第六話 逢魔が時
——壱——
冬の終わりを告げようと、東の風が梅を咲かせた頃だった。
夕刻。
宗歩が、師匠との指導将棋のあと屋敷の前でしゃがんで泣いていた。
春先とはいえ外はまだ寒い。
吹きつけてくる風に薄っぺらい着物一枚の宗歩が凍えている。
「うう……、ひぐ」
師匠から特別な指導を受ける宗歩は、他の門弟から嫉妬とねたみを受けた。
時には若い門弟に頭を小突かれ、足を踏まれ、腕をつねられたりもした。
高弟達もその陰険ないじめを見て見ぬふりをした。
将来脅威となるべき存在に慈悲をかける者などここにはいなかったからだ。
だが、宗歩はこういった虐待を受けても決して泣いたりすることはなかった。
(ここは鬼の棲み家——。そんなことは百も承知よ)
そんな宗歩も、師匠に将棋で負けることが一番こたえた。
師匠は八歳の宗歩を相手に手を抜くことをしなかった。
対局中に丁寧な指導があるわけでもなく、一方的に盤上で宗歩を斬殺する。
達人の苛烈な攻めを幼い身体で受け止めるその姿は、まるで剣豪に切り刻まれる
師匠は「才能だけで指し続けられる世界ではない」と言っているのだろう。
才能に溢れた者だからこそ負けることがとても辛く、悔しいのだ。
(でも、もう私には帰るべきところなんてないのよ……)
宗歩も分かっていたから、こうやって屋敷の外で人知れず泣くことにした。
暮れなずむ夕陽が暖かい光を宗歩のもとへと運び込んだ。
橙色の光が少女の身体を優しく包みこみ、冷えきった身体をじわりと温める。
そのとき、見覚えのある少年が宗歩の目の前に立っていた。
その少年は、息を切らしながら肩を上下させ、額にうっすら汗をかいていた。
どうやらここまで走ってきたらしい。
「はぁ、はぁ。お、宗歩じゃねぇか! 久しぶりだな」
「太郎松……どうしてここに?」
宗歩は慌てて着物の
自分が今まで泣いていたことを気取られたくなかったからだ。
この辺りは人通りも少なく、今は二人しかいない。
「奇遇だな。俺はこの先の風呂屋で勝負を済ませてきたところだ。」
「いつもの賭け将棋?」
「まあな、当然勝ったけど」
当時の風呂屋には将棋の対局場が併設されており、賭将棋も行われていた。
それから太郎松は宗歩の横に座って対局の内容を楽しげに話して聞かせた。
「太郎松は強いんだな……。私はもう駄目だ——」
「また師匠に負けてしまったよ」と、宗歩は肩を落としながら静かに呟いた。
落ちていく夕陽が宗歩の顔に差し込んで影を作った。
太郎松にはそれが一層彼女の顔を悲しく映らせた。
「まぁ気にすんなや。俺と比べてお前は才能がないんだからよ」
「え!」
「筋が見えない奴は修行して強くなるしかねぇだろ?」
そう言って太郎松は、がははと笑った。
豪快に笑い飛ばす太郎松を見て、宗歩が目をパチクリさせる。
才能のあるなしなんて誰にも分らない――
「だから悩まずに精進しろ」と太郎松なりの励ましと宗歩は聞こえた。
「そうだな。たしかにお前の言う通りだな。よし! もう一度行ってくるよ」
宗歩はうんと頷いた。
そして、何かに吹っ切れたようにそのまま道場に向かって走り出そうとした。
が、咄嗟にこちらの方を振り向いて、
「太郎松!」
「おう、なんだ!」
「ありがとう」
凛とした爽やかな顔で太郎松に礼を言って、道場の門の奥へと消えていった。
——弐——
将棋は勝負がはっきりする遊戯である。
単純に「勝ち」と「負け」しかなく、囲碁のように負けた側にも分があるような決着の仕方をしない。
また、双六のような偶然性もほとんどなく、あるのは必然性ばかりのみだ。
このような特徴から、「将棋に勝つ」ということが相手よりも知能面において優位に立つという錯覚を抱かせることがたまにある。
さらに太郎松はひどいことに、「将棋に勝つ」ということが全人格において敗者より優っていると大きく誤解をしていた。
(こいつらはなんて将棋が弱いんだ。自分よりもずっと大人なのに情けねぇ)
どうしてそんな阿保みたいな誤解をしてしまったかと問われれば、ことの話はとても単純極まりなく、太郎松が将棋に勝つたびに周りの大人達が称賛し続けたからであろう。
やれ「神童だ」、「末は名人だ」などと囃し立てる者が多くいたからこそ、太郎松も「そこまで言われるのなら」と思い至り始め、いよいよそれを疑わなくなってしまったのだ。
要するに、太郎松は調子に乗ってしまったのである。
太郎松の態度は日に日に横柄になり、人を馬鹿にするような言動も増え始めた。
が、それでも太郎松を諫める者は殆どいなかった。
少なくとも将棋という世界に身を置いている限り、強いものこそが正しいという価値観には一定の説得力があり、その雰囲気は相当拭い難いものがあることも否定しがたい。
——お前たちは凡人で俺は天才なのだ。
これが将棋家であれば、厳しく躾が施されるところだったが、悲しいかなここは町民たちが集う場末の風呂屋である。
所詮他人の子がどうなろうと知ったことではないわけで、大人たちも面倒くさいことには一切関わろうとせずに、むしろ太郎松に賭け将棋をさせてそこに小銭も賭け合わせ自らの懐を温めた。
要するに、大人たちは「神童」を利用したのである。
———参———
桜の木がすべて散り新緑に生え変わった頃のことだった。
賭将棋の金額も大きくなり、対局相手の素性も悪くなっていく中で、それでも太郎松は勝ち続けた。
賭将棋で得た金は母親にほとんど渡してしまい、残った分もすぐに消費した。
なぜか稼いだ金を自分のためにだけは使うことをしなかった。
将棋に関して横柄な態度をすることも多かった太郎松だが、根は小心者で気の優しい青年であったのだろう。
そんなある日、涼しい風が吹く昼下がりに、飯屋から出てきた太郎松の前を見知った者が通り過ぎた。
——天野宗歩である。
天保三年(1832年)五月二十四日、宗歩は十七歳になり四段に昇段した。
在野棋士が通常認められる最高位が四段であったことからもその実力が計り知れる。
今日はその昇段披露宴の日であった。
本所の屋敷から披露対局が行われる両国町まで大橋本家一門で大通りを練り歩くのが慣習となっていた。
当主の大橋宗桂を筆頭に高弟達がその後ろに連なり、真ん中あたりに二重黒紋付羽織を着た宗歩も並び歩いていた。
その横には六歳くらいの利発そうな少年が彼女と手を繋ぎながら歩いている。
この少年の名は、
後の第十一世名人伊藤宗印であり、市川太郎松の終生のライバルとなる者。
「おい、あれを見ろ。天野宗歩だ! 十七歳で四段昇段なんて大したもんじゃねぇか。」
「すごいわねぇ。うちのぼんくら息子にもあれほどの将棋の才能があったら良かったのにねぇ。」
道行く人々が将棋家の参列を賑やかし、そして大いに称えた。
身分制度の厳しいこの時代において、力士の「横綱」と棋士の「名人」は庶民達の憧憬の対象でもあったのだ。
房次郎が宗歩の袴の裾をちょいちょいと引っ張って、
「ねぇ、宗歩様……」と声をかけた。
「うん、どうした房次郎?」
宗歩は房次郎の方を向いて返事をした。
「あの……あちらに私たちをさっきから睨んでいる人がいるのです」
房次郎が指さす方向に宗歩が目をやると、そこには太郎松が立っていた。
その顔は悲しんでいるようでもあり、困っているようでもある何とも言えない表情だった。
「あれは……太郎松じゃないか」
「宗歩様のお知合いですか?」
「うん、私の幼馴染だよ。きっと祝いに来てくれたのだろう。だから睨んでいるはずはないよ。」
太郎松は宗歩をじっと睨み続けていた。
一瞬彼女と目が合った。
が、すぐに目を逸らしてしまった。
いたたまれなくなった太郎松は参列が進む方向と反対側にだっと走り出す。
何故だかわからないけれど、ここにもういたくなかった。
走りながら、太郎松は突然あることに気が付いた。
それは、自分の棋力が将棋を覚えたころから成長していないということだった。
宗歩は将棋を覚えて一年経つ頃には太郎松と角落ちで差し込むまで成長し、とうとう四段昇段を果たした。
すでにその棋力は太郎松を上回っているだろう。
「これはどうもおかしい。俺は将棋を覚えた頃から滅法強かったが、自分が強くなっている実感を一度も持つことがなかった。周りの大人も同じようなものだったから特に気にはしなかったが……」
太郎松はそもそも将棋は才能で決まるものであって、修行しても追い越せるようなものではないと勝手に信じていた。
これまで彼が対局してきた者達は、棋力向上よりも趣味として指していたから、なおさらのこと錯覚に陥ってしまったのである。
太郎松は茫然としながら歩き続け、そのまま家に辿り着くとすぐに布団の中に潜った。
——「成長しない才能」
——それが太郎松の正体であった。
(俺の棋才は、単に早熟であったに過ぎないということか。)
(これから俺は、誰かにずっと追い抜かれるだけの人生を歩むのか……。)
あれほど見下していた宗歩が自分よりも遥かな高みに昇りつつあるのを見て、太郎松は己の才能の正体に半ば絶望した。
(こんなことなら、中途半端な才能なんて少しも要らなかった。)
太郎松はそのまま悶々と明け方まで考え続け、とうとう発狂した。
そして、大きな声で意味不明な言葉を発しながら襖を蹴り破り、外に飛び出した。
その後、太郎松の行方を江戸で見た者はいなかった。
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