第30話『エピローグ』

 変われたことは、あっただろうか。 変わったことはあっただろうか。 私は私で長峰さんは長峰さん、そして水瀬さんは水瀬さんだ、それらは別々で同じだなんてあり得ない。 私は自分が持つ思考を聞いてしまう力の所為で、彼女たちのことを何一つ分かっていなかったんだ。


 長峰さんの変化というのにも、気付くのが随分遅くなってしまった。 長峰さんは水瀬さんを大切な友人だと思っていて、そして水瀬さんの気持ちというのにも気付いていて……それでも彼女は友人である水瀬さんが幸せな選択を取れるように、私に任せて距離を置いたんだ。 その気持ちに気付かず、私は水瀬さんとの関係を壊す選択というのを取ってしまった。


 人と人との関係というのは良くも悪くも難しい。 もしも、とか、万が一、とか。 それらを考えたらキリがないし、全部を人に任せてしまう選択も間違っている。 長峰さんはその間違いに気付いていて、自分自身に一番怒りを感じていて……だから水瀬さんのように振る舞うことで、自分を消そうとしていた。 それがどれだけ辛かったか、どれだけ悲しかったか、私に対してどれだけ怒りを感じていたか、それらは長峰さんでなければ分からない。 今回のことで私が学んだのは、人の気持ちなんてその本人でしか全部を知ることはできない、ということだ。 いくら私が聞けるといっても、それはあくまでも断片的なものに過ぎないのだと。


 もっと早く、私がこのことに気付けていたら長峰さんと仲良くすることはできただろうか。 もう少し気付くのが早ければ……またあの日のように、長峰さんと話すことができただろうか。 成瀬君が聞いたら「別にもう関わる必要もないだろ」と言いそうだけれど……今回の件についてはやはり、三人に非があったのは間違いない。 長峰さんは先日の話し合い、というよりかは殴り合いに近いものになってしまった一件を終えて、お互い全部水に流すということで決着が付いた。 私が言うのも変かもしれないが、長峰さんは私に対して結構酷いことをしてきた経緯がある。 けれど、それは私もまた同罪なんだ。 私は私で長峰さんの一番大切にしていた宝物、一番大切にしていた友人を。


 ……学校に行くのが、少しだけ憂鬱だ。 こんな気持ちは随分と感じていなかったかもしれない。 ここ最近では成瀬君と秋月さんの存在もあってか、学校を少し楽しく感じ始めていたから。 彼女と顔を合わせてなんと言えば良いのか、それともまたお互いに接しないように距離を置くのか、はたまた一夜明けて悪化してしまうのか、それは学校に辿り着くまで分からない。


「行ってきます」


 いつものように、返事が返ってこない家に向かって私は言う。 比島さんは夜遅くまで仕事やその後片付けをしており、寝るのは大体朝方らしい。 だから私がいつも挨拶しているのは家に向けてで、そんな家は無言で私を送り出している。 家を出てすぐに私はイヤホンを耳につけた。 聞き慣れたジャズの音は耳から体に染み込み、そのおかげで少し気が楽になった。 今までは暇さえあればジャズを聞いていたけれど、今では教室に入り席に着いたら外している。 後ろの席に座る人が必ず声をかけてくれるから。


 五月は終わり、六月に移り変わった。 行事はまだ沢山残されていて、どこか楽しみにも思えてしまう。 だけれど、この心に穴が開いたかのような感覚だけがどうにも気になってしまっていた。 気力が湧かないような、ぼーっとしてしまうような、そんな感覚だ。 私が抱えていた一番大きな問題は解決できたというのに、この感覚は……大切なものを失ってしまったからだろうか。


 二人は、私と仲良くしようとしてくれた。 長峰さんは自分のことよりも水瀬さんのことを考えて、水瀬さんは私に好意を抱いてくれて……私にそれに答える選択はなかったけれど、二人から感じ取れたのは紛れもない友情だったのだ。 私が感じ、私が受け取ったものは多くありすぎる。 結局のところ、初めから長峰さんと話すまで何一つ理解していなかったというのが私なのだ。


 そういえば、あのあと成瀬君と合流した。 合流した、というよりも長峰さんがその場を去ってから成瀬君が訪れたのだ。 どうやら成瀬君は私と長峰さんの話し合い……殴り合いを覗いていたようで、途中で止めようとも思ったものの結局最後まで見届けることにしたらしい。 更に言えばどこか満足気な、納得したような顔をしていたのが少々疑問だ。


「……まぁ、そこまで気にすることでもないか」


 一人呟いた。 どうして、というのは勿論聞いたけれど、成瀬君ははぐらかすように話を切ってしまった。 ともあれ彼には彼の事情がある、というわけだ。


 それから数分、そんな考え事をつらつらとしながら私は学校へと向かう。 校門を通り、下駄箱を通り、校舎の中へと入っていく。 学校独特の匂いが辺りには広がっており、私は自身の教室へと向かう。


 階段で、一度足を止めた。 彼女と会ったとき、どうすればいいのか考えた。 しかし考えたところで答えが天から降ってくるなんてあり得ない話であったし、長峰さんとの話を考える限り、あの日の出来事は水に流そうという話だけだ。 だから、何も変わらない。


 変わらない日常こそ良いんだと、成瀬君はたまに言っている。 それはどうだろうと私は言うものの成瀬君はそれを認めようとはしない。 それならば秋月さんはどうだろう? 今度、彼女にも聞いてみよう。 そんな私はというと、どちらも良くてどちらも悪いのではと思っている。


 ……いけない、変に考えすぎて成瀬君のような無駄な思考をしすぎている。 成瀬君の思考は近くにいるおかげで結構な頻度で聞こえてくるが、そのどれもがわりとどうでも良いことばかりなのだ。 たまには勉強のことを考えて欲しいと思うくらいに。


 さて、そろそろ階段を登ろう。 登って、いつも通りの毎日に戻ろう。 なんでもないサイクルは元に戻る、動かされる歯車の一部である私には、枠に収まるというのがもっとも適している。 ……いや、少しは変わったのかもしれないか。


 階段を上り切り、教室へと向かう。 そのときだった、今回の私が少し戸惑ってしまう相手がいた。 それはもちろん、長峰さんだ。


「――――――――」


 長峰さんはどうやら、友達たちと廊下で雑談をしているようだった。 私はそんな彼女の横を通り過ぎ、自らの教室へと向かって歩いて行く。 いつも通り、いつも通り。


「……っと」


 しかし、私の肩が誰かに掴まれた。 丁度長峰さんの横を通り過ぎるとき、となれば私の肩を掴んだのは長峰さんなのは間違いない。 私がその場で振り返ると、長峰さんが私の顔を真っ直ぐと見ていた。 横に居た二人の友達らしき人たちは、どこかニヤニヤと私の顔を見ている。 長峰さんが人の前で直接私に何かをしてくる、ということはあまりなかったけれど……どちらかと言えば、長峰さんは私が一人のときに何かしてくる、ということの方が多かった。 また何かをされるのか、一瞬だけそう思ったが、長峰さんは耳を指差す。


 首を傾げると、長峰さんはイヤホンを外せ、と言いたい様子だった。 私はそれを受け、特に断る理由もないと思い、イヤホンを外す。 自分の世界から外の世界の音が入り込んでくる。 最近では聞くことが増えた外の世界の音だ。 予想以上に校舎内は騒がしく、ところどころで雑談のような声が響き渡っていた。


「……人が挨拶してんだから無視しないでくんない?」


「……はい?」


 意味がよく分からなかった。 しかし、長峰さんはそこで会話を途切れさすことなく、続ける。


「……だから、おはよう」


 それは、新たな一歩だった。 長峰愛莉という人は、いつもいつも、良くも悪くも予想外な人なのだ。 私が予想し得なかったこと、それを平然とやってのけてしまう。 長峰さんと話していた友達らしき人たちもまた長峰さんの言葉が予想外だったのか、目を見開き、信じられない様子で長峰さんのことを見ている。


 私も一緒だ。 全く信じられない……というのは、言い過ぎか。


「おはよう、ございます」


 とてもとても変な挨拶になってしまったと思う。 だって、挨拶をする準備なんて全くしていなかったのだから仕方ないではないか。 言葉を紡ぎ、私は頭を下げる。 長峰さんは居心地悪そうにしていたものの、それ以上私に何かを言うことはなかった。 だから私は振り返り、教室へと入っていく。


「おはよう」


 教室内へ入ると、今度は成瀬君が居た。 成瀬君にしては珍しく、私よりも早い登校だ。


 ……いや、私が少し遅れてしまったのか。 どうやら気付かない内に歩く速度を落としていたらしく、いつもなら学校へ着いている時間より遅れてしまっている。


「おはようございます」


「……なんか嬉しそうだな」


「気のせいですよ」


 これは終わりではない。 この話は終わりではなく、続いていく話だ。 もしかしたらそれともまた違い、始まったばかりの話なのかもしれない。


 ゆっくりと、ゆっくりと。 けれど確実に日々は積み重なっていく。 長峰さんからのたった一言には、やはり色々な、様々な想いが詰まっていた気がして。


 私はどうしようもなく、嬉しいんだ。

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