第10話『所謂、結局こうなる』

「おはよう」


「……おはようございます」


 週が開けた月曜日、俺の挨拶に冬木がそう挨拶を返す。 なんでもない一幕であるものの、今までのことを考えれば大きな一歩だということは分かった。 だって、こいつずっと俺の挨拶無視してたからな? 俺は毎朝毎朝、まるで独り言のように冬木に向かって「おはよう」と言い続けたんだからな? それがやっと、こうして返事をもらえるに至ったというわけだ! 俺悲しすぎるだろ!


北見きたみ先生が喜んでいましたよ、助かると」


「誰それ?」


 俺が言うと、冬木は若干だが眉を顰める。 そして、呆れ返ったかのような声色で口を開いた。


「……私たちの担任です」


 へえ、そうなんだ。 もうすぐ一ヶ月近くになるが、それは新事実である。 俺が今までで覚えている奴は、たった今話している冬木空、そしてあの風紀委員に所属する長峰なんとか、もう一人が一悶着あった秋月あきつきという奴だけだ。 秋月に関してはまぁ、俺が今もっとも嫌っている女子である。 向こうも多分そう。


「そりゃ良かった。 資料探しした甲斐があったな、それなら」


「はい」


 心なしか、冬木の声色は嬉しそうなものだった。 担任の……北見が喜んでいたことが嬉しかったのだろうか。 冬木自身、周りに嫌々押し付けられたような形のクラス委員であるものの、それ自体に責任を持ち、そして仕事を頑張っているのは誇れることだと思う。 そして、人のために働き嬉しそうにしている冬木を素直に凄いと、そう思った。


「私だけの力ではないでしょう、成瀬君」


 読んだか、俺の思考が読まれたようである。 改めて読まれると、なんというか恥ずかしい。 なんだこの新感覚は。 下手なことを考えてもしも聞かれたら社会的に死にそうな気がしなくもない! なら下手なことを考えなければ良いって話だけど、それって結構ムズくない? 幸いなことに、俺と冬木はお互いにお互いのことを知っているから、ある程度は大丈夫そうなのが救いだよ。


「いや俺とか殆ど驚いてただけだし」


 事実だ。 俺がしていたことと言えば、図書館の広さに驚き、そして冬木に静かにしろと怒られていたくらいで、冬木がせっせと必要そうな資料を集めたのだ。 手際の良さはさすがといったところだった。


「まぁそうですね、否定はしません」


「せめて否定はしてほしかった……嘘じゃない辺り傷つくんだけど?」


「ふふ、私は事実しか述べていません」


 言いながら、冬木は拳で口元を抑えて笑った。 意外なことに、冬木は案外表情が豊かな奴だ。 怒っているときや疑っているとき、今のように笑っているとき、そして悲しんでいるときや驚いているとき、その表情の変化は今まででは考えられなかった。 思いの外、笑顔が似合う奴である。


「……思いの外とは、また随分失礼な」


「読むなよ」


 プライバシーの侵害だ! 俺も人のことは言えないけど!


「あ、そうでした。 その北見先生が呼んでいましたよ、放課後に職員室へ来てくれと」


「ん、俺を? なんかしたかな……」


 強いて言えば、何もしてないからという方があり得る。 クラス委員の仕事は殆ど冬木がしているし、俺は言わばそのお手伝い的な役割だ。 冬木の仕事量が9だとすれば俺の仕事量は1、それほどの差がある。 それについての叱責だろうか……また睨む準備をしておかないと。


「何もしてないからでは?」


「また読んだのかよ」


「いえ、今のはただ事実を述べただけですが」


 ……そうですか。 はい、すいませんでした。




 放課後、ホームルームが終わり、荷物をまとめて教室を出た俺は、今日は最上階にあるクラス委員室(本来はただの空き教室だが、便宜上そう呼んでいる)には行かず、職員室へと足を向けた。 冬木によると、どうやら担任の北見が呼んでいるということだから。


「失礼しまーす」


 言いながら職員室の扉を開く。 中はコーヒーの匂いが満ちており、学校内とはまるで別空間のように感じる。 そんな中、担任である北見は俺を見つけると、片手を上げて挨拶をした。


「ごめんねー急に呼び出して」


「いえ別に良いっすけど……なんかしましたか?」


「じゃないじゃない、そうじゃないよ」


 あはは、と笑って北見は言う。 そうなればどうやら本気で何もしていないから呼び出しを食らった、というのが適切か。 なんもしてなくてすいませんでしたねぇ! なんもしてないから呼び出されるって斬新すぎるだろっ!


「聞いたよ、冬木さんと一緒に資料集めしてくれたんだって? 今日の朝、冬木さんが持ってきてくれたんだけど……とっても助かったから」


「ああ、あれは殆ど冬木のおかげですよ。 俺はなんもしてないし」


「あはは、そっか」


 北見は意味あり気に笑う。 そんな笑い方が気になったが、その答えは北見がすぐ様口を開くことによって解消した。


「……冬木さん、わざわざ成瀬君と友達になれたって話してきたんだよ。 冬木さんって、なんというか距離感みたいなのがあるでしょ? だからわたしビックリしちゃってさ」


「冬木が」


 冬木が、そんなことを言っていたのか。 確かに俺と友達になれた、というのは事実だけど……あいつがそれをわざわざ他人に言う性格だろうか?


 ……少し考えづらいな。 ていうかそれ、俺に言って良かったのか? 冬木に知られたら刺されるかもしれないぞ、北見。 いや待て、この思考こそ冬木に聞かれたら刺されそうな気がする。 百歩譲って刺されなかったとしても、刺すような視線を受ける気がめっちゃする。


「そ、冬木さんが。 よっぽど嬉しかったんだろうなって……あの子、中学のときは大変だったみたいだから」


 言いながら、北見は机に置かれている生徒名簿を撫でる。 そこには俺の名前や、そして冬木の名前も刻まれているものだ。 まるで宝物に触れるかのように、北見はそれを優しく触っていた。 生徒を大事にしている、そんな印象を少し受けた。


 北見の下にも、中学からある程度情報は行っているのだろう。 だから、北見は冬木が中学時代、どのように過ごしていたかを少なからず把握している。 それを知っていたから、今の言葉が出てきたのだ。


「みたいっすね。 興味ないけど」


「もう、そんな言い方しないの。 成瀬くんだったら、冬木さんも心を開いているみたいだし……よろしくね!」


 一体何を。 俺によろしくと任されてもどうにかできる気が全くしませんそれ。 それに、心を開いているというよりは、ただただ普通に友達になれたというだけで、言ってしまえばそれだけだろう。 当初の目的である冬木がクラスに馴染めるように、というのはまだだけど……それは少し、俺の目的ではなくなった気がする。


 俺と同じような奴が他にも居た。 それだけで、今は良い気がするんだ。


「昔の冬木のことは、俺は知らないし。 今が良ければ良いんじゃないんですか?」


「……まぁ、そういう考えもあるわね。 けど成瀬くん、人はいつまでも前へ進める生き物じゃないのよ」


「そりゃそうですけど。 昔のことを忘れて過ごすのって、そんな悪いことかな」


「……うふふ。 うん、君ならやっぱり大丈夫だ。 それで成瀬くん、本題なんだけど」


 えぇ、なんだ今の納得の仕方は。 すげえ気になるんだけど……どうやら北見は既に意識を変えたらしく、その本題とやらを話そうとしている。 むしろ今のが本題ではなかったのか。 まさか今から「何もしてないから呼び出したのよ」とか改めて言われないよな!?


「実は、これまた冬木さんのことで少し困ってて……」


「はぁ」


「一学期の終わりに保護者面談があるでしょ? それの予定を今から組んでいかなきゃならないんだけど、冬木さんの家だけ連絡が取れなくてね。 そこで成瀬くんに連絡係になって欲しいって話」


「……職務怠慢?」


「違うわよ! わたしはこれでも忙しいの! それにわたしって教師一年目でしょ? だから色々分からないことも多くて……って生徒にこんな相談してる時点でダメダメなんだけど……冬木さんと仲が良い成瀬くんなら、どうにかなるかなーって」


 ……なんだか物凄く面倒なことを押し付けられようとしている気がする。 ここは丁重に断るべきだろう。 いくら俺と冬木の仲が良いとしても……いやまだそれほど仲良くはないけれど。 良いとしても、それは明らかに俺のするべきことではない! 教師一年目とか知らん! 一年目だからこそ頑張れよ!


「えーっと……家に直接行ってみては?」


 そう、それがもっとも手っ取り早い。 今の時代に生きる人たちはみんな、なんでもかんでも電話やらメールやらで解決しようとするからな。 ここはいっそ、古き良き時代を思い出して伝書鳩でも飛ばしてみたらどうだろう? そんな適当なことを考えながら言ってみた。


「……」


 が、北見は何故か黙り込む。 なんだろう、何かとても言いづらい事情でもあるのだろうか。


 ……そういや、冬木の家はあのジャズ屋だったか。 ジャズ屋という言い方が正しいのか知らないけど、とにかくあのボロいジャズ屋だった。 そして、名前が違っていて……そこが何かしら関係しているのだろうか?


 俺がそう思ったそのとき、北見はようやく口を開く。


「わたし、極度の方向音痴で」


「……帰って良いですか?」


「だめっ! そこをなんとか! お願いします成瀬くん!」


「……あー」


 やはり、教師の呼び出しというのはろくでもない結果を生むということで間違いない。 俺は北見に頭を下げられ、渋々その頼みとやらを承諾するのであった。

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