第6話『歩み』

「あー……」


 思いの外、銭湯は満足の行くものだった。 人が少ないということもあってか貸し切りだったし、何より広かったのが心地よかった。 本来だったら俺は長風呂の方なのだが、その原因たる朱里が今日はもちろんおらず、冬木よりも早く上がることができた。 そんな俺はソファーに座り、冬木が出てくるのを待ちながら備え付けられているテレビを無意識に見ている。 中身を頭に入れるわけでもなく、特に視線をやる場所がなかったからただなんとなくといった風に。


 今回の件、北見が関わっているというのは最早間違いがない。 冬木が受け取った感情もそうだし、北見の行動そのものがそれを物語っている。 長峰もそのことには気付いていそうだったし、秋月も勘は良いし気付いているだろう。


 何より最大の問題は、その影を掴むということだ。 北見に直接聞いてしまうのが一番手っ取り早いのはそうなのだが、北見に聞いたところで答えてはくれないだろう。 わざわざ冬木に頼んできた、ということは教えるつもりもないはず。 つまり冬木や俺、秋月や長峰を使って解決したいというのが北見の考え。 自分ではどうにもならない、どうにかできない、もしくはしたくない……といったところか。


 しかし北見も無理難題は押し付けない。 解決の糸口は必ずどこかにあると見て良い。 俺たちの近くにか、それとも思いも寄らぬところにか。 北見はそれを知っていて俺たちに任せたんだろう。


 噂が出始めたのは、秋月曰く約十年近く前。 俺はもちろんこの地にいないし、冬木もいない。 関係あるところで考えれば、秋月や長峰の周りという可能性が高い。 だが、二人は当然周りの知ってそうな奴には話を聞いている。 それはここ数日の経過報告で分かっていることだ。 考えれば考えるほどに分からなくなってくる。 どんな問題であれパズルのピースを埋めるという作業は変わらないが……そもそもピースが足りていなければパズルを完成させることができないように、何かが足りていないのだ。


「お隣良いですか?」


「ん、ああ出たのか」


 突然かけられた声に顔を上げると、白い肌を火照らせた冬木がそこに立っていた。 髪はちゃんと乾かしてあり、一応冬木も女子らしい。 なんて失礼なことを考える。


「たまには銭湯というのも良いですね。 いつもと違って、リラックスできました」


「貸し切りだったのか? こっちは貸し切りだったけど」


「ええ、貸し切りだと羽目をはずしてしまいそうになりますよね」


 ……こいつが羽目をはずすことなんてあるのか? あり得るのか? いや、そりゃ羽目をはずしている冬木というのには大変興味があるけど、見てはいけないものを見てしまうような、そんな罪悪感を同時に感じる気がする。 てか、冬木の羽目のはずしかたって一体どんなのなんだろ。 いえーい! とか叫んだりするんだろうか。 それはそれで少し怖い。


「さすがに叫びはしませんが」


 俺に顔を向け、しっかりと思考を聞いてしっかりと冬木はツッコミを入れてくる。 もう思考を聞かれたところで驚きはしないものの、若干恥ずかしい場合は対処に困る。 今のは別に良いけど。


「じゃあどんな風に?」


 俺が聞くと、冬木は口元で拳を作って考え込む。 冬木の癖のようなものだ、それと同時に風呂上がりの良い香りが鼻腔を突く。 女子の謎の良い香りというのは冬木もしっかりと持ち合わせているようだった。


「そうですね……中々難しいですが、お風呂に飛び込むなどでしょうか」


 疑問形な辺り、冬木も自分がどのように羽目をはずすかということは分からないらしい。 先ほどの言葉はどうやら気分的にそうなりそうだ、というものなだけであって、具体的にどうするかということまでは分からないらしい。


「お前飛び込んだらそのまま溺れそうだな……」


「失礼な。 以前の勝負、確かに成瀬君が若干の差で勝ちましたが」


 まだそれを言うか。 ていうか若干の差どころじゃなかったからな? 冬木さん一秒顔付けていられるか危うかったからな? 猫の如く水が苦手な冬木さんである。 むしろ猫のほうが得意まであるが。


「てか、冬木って風呂には入れるんだな」


「お風呂ですか? お風呂は好きですよ」


「怖くないのか?」


「……」


 その言葉に冬木はムスッとした顔で俺を見る。 どうやら、俺が冬木は水が苦手という認識なのがご不満な様子だ。 しかし残念ながら俺の中ではもう確定してしまっている事実であり、それが揺らぐということはない。


「良いですか、一応誤解がないように言っておきます。 私は水が苦手というわけではなく、息ができない状態というのが人間の本能として拒絶反応を起こしているだけです。 なので、シャワーを頭から浴びようとお湯に浸かろうと苦しむことはありません。 なので、成瀬君が言う「私が水を苦手としている」というのは、誤認でしかありません」


「いや、一般的にそれを水が苦手っていうんじゃないのか……」


 必死に説明してくれたところ悪いが、世間一般ではそれを「水が苦手」と表現する。 冬木の認識が世間一般とズレていることは最早疑いようのない真実になってしまったな、このやり取りで判明した真実はそれである。


「例えばの話」


「ん?」


 冬木は意を決したかのように口を開く。 眠そうな瞳を俺へと真っ直ぐにぶつけ、端正な顔立ちは歪めることなく無表情。


「怪我をしている人がいたとします。 腕にはギブスを付け、松葉杖をつき、頭には包帯が巻かれていたとします」


 突然の怪我人の出現に困惑するも、ここで口を挟むと確実に冬木の言葉というナイフでぶっ刺されるのは間違いない。 俺は口を結んで冬木の話に耳を傾ける。


「成瀬君が今していることは、その怪我人を指差し「怪我人だ」とわざわざ大声で口に出し、周囲の人に吹聴しているようなものです。 そこにあるのは悪意だと分かりますか」


「お前それ自分が水苦手って認めてるよね……」


「ですからそういうところです、私が言っているのは。 わざわざ言葉にする意味もない、必要もないことを口にする。 言われた側は気にする、下手をしたら一生立ち直れない傷を負う。 その悪い口はこれですか」


「いててっ!」


 冬木は俺の頬をつまむ。 本当に軽いものであったが、咄嗟のことに俺はそう反応を示す。 横目でみると、冬木は怒っているというよりもからかっているような、そんな表情をしていた。


「成瀬君が見てみたいというので、少し羽目をはずしてみました」


「……めっちゃ分かりづらいなやっぱり」


 どうせならもっと笑ってほしい。 それなら分かりやすいんだけど、これもまた冬木故の特徴ということにしておこう。 しかしまぁ、冬木の先ほどの言い分は冗談なんかではなくマジだったな……語気がいつもより強かった気がする。


「分かりやすくというのも難しいですね」


「それはそうと、そろそろ離してくれると助かる」


 俺が言うと、冬木は思い出したかのように頬をつまんでいた指を離す。 別に痛さこそそこまでじゃないからそれは良いのだが、頬をつまむという行為の所為で距離が近い。 冬木は特に気にしていない様子であったが、俺も一応は男な上に風呂上がりの女子に近づかれるというのはこう、なんか恥ずかしい。


「前まで私はうまく出来ているのか、と時折思ったりしていたんです。 でも、今はそういったことをあまり思わなくなりました」


「そうだな。 前より冬木っぽくなった」


 自分で言っていておかしな話だが、そう表現をするしかなかった。 俺は本来の冬木空というのを知っているわけではないし、昔の冬木を見たわけでもない。 だが、今の冬木は一言一言が楽しそうだし、ひとつひとつの行動が楽しそうでもあるのだ。 それを見ていたら、そう表現する他ない。


「何より、長峰さんと和解できたのは本当に嬉しいんです」


 きっと、冬木の中ではどうにかしないといけないことという認識はあったはず。 でも同時にどうにもできないことという想いもあったのだろう。 その二つの矛盾する気持ちは長い間、冬木の中で燻っていたはずだ。 仲違いした相手との話し合いなんて、普通なら避けて通りたいだろうし嫌なことなんてしたくないというのが人間の本心である。 表面上は受け入れてこなしたとしても、それは偽りであり虚勢でしかない。 俺はそんな場面を幾度となく見てきた。 笑顔で引き受けて、その周りには黒い靄が漂っている光景を飽きるほどに見てきた。 だが、冬木は心の底から長峰と話し合うことを望み、それを果たした。


 その一歩は周りから見れば些細なものだったのかもしれない。 一般的に考えれば数年も放置していた問題だ、今更何をと考える者が大半だろう。 そんな中でも冬木は立ち向かい、そして自身の問題を自身で解決したのだ。 冬木にそれを言えば、こいつは必ず俺や秋月のおかげだ、と口にする。


 もちろん否定をするつもりはない。 秋月は冬木と長峰がいなくても不自然にならないように手を回していたし、俺も俺で最悪の場合における手段というのは用意しておいた。 それも冬木と長峰が向き合ったことによって要らぬお節介になってしまったが。 ……そのお節介というのも、水瀬友梨をその場に呼び出すという無茶苦茶な方法で、実を言うとあのやり取りを見ていたのは俺だけではなく水瀬もまた見ていたのだ。 最悪のときに備えて俺が用意しておいた安全策、それはとうとう機能することはなかったから良かったが。


 話し合いが終わったとき、水瀬は満足気に俺にだけ別れを告げて去って行った。 冬木と長峰に会わなくて良いのかと尋ねたが、水瀬から返ってきたのは「その必要はない」というもので。 その意味が分からない俺でもなく、冬木や長峰には出来る限り伏せておこうという話である。


 冬木の力がある以上、それは不可能な話になるのは分かっている。 いつしか俺がそのことについて今のように考えているときに冬木が俺の思考を読み取れば、それは一瞬で露呈してしまう話だ。 しかし、今の冬木ならそれに気付いたとしても。


「最初は一人で。 けれど成瀬君が手伝ってくれて。 それから秋月さんも加わって、今では長峰さんも居る。 高校に入ったばかりのときと比べたら考えられない変化です。 友達ができて、それがとても嬉しくて」


「最初は俺も手酷く断られたしな」


「……成瀬君が自分の力のことを話していれば、私も最初から無碍にしませんでした」


 俺が冗談交じりにいうと、冬木はそう返す。 負けず嫌いな冬木のことだ、素直になるのは中々難しい話である。 でも、やっぱりそうだな。


 今の冬木ならきっと、人の想いを感じ取れるようになった冬木ならきっと、俺のしたことに気付いたとしても……気付かないフリをするかもしれない。 それもまた嘘と言えば嘘、しかし俺が今まで見てきたような嘘ではなく、冬木らしい嘘とでも言えば良いのだろうか。 密かに、そんなことを思う俺であった。

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