第4話 ドミナント

 一週間が経つ。

 あの後、俺たちは店を出て別れた。

 別れ際に俺は名刺を渡した。

 俺の持つ名刺は両面に名前が印刷されている。一面には本名、もう一面にはペンネームである。

 本名が知れ渡るのを何となく嫌い、普段は関係者以外に渡すことはないのだが、彼女の私情に踏み込んでしまった以上、何かあればその責任はどういう形であれ、背負わなければならないこともあるだろう。それが大人である。

 特に何も言わずに渡したが、言わずとも賢い彼女ならうまく使うだろう。

 使われないのが一番だがな。

 それから、あの公園には通っていない。行こうかと何度か迷ったが、公園に近づくにつれて足が重くなるのである。

 あんな言動をしておきながら、小説が書けないダメ人間な自分が恥ずかしくなったのだ。

 どんなに言葉を取り繕っても、言葉で人の心を揺さぶっても、結局はそこに行動が伴わなければ空っぽなままだ。

 とは言え、どうしたものかと毎日自室で頭を抱えていた。ベランダとパソコンデスクを行ったり来たり、今日も夕方まで何も絞り出せなかった。次第に部屋の空気が淀んでいるような気がしてきて、逃げ出すように散歩に出かけた。

 ゾンビのように考えなしで歩く俺は、いつも公園に向かうルートをいつも通りに辿っていた。

 いつもは重くなる足取りが今日は感じない。やはり、今日の俺はゾンビらしく神経が麻痺しているのかもしれない。

 公園に着く。

 曇り空で夕焼けは見えない。そして、公園に彼女の姿も見えない。

 安堵とともにいつものベンチに座る。

 彼女を邪険にしているわけではないのだが、一週間前の出来事が衝撃的で、心がどこかそわそわしていたのだと思う。今日ここに来て彼女がいないことを確認して、あの出来事が日常でなく、間違いなく非日常だったのだと確信する。それは、悪夢だとわかった時のような安心感に似ていた。

 あー、安心したらタバコ吸いたくなってきたー。

 吐かれた二酸化炭素の分を一酸化炭素で埋めたくなるのが喫煙者である。

 早々にベンチから立ち上がり、喫煙スペースに向かった。


「なんでお前がここにいるんだ……?」

 喫煙スペースの近くで歪みのない佇まい、流れる落ちるような黒髪の彼女がいた。

「やっと来ましたか」

 どうやら彼女は俺を待っていたらしい。だが、なんなんだろうなこの嫌な予感は!

「何の用だ」

「あからさまに警戒しているみたいですけど、何もないですよ」

 そんなわけがあるか。

「じゃあタバコ吸ってもいいか?」

「はい。私は外にいますので」

 喫煙スペースの隅でタバコに火を着ける。そして一口。壁を挟んだ向こうに彼女がいる。

「私、佐々木さんの本読みました」

「えフッ…! うフッ!!」

 驚きのあまり思わず咳込んでしまった。

「…なに?! 読んだのか…?!」

「はい。私、初めてライトノベルと言うものを読みました」

 顔見知りに読まれているのは、嫌ではないが、どこか気恥ずかしさがある。嫌な予感の正体はこれなのかもしれない。

「そうか。それで、どれを読んだんだ?」

「全部読みましたよ」

「ぜんぶ?!!」

「はい」

 彼女は淡々と答えているが、この一週間で俺が書いた十何冊の本を読んだと言う。それはつまり、一日に二冊以上読んでいる計算になるわけだが、一般人では真似のできないスピードだろうと思う。そんなにもお気に召して頂けたのか、あるいはからかい、批評のために読んだのか、何にせよ一番頭の中央にある感想は、「意外」である。

「面白かったか?」

 偏見だが、彼女のをようなライトノベルをあまり読まない人には、面白さが伝わらないのではないかと不安感に思った。

 彼女は、間をおいた。

「……面白かったです」

「全然そうは聞こえないんだが…?」

「本当ですよ。ただ、私的に佐々木さんがこういうものの見方をするんだなとか、こういうものの考え方をするんだなとかの方が関心が強かったんです。だから、話が面白いというか、佐々木さんって面白い人なんだなって思ってました」

 話よりも俺に関心が向いているのは、微妙に喜びにくく、心地悪さに頭を掻いた。

「でも、一つだけ面白いと思った作品があります」

「ほう?」

 俺は流すように関心しつつ、タバコの灰を人差し指で灰皿にトントンと落とす。

「確か…、『あの日に笑う遥かな君へ』というタイトルだったと思います」

 トントンと、人差し指に力が入り、まだ吸えたタバコをぽとりと灰皿の底に落としてしまった。そしてまた、頭を掻いた。

 もう一本、火をつけようと思ったが、やめて喫煙スペースから出た。

「もういいんですか?」

「ああ。それより、なんでその作品が面白かったのか教えてくれないか?」

 彼女は少しの間悩んだ。

「…私は、ハッピーエンド意外の結末は、気分の悪くなる作品だと思っていました。けれど、あの作品の終わりはハッピーエンドではないのに、なぜか納得出来る。そこが、あの作品の面白いところです」

 彼女の答えに、俺は驚いた。

「そりゃよかった」

 などと、俺は言葉に詰まりそうになったから、中身のない返事をしてしまった。

 俺の作品は文学でもなければ、芸術でもない。ただただ俺の頭の中を中学生程度の作文能力で、やりたいことを綴り、出来た隙間をてきとうに埋めて、それらしい言葉で厚みを作る、そんな程度のもなのだ。

 不格好な小説だ。けれど、俺は小説に何かを組み込んでいる。

 てきとうとは言いつつも、狙った意思表示があるのだ。

 俺の未熟な創作能力では、誰にも伝わらないと思っていたし、誰かに伝わらなくてもいいと諦めて、自己満足で書いていた。それをこんな身近な、それも最近出会ったばかりの、それもそれもライトノベルなんか普段読まない女子中学生に、核心に近いことを言われた俺は動揺していた。なんで動揺なんてしているのか、自分でもよくわからない。落ち着いているつもりが、翌日に旅行を控えていてアドレナリンがどこからか湧き出てしまうように、自分ではコントロール出来ない何かである。気持ち悪いような、痺れるような波。複雑と言うより、混沌とした胸中を言葉で表すことが出来ない。やはり俺は作家としても、人間としてもまだまだ未熟らしい。

「どうしたんですか?」

「……いや、何でもない。俺はもう帰ろうと思うが、お前は?」

 どうやら、彼女が気にかける程度には考え込んでいたようだ。そんなに深刻な顔をしていたのだろうか。小説を描けない情けな〜い苦悩の表情が戻ってしまっていたのだろうか。

「そうですか…。なら私も帰ります。その前に私、新枝可那と言うのでそのお前、と言うのをそろそろやめてもらってもいいですか?」

 彼女はムスッとした表情で言った。

「分かった。だが、今まで名乗っていなかったから、分からなかったんだ」

 彼女は更にムスッとした表情になった。

「学生証見たじゃないですか」

「いや、あのときはお前の、」

「新枝可那」

 彼女は見逃さなかった。

「…新枝の学生証を見て中学生だと言う事実に驚いてただな。名前なんて目に入らなかったんだ」

「へえー。年齢にしか目がいかなかったんですね…」

 彼女は何故か両手で抱いて身構える。

「なぜそこで身構えるんだ。俺はおま…、…新枝のようなお子様に1ミリも興味なんてないね。それが分かったらとっとと帰れ。じゃあな!」

 突き放すように俺は帰ろうとした。

「でも、私は興味ありますよ」

「はいはいー」と流して足を止めずに歩いた。でまかせ、口八丁、からかいでは彼女に敵わない。だからテキトーに流してしまえばよいのだ。さあ帰ろ帰ろ。

「本当です」

 その声音が、俺をからかう時とは違うと瞬時に気付いて足を止めた。そして俺は、ゆっくりと振り返った。

「これは本当の、本音です。だから…、また明日」

 眩しかった。きっと夕日のせいである。

「おう」

 俺は再び帰路を歩いた。

 夕日を背に遠ざかる。伸びる自分の影を見つめながら歩いた。

 これも大人の責任なのか、俺は考えなしに答えていた。けれど、言わなければよかったと後悔はしていない。からかう彼女が面倒だなとも思っていない。不思議である。不可思議である。

 近くのコンビニに寄って、申し訳程度に缶コーヒーを買ったあと、灰皿の側で開ける。一口飲んでからタバコに火をつけた。

 タバコとコーヒーを交互に口に運ぶ。気に入っているタバコの楽しみ方だ。

 一息着いて、一服着いて思案を巡らせた。

 うん、よくわからん。

 彼女の考えも、行動も、振り返ってみても何も分からなかった。考えたところで彼女は他人なのだから、分からくて当たり前、むしろ、ありもしない期待と邪推を延々と浮かべるだけで、考えるだけ無駄である。それに、自分の不可解な行動すら説明出来ていないのだから尚更だ。

 だが、あれ程頭を抱えていた小説の構想は頭の中に出来ていた。

 やっぱラブコメか。

 半分くらいのところでタバコの火を落とし、缶コーヒーの残りを一気に飲み干して缶を捨てる。

 これはきっと奇縁である。偶然繋がった蜘蛛の糸。細いが故に無さそうで、そこには何かがある。

 つまり奇縁は消えんつってね!

 冷静になって、構想を練りながら再び帰路を辿った。

 

 

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