第28話『クラスの形』
割愛させてもらう。 何を、と問われれば当然私が結局一人で練習することの無謀さを知り、現実が如何に残酷かということに打ちひしがれ、成瀬君に泳ぎを教えてもらうことになった、という話だ。 そんな話には価値もなければ意味もない、だから話す理由もない。 そもそも泳げない人が泳げるようになる話なんて誰が聞いても面白くなく、退屈だろう。 だから私は今後、その話題について友人と話しているときに触れることがなければ話すことなんて断じてない。 これは決して私が話したくない、などという私情まみれの理由ではなく、話したところで大して面白味のない話だから、だ。 長峰さんや秋月さんや道明さんだって、私が泳ぎの特訓をしたという話をしても喜ばないはず。
……いや、喜ぶかも。
とにかく! この話は割愛。 私は成瀬君の教えもあり、なんとかそれなりの形にはすることができた。 泳げるというのには程遠いけれど、成瀬君の教え方はとても上手く、ひとまず足の付くところで溺れることはなくなった、足の付かないところでも浮くくらいはできるようになった。 そのようなわけで、臨海学校の日はやって来た。
「っはあああ……ようやく何もかも忘れてゆっくりできる……」
「お疲れですね、秋月さん」
少し痩せただろうか? バスでの移動、隣に座る秋月さんは大きなため息を吐き、疲れきった顔だ。 来月末に控えている紙送りのため、最近では忙しそうにしていたこともありあまり会話をしていなかった。 本来であれば週末、休日である今日のような土曜日や日曜日は、朝から晩まで紙送りのための準備をしているらしい。 が、本日この日は臨海学校ということもあり、その神社のあれこれから解放されたというわけだ。
「定年迎えた老人みたいだな」
と、前の座席から顔を覗かせるのは成瀬君だ。 その隣には長峰さんが座っており、北見先生の配慮のおかげか、こうして仲が良い人たちを一緒にまとめてくれたことには感謝しなければならない。 それよりも意外だったのは、長峰さんがこの座席に何一つ文句を言わなかった、ということである。
「隠居したい気分だよ。 それに紙送りが終わっても、少し経てば正月だろ? 気が滅入ってくる」
きっと、秋月さんにとってはあっという間なのかもしれない。 この時期から忙しくなり、気付けば年を越していて……それは、本当にあっという間の出来事だ。 かくいう私も、高校に入ってからの日々はあっという間のものだった。 これほど短く感じたのは、生まれて初めてかもしれない。 毎日が楽しいとこれほどまでに時間が過ぎ去るのは早いのか、不思議だ。
「正月ってあれでしょ? 参拝してくる人の案内とか、おみくじとかお守り売るやつ」
長峰さんは窓枠に肘をつき、窓の外を眺めながら言う。 こちらに視線を向けずとも、私たちの会話に入ってきているということは分かった。
「バイトも雇うがな。 私は家の付き合いでの挨拶や、裏方の仕事が多いよ。 それでも間に合わなければそっちの対応もしなければならない」
「聞いているだけでも大変そうですね」
「なに、今回は冬木と成瀬も手伝いに来てくれるから幾分か気楽だよ。 二人とも仕事はできそうだしな」
「……そういえばそんな約束しちゃってたな」
私はしっかりと覚えていたが、どうやら成瀬君は忘れていたようである。 神社の仕事、というのは少しだけ興味はあるので、実のところ楽しみでもあるのだ。 成瀬君も本当のところはきっと、楽しみにしているに違いない。 風情が感じられるのは好きだ、と前に言っていたし。
「そうなんだ? ふうん……私も手伝おっかな、どうせ暇だし」
「友達と遊ばなくて良いのか?」
長峰さんが言うと、秋月さんがそう返す。 長峰さんが今までどのような交友関係をしてきたかは分からないが、少なくとも年末年始は友達と遊ぶ、というのがいつも通りらしい。
「去年のこととか、もう覚えてすらないし。 それなら神社で手伝いしたって方が記憶に残りそうじゃない? それに巫女服ちょっと着てみたいなーって」
「珍しいな、自分から言うなんて」
成瀬君が言う。 確かにそう言われると、長峰さんが自らというのは珍しい。 しかし、人手は多いに越したことはないだろう。 それこそ秋月神社となれば、紙送りや初詣などは隣町やその更に遠くからも人がやってくるほどだ。 紙送りのときはたまにメディアも来たりしているほどに、有名なのだ。
『……長峰の巫女服か』
……ふむ。
「成瀬君が長峰さんの巫女服と聞いて変な眼で見ていますよ」
「へ? いやそんなことは!」
「ふうん? 嫌だよねー男子って。 どうせ秋月さんの巫女服とかにも欲情してるんでしょ?」
「それはない、絶対に」
「よく分からんが、着いたら一発殴るか」
ふふん、天罰だ。 女子のことを変な眼で見ている成瀬君が悪いのだ。 大体、そもそもメインは秋月さんのお仕事の手伝いであり、それを成瀬君は分かっていない。 意識が足りないとしか言えず、だからこうなるのも仕方ないことだ。
「ギャップすごそうだなって思っただけだからな」
「何よそのギャップって。 私ほど清廉な人もいないと思うんだけど?」
「それをマジで言ってる辺り、そろそろ頭見てもらった方が良さそうだな」
と、すぐ前の座席では最早定番となりつつある言い合いが始まった。 それを見ていた秋月さんは思わず笑っており、私も釣られて笑ってしまう。
「やはり楽だな、冬木たちといると」
「そうですね、私も皆といると楽しいですし、楽です」
気が、楽なんだ。 気を使う必要もあまりなく、ふざけあうこともでき、馬鹿みたいな話で盛り上がって、とても建設的とは言えない時間を過ごしていく。 それはもしかしたら駄目なことなのかもしれない、世間一般では無益なものなのかもしれない、もっと真面目に学生生活に取り組めと言われるかもしれない。 けれど、私にとってはとてもかけがえのない時間に思えた。
……いつか、こんな時間も終わってしまうのだろうか。 何も考えず、何も気にせず話せる時間、過ごせる時間は終わってしまうのだろうか。
「そういえば冬木、流れなどは頭に入っているのか? 直前に進行役と聞かされたと言っていたが」
「ええ、大体はもう大丈夫です」
想いを馳せていたところ、秋月さんから再度声がかかる。 行程は何度も見直しているから問題はない。 今日は海水浴と救難訓練、漁港関係者による指導、夜には肝試しと聞いている。 もちろん専門の分野は専門家の人が指導、指揮をしてくれることになっており、私と成瀬君がするのは定時の点呼や整列、担任教師への定時連絡だ。 私はもう大丈夫だが、成瀬君の方は大丈夫だろうか?
「さすがだな、道明の方は?」
「まだ分かりません……できる限りのことはしますが」
「臨海学校中なら私も自由だ、協力させてもらうよ」
そう、本来の目的というのは盗難事件の犯人を見つけること。 臨海学校中、特別な理由がない限りは少し広いものの行動範囲は決まってくる。 限られた時間ではあるものの、証拠を探し犯人を探すのはここしかない。 調査をできるのは昼の休憩時間と夕方の自由時間、そして夕食後から就寝までの数時間だ。 あまり多いとは言えないが、そこで調べきるしかない。
「いえ、折角休める機会ですし……」
「お前らと一緒に居たほうが色々忘れられる。 私はそっちの方が気が楽なんだよ」
「……そうですか。 では、お願いします」
「お願いされた。 まぁ、足手まといにはならないようにするさ」
私の周りには本当に頼れる人というのが、沢山いる。 私には勿体無いくらいの人たちで、そんな人たちに支えられながら私は生きているのだ。 そしてその人達は、私にとって特別だ。
「では、目的地に着きましたので点呼を取ります。 整列してください」
それからバスは山を超え、隣町の海岸沿い、宿泊地の目の前で停車した。 バスから降りた私たちは、まずその近くへと並ぶ。 北見先生は今回あまり口出しはしないと言っており、どうやら生徒たちのみでまとまり、進行していくというのが目的の一つでもあるらしい。 いざというときは北見先生も指示を出すと言っていたが……北見先生の場合、いざというときには既に手遅れになっている気がしなくもない。
「そんでさ、昨日
「マジ? どうなったの?」
「なにそれ、うける」
「肝試しとかつまらなさそうじゃない?」
整列、なんて言葉とは程遠い。 思い思いに仲のいい人たちでまとまり、私の言葉には聞く耳持たずで話に夢中になっている。 他のクラスはどうだろうと視線を動かすと、私たちのクラスとはまるで違い、綺麗にまとまっているものだった。
「まぁ大体分かってたことだけどな」
横にいる成瀬君の言葉を聞き、北見先生の言葉が思い起こされる。 バラバラのクラス、という言葉だ。 クラスの雰囲気は決して悪くない、だからこそ余計に厄介だと言えるのかもしれない。 一見してまともなクラス、問題点など全くないように見えてしまうのだから。
「おい、テメェでできねえなら北見呼べよ」
そんな私に声をかけたのは、
「まとめようとはしてるだろ」
「これでか? 並んでるのはアタシと
成瀬君が私を庇うように言うも、西園寺さんはすぐに切り返す。 言葉通り、私の言葉に従っていたのはその人達だけだ。 琴音と呼ばれた人は、いつも西園寺さんと一緒に居る人で、苗字は
「すぐに北見に頼ったって何も解決しないだろ、クラスでまとまるってのも目的の一つって話だし」
「だったらアタシを巻き込むな、なんでまとめられないの分かってて待たなきゃいけねーんだよ。 できねえなら最初からすんな、無理だってことは分かりきってたんだし、断っときゃ良かっただろ」
「あの、二人とも喧嘩は……」
「最初からやらないよりマシだ。 冬木は少なくともやろうとしてる」
「無理って分かってるのにやるのは馬鹿っつうんだ」
長峰さんとの言い合いの比ではない。 お互い退くことは知らなさそうだ、これは言い合いをすればするほど溝は深まっていく。 今すぐ止めなければと思うも、その手立てが私にはない。 長峰さんは素知らぬ顔をしていて、水原さんはどうしようかと考えていはいるものの行動に移せる人でもない。 それは私も一緒で、こういうときどのように止めれば良いのかが全く分からない。
「綺麗に並べば問題ないということか、成瀬に西園寺」
そこで口を開いたのは秋月さんだ。 少し……怒っている?
「アタシは時間の無駄さえなけりゃどうでもいい」
「俺もまぁ、並ぶなら」
「そうか、なら」
秋月さんは息を大きく吸い込む。 そして、未だにこちらで揉め事が起きていることにすら気付いていなさそうなクラスに向け、声を放つ。
「貴様ら10秒で並べッ!!!! 並ばなかった者はこの私が殺すッ!!!!」
辺りは一瞬で静まり返る。 他のクラスにも聞こえていたのか、視線の全てが秋月さんへと集まる。 そんなとんでもなく物騒な言葉と、その言葉を発したのが秋月さんだということは、数秒で誰もが理解した。
……私はこの日、恐怖政治という言葉の最も分かりやすい在り方を垣間見た気がする。
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