さかもっちゃん!
規村規子
主菜なのか、副菜なのか。
ポテトサラダのポジションを、一度だけ本気で考えた事がある。炭水化物の多い芋類は主食だったような。いや、一般的にサラダと呼ばれるものは副菜扱いの傾向にあるのだろうか。
卵で包んだオムレツにして友人に出した時「ポテトサラダで米が食えるか」なんて、妙にもっともらしい事を言われたっけ。
「ポテトサラダ」とかけて「僕の人生」と解く。その心は、どちらもメインになれません。
つまらない。あぁ、とてもつまらない僕――
「――い……おーい。さかもっちゃん!」
しまった。目の前の彼女の呼びかけで、はっと我に返る。
昨晩就寝前に作った大好物のポテトサラダが、
「えっと、何の話でしたっけ?」
だがそのポテトサラダ以上に近年、いやもう
その日も会社が終わると、僕はゆっくりと駅へ向かっていた。特にこれといってする事もなく、そう長くは乗っていられない帰りの車内で、飲み屋のおねえさんとの話題になりそうな、いわゆる通勤ネタに遭遇する事くらいしか日常に変化はないはずだった。
「だから、さかもっちゃんの事が好きだって言ってるの」
何度も言わせないでよ、と彼女は少し怒ったように口を尖らせる。
そう、文字通り、告白されたのである。飲み屋のおねえさんに。
「はぁ…えっと、ありがとうございます」
我ながら情けない返答である。
待てよ、待て。最初から頭の中を整理しよう。会社が終わって、僕はゆっくりと駅へ向かうはずだった。彼女から「大事な話がある」と突然メールが入ってくるまでは。
大事な話って何だろう?僕、何かやらかしたのか?先日の飲み屋での記憶は……うん、あるな。
そんな漠然とした不安が、待ち合わせ場所に指定された公園へ向かう足取りを重くしていたのだが。
「ここで質問です。さかもっちゃんは今、女の子から愛の告白をされました。一番、ごめんなさいと断る。二番、お付き合いする。さぁどっち?」
しびれを切らせたのか、僕の回想に割り込んで選択を迫ってきた。
「じゃ、じゃあ二番でお願いします?」
「どうして疑問系?」
「に、二番でお願いします!」
今度は確実にはっきりと。
伝わったのか、彼女は照れくさそうに顔をほころばせる。
彼女は「ミヤコさん」。おそらく本名ではない。
男・
今年40歳。彼女ができた。
会社の最寄り駅から徒歩5分、小さな居酒屋やバーがひしめき合う路地の一角に、スナック「
おっと、中高年の世界と敬遠するなかれ。最近のスナックは20代若者達の社交場になっているし、若くて美人なママや従業員も増えてきている。
「あ、さかっもっちゃーん! いらっしゃいませ!」
扉を開くと、早速聞き慣れた声が耳に飛び込んできた。こっちこっちと手招きされ、一番端のカウンター席に座る。相変わらず今日も、地元のお客さん達を中心に賑わっている。
「ミヤコさん」は
話は少し
あれはちょうど一年前の冬、そんな不安を抱えながら扉を開くと。
「いらっしゃいませ!」
少し高めのトーンの声に栗色のショートヘアは、いかにも明朗快活といった印象だ。
「その格好、寒いですよね。今温かいおしぼり持って来ますね」
彼女はその日たまたまジャケット一枚と薄着だった僕に驚きながらも、快く迎え入れてた。それからお互いの自己紹介、お店の客層やシステム、他愛もない話で盛り上がり、いつもより三時間も遅くタクシーで帰宅してしまった。次の日辛かったなぁ。
これが僕と「ミヤコさん」の出会いだ。
それからというもの「ミヤコさん」はしょっちゅう僕の席に来るようになった。こんな事を言っては失礼だが、彼女は特別美人でもスタイルが良い訳でもない。正直僕のお目当ての従業員は別にいたのだが、指名していいのかどうかも分からず、気がつけば僕は常連さんや店側に「ミヤコさん」の客と認識されていたのだった。
彼女の事は嫌いじゃない。いつも明るく会話上手で、話の種は尽きない。むしろどちらかと言えば好きな方である。だからお付き合いする事を了承したのだが。
「坂本さん、お久しぶりです。この間結構飲んでたって聞いたんですけど、大丈夫でした?」
落としていた目線に映り込んできた華奢で色白な手、すぐに誰だか分かってしまう。
「あっ、アイさん! お久しぶりです。こないだお店にいなかったですもんねぇ。そういえばその前は……」
このように、ごくたまにお目当ての女性が席に来てくれる時は内心ラッキーと思いながら、いつ他の席へ行ってしまうか分からないので、ついつい会話を急いてしまう癖がある。
「さかもっちゃんお待たせ。アイちゃん、ありがとうね」
待った覚えはないぞ、と内心また失礼な事を思いつつ。「ミヤコさん」がやって来ると、お邪魔しました、と軽い会釈をしてその場を去って行くアイさん。
僕は参加した事はないけれど、婚活パーティーで会話が弾んだ瞬間に次の人が回って来てしまった感覚である。後ろ髪を引かれる思い、あぁ、むしろその綺麗な髪を引っ張れるものなら引っ張りたい。
「アイちゃんいなくなって、残念だった?」
目の前で「ミヤコさん」が意地悪そうに微笑んでいる。
彼女は時々、とても鋭い。
「な、何を変な事言ってるんですか」
「ふふ。いいよ、ちょっとくらい。あたしさかもっちゃんの彼女だし」
僕は咄嗟に人差し指を口に一本当て、目線だけを移動させ周囲の様子を伺う。幸い他のお客さんは従業員との談笑に夢中のようだ。
あの夜から一週間。まだ恋人の実感もない昨日の今日のような出来事だけど、やっぱり客と付き合っているなんて知られたらあまり良くないだろう。でも出会った環境はあくまで環境であって……いかん。また考え込んでしまった。
はっと我に返った僕に「おかえり」と、再び意地悪そうに彼女は笑った。
「さかもっちゃん。今日、終わった後平気?」
薄暗い照明の中で不確かだが、目元が少しトロンとしている気がする。酔っ払っているのだろうか。
「えぇ、明日は休みなので大丈夫ですよ」
終わった後と言うのは、営業終了後に従業員と二次会、いわゆるアフターと言うもの。違うお店に飲みに行ったりご飯を食べるのが定番だ。まぁ、定番も何も僕たちは一応付き合っているのだけど。
深夜三時。ふらつく足取りの「ミヤコさん」を支えながら店を後にする。さすがは土曜の夜といったところで、常にほぼ満席状態でとんでもなく混んだ。
一度落ち着いて水分を摂らせようとなんとなく辿り着いた先は、一週間前の公園だった。隅でぽつんと点いている電灯の下のベンチへ彼女を座らせ、続いて僕も腰掛けた。アルコールで熱くなった身体に容赦なく当たる冬の夜風は、今は少しだけ気持ち良い。
「さぁ、飲んで下さい。飲んだら今日はもう帰りましょう」
飲み会を生き抜くための必須アイテムとして、常に鞄に忍ばせているペットボトルの水を差し出す。
「さかもっちゃんってさ、あたしで妥協したの?」
今水を飲んでいるのが僕だったら間違いなく吹き出していたであろう、唐突な質問だった。
「あたしなんかで良かったのかなって。あたしがどんな事が好きで、どんな家族構成で、何も聞かないんだもん」
彼女はためらいがちに身体を左右に揺らしている。
「いや、本人が言わないのに深く聞くのもね」
「深くは聞きたくないだけでしょ」
彼女は時々、とても鋭い。
返された言葉が、なんとなく頭の中に引っかかった。もしかしたら僕は、人と深く関わる事を避けてきていたかもしれない。不平不満は多少あれど、それを頭に置いておく事が面倒だと言い訳しながら。
しばらく夜風に晒されていたせいもあり、だんだんと脳が再稼動し始めている感覚だ。
「何かあった?」
僕はつい聞いてしまう。まるで自身に問うように。
「あたし、アイちゃんみたいに美人でも人気でもないからさ。」
視線を足元に落とし、ぽつりと呟いた。かすかに潤んでいる瞳を電灯が照らす。普段の明るい姿からは考えられないくらいの弱々しさが伝わってきた。その横顔を僕はじっと見つめ、言葉の続きを待った。
「あはは。ごめんね、こないだお客さんにちょっと嫌な事言われちゃっただけだから」
「嫌な事って、何を言われたか聞いたらまずいですか」
「お、珍しく深く聞いてきた」
これ以上話す気はないようで、立ち上がると同時にお尻に付いたであろう砂埃を軽く払い落としている。見上げた僕の位置から、彼女の表情は見えない。
アイさんと比べられるような事でも言われたのだろうか。店にいた時もアイさんとつい楽しく喋ってしまって、傷つけてしまったかもしれない。
「ごめんね、帰ろう。さかもっちゃん」
「待って、ミヤコさん」
歩き出そうとした彼女の腕を咄嗟に掴む。もちろん、引き止めた後の事など考えてもいなかった。ただ、彼女を一人にしてはいけないような気がした。
「ポテトサラダ、食べませんか?」
六畳一間の小さな城。家具量販店のセールで購入した小さなちゃぶ台を挟み、向かい合う僕たち。
冷静に考えてみると、今僕はとても大胆な事をしているのではないか。いい年した男女が、夜更けに密室で二人きり――
いかんいかんと邪念を払うよう首を横に振りながら、本来の目的を取り出すために冷蔵庫をガチャリと開ける。
「…あれ?」
透明な保存容器を覗くと、昨晩就寝前に作ったポテトサラダが確認できた。ちらりと見える程度に。
「えー、ほとんど入ってないじゃん」
いつの間にかちゃぶ台を回り込んで隣へ来ていた彼女の肩と触れ合い、つい身じろぎしてしまう。
「よ、酔っ払って食べちゃったんですかねぇ」
意識している事を悟られないよう意味もなく野菜室を引き開け、閉めようとした瞬間「待って」と彼女の手が添えられた。そして、何かを探すかのように目線を動かしている。こんな余裕のない僕にはお構いなしの素振りだ。
「ねぇ。材料あるし作ろうよ、ポテトサラダ」
突然の提案だった。野菜室に入っていたじゃがいもを手に取り、僕に向かってにんまりと笑う彼女。
「えっ、い、今からですか!?」
「はい、さかもっちゃんはじゃがいもを茹でる準備をして。あたしはきゅうりと、玉ねぎも使っていい?」
そもそもポテトサラダをご馳走する目的で、わざわざ自宅へ来てもらったのだ。なんとなくばつが悪かったのは事実である。
そして彼女には、いったんこうと決めたら梃子でも動かないような面があった。
「どうぞハムも使って下さい…」
酒を飲んだ後に料理する気分なんてとてもなれないが、ええいこのまま彼女のペースに巻き込まれてやろうと、鍋に勢いよく水を入れた。
先程から鳴り止まない包丁の音へ耳を傾けながら、ピーラーで皮を剥き一口大に切ったじゃがいもを、水を張った鍋に次々と入れていく。本当は皮付きのままゆっくりと火を入れたかったのだが、前述した理由で今回は時短調理だ。
ちらりと彼女の方を見ると、薄くスライスした玉ねぎときゅうりをボウルの中へ入れ、ぱらぱらと塩をまぶしている。実に手慣れたものだ。
「いやあ、何と言うか意外です。未開封の調味料がそのへんに転がっているようなイメージでした」
「ちょっと、それどういう意味」
もっと言うと、調味料を買うイメージすらなかったのだが。
じとっとした目つきで睨まれてしまった。
「あたし、料理できなさそうってよく言われるんだけどさ。写真見せても信じてもらえないし、かといって作ってくるのも、家に招くのも嫌だし」
彼女はしばらく置いたきゅうりと玉ねぎの水気を絞りながら、大きなため息をもらしている。
この現象を、ギャップの生かし方迷子と名付けよう。我ながら上手い表現を思いついたと自負しながら、沸騰した湯の中で踊っているじゃがいもに竹串をさしてみる。
「お、茹で上がりました」
「こっちも下準備はオッケー!」
水分が抜けてしんなりとしたきゅうりと玉ねぎ、細く切ったハムを別のボウルの中に待機させていた。
「ありがとうございます。では、ここから先は任せて下さい」
鍋を持ち上げ
「やっぱり下味にお酢は定番よね」
「牛乳や生クリーム、フレンチドレッシングもおいしいですよ。味噌やわさびなんかも」
「味噌にわさび!?」
彼女は驚くと、感心したようにしばらく僕を見つめる。
「サンドイッチもいいですけど、グラタンにしてもおいしいんです。それから、卵で包んでオムレツにしたり」
何だかその反応が嬉しくて、以前友人に一蹴されたアレンジ方法をつい話してしまう。すると彼女はぱっと目を輝かせ、皿の上であら熱を取っているじゃがいもに視線を移す。
「すごい。無限大だね」
それなりに夢や目標を掲げていたが、結局何者にもなれなかった20代。
もうおじさんだから、なんて言い訳をこぼすのが定番となったが、他人に言われるのは何故か我慢できなかった30代。
「何にでもなれるんです、かねぇ」
自分に言い聞かせたかったのか、歯切れが悪くなってしまった。
「なれるなれる。だって、ハンバーグやコロッケにはできない事だもん。」
「ははっ」
口からこぼれた笑みは、自然に吐き出されたものだった。励ますつもりだったのに、何だか逆に励まされてしまったなぁ。
こんな僕の心境も知らずに、手に持っているわさびを味付けに加えるか迷っている様子の彼女。
まったく、かないそうにない。
いくつになってもメインになれない、つまらない僕。これまで全く後悔していないと言えば嘘になるが、もう振り返る事すら面倒なのだ。これといって変化のない日常を、ただただ進んで行くしかない。
そんな僕は、今年で40歳になる。
「探してみようかなぁ」
「え?何を探すの?」
誰に言うわけでもなく呟いた言葉が宙を舞ったが、見事キャッチされてしまう。
「い、いやぁその、趣味とかね」
そうだな、もっと色んな事に関心を持ってみる事にしよう。
たとえば。
「あの、ミヤコさん」
「ん?なぁにさかもっちゃん」
出来立てのポテトサラダをおいしそうに頬張る、目の前にいる彼女の名前とか。
さかもっちゃん! 規村規子 @kimuranoriko
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