら先手をやるから早く指しなよ」

「おっと、すまない。こほん。それではよろしくお願い致す」


 二人は呼吸を合わせると一礼し、目の前の盤上に没我した――。


 勝負はあっという間についた。太郎松の完全勝利である。

 もともと蘭雪は棋力がそれほど高いわけではなく、どちらかというと他人の将棋を見るのが好きという一風変わった嗜好を持っていた。

 普段の研鑽も「高段者の対局を真に理解するため」と言っても良い。

特に自分がえこひいきする将棋指しを援助することが何よりも喜びであった。

まだ世に出ていない在野の将棋指しを自分で見つけ出し後援する。

大橋本家の河島宗臨六段や伊藤家の和田印哲五段など、蘭雪に見出された後に将棋家の師範代にまで上り詰めた達人もいる。

将棋に己の人生を賭ける将棋指しの潔い生き様が、老いゆく蘭雪に忘れかけていた武士の血をたぎらせたのかも知れない。

 

「いや、坊。おぬし相当強いな」

「へへそりゃそうだ。俺は生まれてこの方、平手じゃ負けたことがねぇからな」

「では、饂飩でも馳走してやるから某に付き合いなさい」


 蘭雪は亡くした息子と将棋を指し、親子水入らずで飯を食うような錯覚に陥ってきて、だんだんと嬉しくなってきた。


「ありがとよ。でもおいらちょっと用事を思い出しちまったんだ。今からすぐに行かないといけないところがあるんだよ」

「それは大層残念であるな。ではまたの機会に致そう」

「ああ、じゃあまたな、おっちゃん」


 そう言って、太郎松は走り去ってしまった。


 蘭雪は太郎松とその後も何度か将棋を指し、その度に彼の棋才に度肝を抜かれた。

 早見え早指しとはよく言うものの、太郎松の才能はそれを凌駕していたからだ。


「天衣無縫」——


 まさにその言葉に相応しい差し回しである。

 あらゆる局面から玉を詰ましにかかる嗅覚は、自然に生きる野獣を思わせた。

 野生の本能に支えられたそれは相手が躊躇を見せたとたん一気に絶命にまで至らしめる。

 そこに人間らしい理屈や理論は無く、強いて言えば「直観」と呼ぶべきものだろうか。

 蘭雪は太郎松に日に日に惚れ込み、何度か将棋家の入門を勧めたことがあった。

 ことと次第によっては自ら口添えすることも提案したが、太郎松は何故かがんとして首を縦には振らなかった。


「ありがとうよ。蘭雪様。でも俺は自分らしいやり方で将棋が指したいんだ。将棋家みたいなところは窮屈で仕方がねぇや」

「そうか、それでは致し方ないな。何かおぬしの力になりたかったのだが……」

「ああ、そうだ。その代わりと言っちゃあなんだがお願いしたいことがあるんだ」

「どうした。何でも申してみよ」

「将棋家に天野宗歩って奴がいるんだ。こいつが俺の幼馴染でね」

「ほぉそうか。で、それがどうした」

「できたら……そいつを助けてやってほしいんだ」

「どういうことだ?」

「たまに本所のお屋敷に様子を見に行ってみると、将棋に負けて毎日泣いているんだよ。俺にはそれがどうしても辛くてね。将棋が弱いんだからしょうがないのだけれど……なんだかあいつは俺の見代わりになっちまったんじゃねぇかって思うときがあるんだよ」


 太郎松は本当に辛そうな表情をしている。


「将棋家の修行は厳しいというからな。相判った。某で助けになることがあれば何でも致そう」


 蘭雪がそう言うと太郎松はほっとした様子で、ありがとうごぜぇますと頭を下げた。

 それが蘭雪が太郎松と話した最後となった——。


 蘭雪は太郎松が失踪してから一週間たった頃、配下の隠密回りに捜索を命じた。 隠密回りとは町奉行の特命を受けて捜索をする上級役人である。

犯罪者でもない町人を捜索させるなど前代未聞だったかもしれない。

 だが、これで江戸周辺の他藩や全国の天領(直轄地)にも捜索範囲を広げることができるようになる。

 蘭雪なりに彼を発見する可能性を少しでも高めようとしたのだ。

 一月が経過した後、彼らが掴んだ情報によると箱根の山中で太郎松らしき男を見た者がいたようだ。

 だがそれ以降、有益な情報はぷつりと切れてしまった——。


(やはり見つからぬか。一体どこにおるのだ、太郎松よ……)


何か胸騒ぎがした。

蘭雪は沈痛な表情を見せる。


(そういえば……太郎松が言っていた幼馴染がおったな。確か天野宗歩といったか。一度話を聞いてみるか……)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る