第弐話 将棋家④

 天野宗歩と大橋柳雪が出会ったその一年後の文政八年(1825年)、とうとう『荒指し』伊藤宗看は第十世名人への就任を決めた。実に十年越しの悲願であった。


 あの柳雪が宗看に連敗を喫したのである——


 さすがにこれでは大橋宗与もろくな抵抗ができず、そのままの流れで名人推挙が着々と執り行われた。


 だが、宗与は諦めていなかった。


 ——「荒指し」の宗看もすでに齢五十七歳、とうに先は知れておるわ。


 そのように考えて、己の計画を密かに修正した。


 新名人誕生の知らせから間もない二年後の文政十年(1827年)五月——

 柳雪は名人候補にのみ許される『八段』への昇段を果たすため、二代目「大橋宗英」を神田明神で襲名した。

 この襲名披露には、養子の柳雪を大橋分家の正統な跡継ぎとして世に知らしめ、現名人伊藤宗看の次の第十一世名人への布石とする狙いがあった。


 ところがその矢先、柳雪は流行り病に罹り、聴力を失った——


 将棋を指すのに聴力など要らないと強がる柳雪に対し、宗与は冷たく言い放つ。


「柳雪さん。名人はただ強いだけではだめなのです。数々のご公務、幕府高官との交際、囲碁所との折衝、在野棋士や門下生への指導など多くの役割を担うのです。だから——」


 耳を失ったあなたは、もはや名人の器ではありません——


 柳雪は、その後大橋分家を廃嫡となり江戸を去ることになった。

 十五歳の宗歩は、このとき初めて将棋家に対して不審を抱く。


(どうして……? どうして柳雪様が廃嫡されないといけないの?)


(名人とは一体何なのか——?)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る