第四話 柳雪の夢
——壱——
将棋盤を前にして二人は何時間も正座し続けている。
気づけばあれほど強かった雨が通り過ぎたようで、雨足が弱くなっていた。
宗歩は顔をあげて、柳雪の方をちらりと見た。
真剣な顔つきで、盤上に視線を落として現局面を考え込んでいる。
「あの、柳雪様……」
「はい?」
ふっと顔をあげて宗歩の方をじっと見つめた。
「その……お耳のほうのお加減は?」
宗歩はこれまでずっと気になっていたことを思い切って尋ねてみた。
「ああ、大丈夫ですよ。音はもう少ししか聞こえないのですが、相手の唇の動きで意味は読み取れますから。その代わり相手をじっと見ていないといけないので、身分の高いお方の相手は勤められません」
(——読唇術か)
「そうでしたか……。すみません、変なことを聞いてしまって」
「いえいえお気になさらず。さあ盤上に集中しましょう」
数時間後、 一手一手互いの手が進むにつれて、勝敗がはっきりしてきた。
八十二手目、宗歩が▲9四歩と端に着手したのを見て、柳雪が宗歩に頭を垂れた。
「参りました。ありません」
まだ自玉の囲いが崩されていないにもかかわらず、柳雪は投了を示す。
「ありがとうございました」
宗歩も柳雪と同じように丁寧に頭を下げた。
投了図以降、仮に柳雪が攻めを続けていても、はっきり一手足りない。
互いにそれを読み切っているからこそ、これ以上指し続ける意味がない。
ぴったり一手差———宗歩の深い読みがそうさせたのだ。
「本当に強くなりましたね」
「いえ、まだまだです」
「そんなことはありませんよ。▲3九歩からの端攻めの構想は大変素晴らしい。」
「でも……」
一瞬だけ、宗歩の表情に暗い影が差して、そのまま俯き肩を震わせている。
「でも?」
「い、いえ……、なんでもありません……」
何かを忘れたいのか宗歩は左右に首を振りながら黙りこんでしまった。
「宗歩さん」
名を呼ばれ、宗歩ははっとなり顔を真っすぐあげた。
(そうだ、私の目の前にいるのは、あの優しい柳雪様だ)
(私が独りでいるときも、悲しんでいるときも子供のときからずっと一緒に将棋を指してくれた人)
宗歩は勇気を出して自分の心の内を伝えることにした。
「あの……、実は私……名人に……なれなかったんです……」
ずっと秘めていたものを一気に告白してしまうと、今度は行き場のない悔しさが胸に込み上げてきて、涙が溢れ出た。
「十八になって五段まで昇段できたので、思い切って師匠に『私を名人にしてください』とお願いいたしました。」
「それで……あなたの師匠は何と?」
「私では名人は勤まらないとだけ……」
「どうしてですか。まだ実力が足りなかったのでしょうか」
「いえ、その……」
「あなたが……、女だからですか——」
「!!」
柳雪が真っすぐに宗歩を見つめている。
「ど、どうして……それを?」
「そりゃ男装していても気づきますよ。私は花柳界にも精通しています。女装や男装の類には敏感なんですよ。まぁ他の方は将棋に夢中で気づいてなかったようですが」
そう言って、柳雪は宗歩に意地悪く笑って見せる。
「師匠によると『女』はもともと名人にはなれないそうです。私、それを聞いて頭が真っ白になって、だったらなんで師匠は私を弟子にしたんだろう、今まで何のために頑張ってきたんだろうって……」
宗歩は堰を切ったように一気に話して、「それで……気づいたら江戸を飛び出していました」とがっくりと肩を落とした。
「無茶しますね。それで私に
「はい。柳雪様しか頼る人が居なくて……」
ふと、宗歩が障子から外を覗くと、雨はすっかり止んでいた。
——弐——
しばらく二人の間に沈黙が続いた後、
「あなたは、大橋宗英を知っていますね」
柳雪が突然宗歩にそう尋ねてきた。
「第十世名人。柳雪様のお師匠様ですよね……。直接は存じ上げませんが……」
「ええ。具合が良くなかった宗英名人は、一年に一度だけ将軍様の御前で将棋を指す「御城将棋」に無理を押して出かけられました。名人としてお役目を果たすためです。しかし……対局中に体調が急変し、屋敷に戻った直後亡くなられました……」
その時のことを思い出してしまったのか柳雪の体が少し震えている。
「将棋指しは親の死に目にも会えない」
ふっとそんな言葉が宗歩の脳裏に霞んだ。
(名人とはそこまでしなければならないのか———)
「そのとき私は生きる目標を見失いました」
「わかります。宗英名人は、柳雪様だけでなく将棋にかかわる全ての者にとって父親のような存在ですから……」
涙で真っ赤になった宗歩の目が盤面に視線を落としている。
単なる戦法の開発だけではなく、将棋そのものの価値観を破壊し創造したその功績は他と比べるべくもない。
宗英名人を失ったときの柳雪の喪失感は計り知れなかっただろう。
「その後、私は宗英様の嫡子、大橋宗与様の養子になりました」
柳雪は宗歩を真っすぐ見つめ、ほとんどかすれる様な声で、
「宗与様は父である宗英名人を信奉しておられました。本家と比べて立場の弱い分家の当主として、もう一度あの父のような偉大な名人を当家から輩出したい。それが将棋家の嫡男に生まれついてしまった宗与様の夢でした——」
柳雪の表情が少しだけ苦しそうに歪んだ。
「しかし……自分に棋才がないことを理解していた宗与様は、私にその夢を託すことにしたのです。つまり……私を、第二の「大橋宗英」とすること——」
「でもその夢は……」
「ええ叶いませんでした。耳を失ったとき、二代目大橋宗英は死んだのです」
雨が止んでからしばらく経って、虫の鳴き声が微かに聞こえ出してきた。
「しかし、私の夢はまだ潰えていません」
「え!?」
「私はその後、縁あって京都に落ち着きました。そして気づいたのです。将棋は名人や将棋家だけのものではない。関西には段位がなくとも実力がある者が沢山います。定跡に頼らずとも自由闊達に楽しく将棋を指す者もなんと多いことか」
柳雪は宗歩をしばらく見つめて、意を決したようにこう言った。
「私はこの上方に江戸に対抗する将棋家を興したい」
「なんと!? そんな……畏れ多い」
「宗英様は虚実を兼ね備えた名人でこれほどの将棋は他にはありませんでした。しかしまた将棋の普及にも熱心で身分や性別を問わず誰にでも指南されました。」
「存じております」
「私は他人を蹴落としたり、憎み合ったりするのではなく、皆が自由に将棋を楽しめるそんな将棋家を創りたい——」
柳雪が優しい眼差しで宗歩を見た。
「私は名人にはなれなかったが、二代目大橋宗英ではあり続けたいと思います」
「柳雪様……」
——参——
雨が止んで夜も深くなり、遠くの方から蛙の鳴き声が聞こえてきた。
「さて、あなたに渡したいものがあります」
突然の柳雪の申し出に宗歩の胸が少しだけざわついた。
「何でしょうか?」
柳雪はゆっくりと腰を上げて近くにあった文箱から一枚の書状を取り出した。
「大橋本家十一代目当主、大橋宗桂様からの文です。つまりあなたのお師匠からですよ」
「え!」
宗歩は恐る恐るその文を受け取りそっと開く。
その手紙には、たった一行このように書かれていた。
「——宗英は雪の白きが如く、宗歩は紅の赤きが如き——」
あの「鬼宗英」と並ぶと評する最高の賛辞である。
宗歩の目からどっと涙があふれだした。
ああ——、自分は師匠に認められていたのだ。
ただ好きで将棋を指している自分と違って、師匠には将棋家をそして将棋そのものを世に残す責任があったのだろう。
それが解らぬほど子供ではなかったが、思い通りにいかぬことが重なった結果不審が募り、挙句の果てには被害妄想に取り憑かれていたのだ。
——そうか。
——私は名人になりたかったのではなく、ただ師匠に認められたかっただけなのかもしれない。
「ふふ、泣いてばかりですね。私」
「大丈夫、宗桂殿はあなたを認めています。彼はもともと感情を表現するのが苦手な人なのです。御城将棋でも老中相手にずっと仏頂面でしたから。私も伊藤名人も冷や冷やものでした」
「あはは。師匠らしいですね」
「それに、五つの少女を弟子にしたとき、彼もまた十六の青年でしたからね。どう接してよいか判らなかったのでしょう。『とりあえず力の限り全力で指導した』と無表情で私に語っていたのを今でも覚えています」
「そ、そうだったのですか……」
(ど、どおりで厳しすぎると思いましたよ……師匠ぉ)
「宗歩さん、全国には猛者が沢山います。彼らと戦うことであなたはもっともっと強くなる」
「はい!」
「そして将棋を楽しみなさい。所詮は遊戯なのですから——」
柳雪は少し寂しそうにそう言って宗歩に笑いかけた。
七年後、柳雪は病によりこの世を去る。
将棋家を創る夢は叶わなかったが、彼には約160局の棋譜が後世に残っている。
後年、宗歩は京都に移り住み、在野の棋士として三千人の門弟を抱えて将棋家を興すこととなる。
この物語は、「幕末の棋聖」天野宗歩の一代記である。
だがこの物語りは始まったばかり。
天野宗歩が御城将棋にて江戸将棋家と対峙するのは、まだまだ先の話であった。
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