第参話 四香同視

 雨が徐々にきつくなり、とうとう雷が鳴りだした。


 宗歩は、駒台に置かれた角を手に取り、相手の陣地に放り込み馬を作る。

 柳雪の攻撃陣をかく乱させ、少しでも相手の攻めのスピードを緩和させる狙いだ。


(ふぅ、これでなんとかしのげるかな。)


 宗歩は少しだけ安堵した。

 が——、その瞬間。


 カチリ。

 白い指先が、すっと宗歩の胴の近くにまで伸びてくる。

 4九角!

 柳雪もまた宗歩と同じように相手陣に角を打ち込み飛車を狙う。


(し、しまった! これでは間に合わない)


 宗歩の自陣飛車は、これまで柳雪の疾風怒濤の攻めを必死に持ちこたえてきた。

 並みの将棋指しであれば、大事な飛車を取られまいと▲3九へ逃がす手が一目思いつく。

 だが宗歩には、この飛車が一段下に下がると、柳雪に馬を作られ一気に敗勢となる局面が見えてしまった。


(あぁ――迂闊うかつだった。読み抜けか……)


 己の不甲斐なさにたまらなくなった宗歩は、柳雪の表情を伺うように見た。

 柳雪は、こちらの視線には気づかずに盤面に視線を落として集中し切っている。


 ——盤上没我


 棋士が対局するときの集中し切った状態を指す言葉だ。


(これほど強い御方が名人になれなかったなんて絶対におかしい)


 宗歩はふつふつとなんだか悔しい気持ちになってきた。

 それに、自分が今こうしているのだって……


(いけない、いけない。盤面にちゃんと集中しないと)

 

 宗歩がまだ江戸の将棋家にいた頃、宗歩は毎日のように柳雪に指導対局を指してもらっていた。

 それこそ何百局と数えきれないほどの回数を二人で指し続けたのだ。

 指導対局だけでなく、将棋家に秘伝として伝わる数々の定跡についても柳雪は惜しげもなく宗歩に教えた。

 宗歩は柳雪に将棋の技術を叩き込まれ、日に日に成長していくことになる。

 そんなある日のこと、いつものように二人が対局をしていた時、突然柳雪が宗歩に尋ねたことがある。


「宗歩さん」

「はい!」

「好手を見つける秘訣を知っていますか?」

「好手……ですか? 分かりません……」

「ふむ。『四香同視』という言葉を聞いたことがありますか?」

「『しきょうどうし』? いえ、ございません」

「ふふふ、将棋盤の四隅にはいつも何がありますか?」

「それはわかります。香車です!」

「そうそう。その四隅にある香車を同時に見るのが秘訣なんです」

「ムムム……」


 難しい顔をしながら、さっそく宗歩が盤面にある四つの香車を同時に見ようとする。

 が、宗歩の両目はどれか一つの香車に視点を合わせると、途端に他の香車に目がいかなくなりうまくいかなかった。

さればと左と右の眼で左右を別々に見ようと試みるも、目玉がつりかけて悶絶する。


「む、無理ですよぉ。香車を一つ見るので精一杯です」

「ふふふ、訓練すればきっとできるようになりますよ」

 意地悪な柳雪は、それ以上は説明せずに口を閉じて対局に集中してしまった。


 このとき宗歩には、どうして香車を四つ同時に見ることが、好手を見つけることに繋がるのか良く分からなかった。

 だが、尊敬する柳雪が言うことだ。

 きっと何か意味があるのだろうと考えて、その日から何度も何度も繰り返し練習し続けた。


「ええと、四つを同時に、四つを同時に……」


 ある日、宗歩は寝る前に自分の部屋で「四香同視」の訓練を行っていた。

 が、一向にうまくいく気配がない。

 いよいよ宗歩は参ってしまい、柳雪が自分をたぶらかしたのではないか疑うようになった。

 そしてここは思い切って、師匠の大橋宗桂おおはしそうけいに聞いてみようと思い立った。


「あの……、失礼します。おししょうさま、起きていらっしゃいますか?」


 宗歩が、恐る恐る宗桂の寝室の前で師匠を呼んでみた。

 が、返事がない——


「……うーん、返事がない。けど灯はついているから……おじゃましまーす……」

 宗歩がそーっと部屋の障子を開けると、


 目の前に、白装束に包まれた無表情の宗桂が立っていた——


「ふぎゃあーーー!」


 ドスン!

 お化けが出たと驚いた宗歩はひっくり返って尻もちをついた。

 危うく失禁しそうにもなる。


「宗歩か。夜更けにどうした?」

 宗桂は何事もなかったようにその場に突っ立っている。

 どうやら宗歩が声を掛けてきたので、障子を開けてくれようとしていたらしい。


「い、いえ……」


(ししょう、気配なさ過ぎて怖すぎるよぉ……)


 寝室に通された宗歩は正座して、

「あの……おししょうさまに一つ聞きたいことがございます」

「……」


 宗桂が宗歩に黙ってこくりと頷いた。

 何も言わないが「了承した」ということなのだろう。


「『四香同視』ってどうやったらできるのでしょうか? わたし、同時に四つの香車を見ることができなくて……」

「……私も同時にはできない……」

「えええええ!」


 宗桂の意外な回答に宗歩は再びもんどりうった。

 そして、師匠ができないようなことを自分ができるわけがなかろうと、なかば柳雪に憤慨した。


「だが……」

「え?」

「四隅の香車を順番に見ることはできる。それでよい。」

「え? そ、それでいいのですか?」


 黙ってこくりと宗桂は頷いた。


 そんなことを思い出しながら、どれほどの時間が経ったのだろう。

 ふっと顔を上げ柳雪をもう一度見た。


 ドン!


 突然、外で雷光が走った。


(雷が落ちたか)


 一瞬、柳雪の顔がはっきりと照らされた。


(柳雪様の教え——)


(「四香同視」——そうか! 盤面全体を広く見るんだ。このどこかに……。ここか!)


四香同視とは、香車を同時に見ることがそもそも目的ではない。

将棋を指していればどうしても直前に指した部分に集中してしまう。

そうすると視野が狭くなり、好手を見つけられなくなる。

だから、一手指すごとに四隅の香車を見なおして、視野をクリアにすることが肝要であるという教えだった。


 バチン!駒音が鳴る。

 ▲3九歩


(飛車はもう逃げない!)


「おや……」


 柳雪が小さく声を漏らした後、すっと手を伸ばす。

 △3八角成


(飛車は捕られた。だが……)


 ▲同歩

 △3七歩成

 ▲同歩

 △2六銀……


(銀をさばきに来た——ここだ!)


 ▲9五歩!

 宗歩の手から放った「歩」が光を放つ。


(大橋家の者は自らが巧とする


(私にとって——それが、「」だ!)


 宗歩は一番端の歩を一気に詰めた。

 これまで全く視界に入っていなかった筋からのいきなりの強襲を見せたのだ。


 柳雪の手がふいに止まった。暫く黙って考えてポツリと洩らす。


「なるほど、銀が……間に合わないのか……」


 あたりはもう暗闇となり、部屋の行灯だけが盤面を映している。

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