第二章 市川太郎松

第五話 幼馴染

 ――壱――

 江戸の本郷の菊坂町――

 その昔ここには菊畑が広がっていたことからそう名づけられたそうだ。


 文政二年(1819年)、この菊坂町にやたらと将棋の強い子供が二人いた。

 同じ裏長屋に暮らすこの二人。

 一人は染物屋の四歳の娘で天野留といい、もう一人は左官屋の七歳の倅で市川太郎松といった。

 二人の父親が将棋好きで、日がな一日縁台将棋を指していた。

 お留も太郎松も父達の縁台将棋を横で見ているうちに自然と将棋を覚え、やがて二人で指すようにもなった。

 

「おうい、お留よ。一局指そうや」


 いつものように太郎松が長屋の引き戸を開けてお留を将棋に誘った。


「うん!」


 お留は待っていましたとばかりに顔をほころばせてこれに応じる

 将棋を始めたころは近所の子どもも参加していたが、二人が不釣合いに強すぎて今となっては彼らだけで指している。


「昨日は六枚落ちで負けたから、今日は四枚落ちにするぜ」

「よんまいおち?」


 四歳のお留は最近ようやく十まで数えられるようになったばかり。

 最初は十枚落ちから始まって、八枚落ち、六枚落ちとよちよち歩きでやって来た。


 二人は木製の将棋盤など持ってない。

 紙をどこかから手に入れてきて、自分たちで墨で升目を引き、即席の将棋盤を作った。

 将棋駒もお手製で、太郎松の父親が彫刻刀で端材の表面に駒字を刻んだ簡素なものだった。


 それでも二人は、この蠱惑的な遊戯に取り憑かれた。

 くる日もくる日も飽きもせずに指し続ける二人にいよいよ周囲の大人も訝しがった。


 太郎松が紙盤に上に置かれていた飛車・角・左右の香車を脇にどけた。

 これが四枚落ちだ。


『よろしくお願いします』

 二人は行儀よく挨拶し、盤上に没我する。


 半刻後——


「ううーん……」

「ははーん、俺の勝ちだ!」

「……」

「お前よっわいなぁ。ひょっとして将棋の才能がないんじゃねぇの?」


 太郎松は、召し取ったばかりの玉将を指で詰まんで、お留の目の前でひらひらと見せびらかした。

 負ける直前からずっと黙り込んでいたお留の目が据わっている。


 ガブッ!


 お留が目の前の将棋駒にいきなり噛み付いた。もちろん太郎松の指ごと全部。


「いってぇぇぇ!」


 一度喰らいついたら離さない狂犬のようなお留に、太郎松が目を白黒させる。


「こ、こいつ何しやがる、いいかげん離しやがれ!」


 ゴチン!


 太郎松が左手を握り締めて、お留の頭に拳骨を食らわせた。


 ガブガブガブガブガブガブ!


「いってぇぇぇぇぇぇぇ!」


 頭を殴られてもお留は気にせず、太郎松の指を強く噛み締める。


「ひぃぃぃ。参った。お、俺が悪かった……。お留、もう許してくれぇ」


 このままだと指を食いちぎられると思った太郎松がとうとう観念した。


「……」


 カプ


 お留は指を噛むのを止めて、口の中に含んでいた玉将をぺっと吐き出した。


(取られた玉将を……、なんちゅう執念だ……)


「ふぅ、なんてやつだ。うわぁ……歯型がくっきり付いてるじゃねぇか。血も出てるし……」

「……松にぃがわるい」


 しゃあー!と威嚇する子猫のようだ。


「とほほ、まったく負けん気が強いやつだな」


 要するに、天野宗歩と市川太郎松は幼馴染だった。


 ——弐——

 最初に棋才を発揮したのは太郎松の方だった。

 近所の腕自慢の大人達をもろともせず、とうとう将棋家の門下生にまで土をつけた。

 この噂を聞きつけた将棋家がさっそく太郎松の父親の元に勧誘にやってきた。

 だが、父親としては息子の不確実な将来よりも、手堅い左官屋を継がせたかった。

 そんな親心を知らない本人も、窮屈なところで毎日将棋の修行を強いられるなどもってのほか、ただ好きなことをして気ままに暮らしたいと短絡的に考えていた。


「俺は修行などせんでも最初から強いのだ。努力など才能がないもんがするんじゃ」


 太郎松は、若干八歳にして自らの棋才を頼みとし、その心意気は天上天下唯我独尊の域まで達した。


「ねぇ、松にぃ」

「あん? なんでぃ」

「将棋のいちばん強い人ってうちのおとっちゃんかな?」

「んなわけねぇだろ。名人に決まってんだろう」

「めいじん?」

「ああ、この世で一番強いやつだ。江戸だけじゃねぇぞ。全国だぞ」

「どうしたらめいじんになれるの?」

「そ、そりゃあ将棋家に入門して、八段になって…ごにょごにょ」

「ふーん。松にぃはめいじんにならないの? 強いのに」

「お、おれはその…なんだ……うっせぇな、他に目指すもんがあるんだよ!」


 嘘だった。単に頑張るのが面倒くさいだけだった。


 その後この少女は大橋本家に乞われて入門し、「麒麟児」天野宗歩として棋界に躍進する。


 時は流れて天保元年(1830年)十二月、天野宗歩は僅か十五才で三段に昇段する。

 太郎松は、齢十八になってもまだ実家で惰眠をむさぼっていた。

 最近は家の手伝いをすることもなく夕刻に起き、一人でふらふらと隣町まで遊びに行ったまま帰ってこない日が続くことも多かった。

 親のほうも怠け者の太郎松にほとほとあきれ果て、左官屋を継がせることも諦めた。

 せめて食い扶持が一人減ったと考えるようにし心配することもなくなった。

 太郎松は賭け将棋で金を作った。

 公に禁止されている賭博ではあったが、日常的に横行しておりその筋のところに通えばだれでも興じることができた。

 

 ここは江戸市中の銭湯。

 この時代、たいていの銭湯の二階には将棋コーナーが併設されていた。

 今でも古い銭湯に謎のレトロゲームが置いてあるのはこの名残かもしれない。


 他には床屋にも縁台将棋が置いてあったそうだ。


——明日でも剃ってくれろと、飛車を成り


 将棋に夢中になる江戸庶民の姿を映す川柳である。



「さぁさぁ、相手はいないかね! 掛け金はいくらでもいいよ」


 太郎松が番台に腰かけて、威勢良く声を張り出す。


「よぉし、俺が相手だ」


 それと同時に、ここらへんでは見慣れない髭を生やした大男がやってきて、太郎松の目の前にどすんと腰を下ろした。


(ははん、こういう手合いは自信家が多いんだよね)


 太郎松は、勝負を有利に働かせるためにまずは挑発を入れることにする。


「おうさ。おっちゃん、手合いはなんだい? 角落ちでどうだい?」


 髭男の顔が、その言葉を聞いた途端に引きつり紅潮した。


(いいぞ、いいぞ。効いてる、効いてる。くほほ)


「お前さん、俺様が誰だか知らんのか……?」

「さぁ、しらねぇ。」


 大男がぐぬぬと呻きながら、

「天下の伊藤家の伊藤金五郎の名を聞いたことがないか?」

「あぁ、聞いたことがあるぞ」

「そうだろう、それこそが俺様だ!」

「このまえ宗歩に負けたへぼだろ」

「な、なんだとぉ!」


 周りの観客がどっと笑いだした。

 金五郎はいきなり恥をかかされて、ますます顔が真っ赤になっていく。


「俺はさ、天野宗歩に一度も負けたことがねぇんだよ。だからお前なんぞは角落ちで十分だ」

「貴様ぁ……後悔するなよ」


 この伊藤金五郎、第十世名人伊藤宗看のれっきとした三男である。

 だが、酒を好み素行が悪かった金五郎は、伊藤家の実子でありながらも勘当寸前であり、その憂さ晴らしに賭け将棋に身を投じることがあった。


 太郎松の将棋は滅茶苦茶である。

 まず指し手が異常に早い。早見え早指しの棋風。

 太郎松が間髪入れずに指し続けるものだから、相手は自分だけが思案を強いられているような感覚に陥り、少しずつ調子が狂い始める。

 序盤は定跡とは程遠い指し回しで相手を混乱に陥れ、中盤以降の読みの深さが尋常ならざるものがあり、至る所から一気に寄せにかかった。


 将棋はミスをしたものが負ける——


 金五郎の中盤のわずかな緩手を見逃さなかった太郎松は、あっさりそのまま相手玉を必死に追い込む。


「ぐぬぅ……俺の負けだ……」


 金五郎が、何が起きたかよくわからない様子で投了を示す。


「よぉし、きっちり金は払ってもらうからな」

 

 と、太郎松は無邪気な笑顔を見せながらそう言った。

 だが、このとき太郎松の心の中には少しだけ焦りが生じていた。

 将棋家に入門し、着々と昇段する天野宗歩。

 場末の将棋場で賭け将棋に身を投じるしかない自分。

 

 銭湯の壁の隙間から西日が指し込んできて太郎松の背中にくっきりと影を作った——

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