第3話 ドミナント

 風、枝を揺らさず、けれど雲はやがて雨になるだろう。

 歩きながら天気予報を確認したら、明日は雨である。

 雨の日は家に引きこもって適当に過ごす。小説のネタが思い付く訳では無いから、大抵はネットサーフィンをして飯を食うだけである。

 最近はラーメンばかり食べていたが、今日はあのドリアでも食べに行こうと思った。あそこならゆっくりしても何も言われないし、ある程度認知されているから丁度いいだろう。

「ここだ」

 俺が連れてきたのは、たまに小説で行き詰って気分転換によく来る喫茶店である。お店もこじんまりとしていて、休日と夕方以外はそこまで混みあうこともなく小説が捗る。

 お店の前で、「入るぞ」と後ろを振り返って言う。すると「あの…」と言って何か言いたげに、けれど言いにくそうに視線を泳がせて、困るような顔をする。

 俺は彼女が何か言うまで待つことにした。もし、なんでもないならそれでいい。

 彼女は左の二の腕を右手でさすり、顔を右下に向けた。

「……すみませんでした」

 彼女は呟くように小さく言う。

「おう。俺も酷いこと言ってすまんかったな。よし、じゃあ店入るかー」

「ちょ! ちょっと待ってください…!」

 お店のドアノブを掴みかけたところで、また後ろを掴まれて引っ張られる。

「何も聞かないんですか…?!」

 彼女の言葉はつまり、「あんなことをしたのに、私がなぜそうしたのか気にならないんですか?」と言うことなのだと思う。

「何か聞いてほしいのか?」

 俺がそう言うと彼女の眼は一瞬、見開くように見えた。そして、下した腕を体の前で両手の指を交差さて組み、俯く。

 全く気にならないわけではない。だが、今は何も聞くべきではないのである。

 沈黙が続くだろうなと俺は察する。

「とりあえず、店に入ろう。また何か話したいなら、飯を食った後にしよう」

 彼女が頷いたのを確認してドアを押した。

 カランコロンとドアのベルが心地よく鳴る。

「いらっしゃいませ。どうぞ、お好きなお席にお座りください」

 カウンターから顔を覗かせる店主が笑みを交えて言った。

 相変わらずいい声のおっさんだな。

 いつも好んで座っている席が、空いているのが見えたので、俺たちはそこに座った。

 席につくと、若い女性の店員さんがお冷とおしぼりをテーブルに並べた。

「いらっしゃいませ、ご注文お決まりになりましたらお呼びください」

 落ち着いた口調でそう言い、軽い会釈をして去る。

「俺は決まっているが、お前はどうする?」

 メニューを開いて彼女に渡す。けれど、彼女はメニューを見ずに閉じた。

「同じものでお願いします」

「そうか」

 手を挙げて「すみません」とさっきの女性の店員さんを呼ぶ。

「ご注文お伺いします」

「ドリアを二つお願いします」

 女性の店員さんは「ドリアをお二つですね」と言いながら伝票を書く。

「いつものコーヒーはどうなさいますか?」

 流石と言うかあまりにも俺が、ここでドリアと食後のコーヒーをセットで頼みまくっていたせいなのか、最近は女性の店員さんのこの言葉が定番になっている。

「コーヒーも二つお願いします」

「かしこまりました。以上でよろしいでしょうか?」

「はい」

 女性の店員さんは「かしこまりました。しばらくお待ちください」と言い残し、会釈をして去って行った。

 ゆったりとした時間が過ぎる。

 落ち着きある店内の音楽、モダンでありながら木を主体としたお店の作り、鼻孔をくすぐるコーヒーの香り。

 いつもの風景である。そんないつもの風景の中心にいる彼女は際立って見えた。

 サラリと流れ落ちるような黒髪、整った容姿、石膏で造形されたような歪みのない姿勢。

 明らかに彼女は育ちがよい。不良とは縁遠く見える。

 わからん。

 真面目そうだから、不良みたいだから、優しそうだから、怖そうだから、それら全てが決めつけでしかなく、そんな印象だけでは人は推し量れない。

 多くの人が、その人の見た目や第一印象でその人の像を構築する。それは確かに間違いなのかもしれないが、それは仕方のないことだと思う。

 野生動物の社会は弱肉強食で、見た目で判断をしなければそれが生死に関わる世界だ。その延長線上に人間がいて、見た目で判断することが間違いだと言うのは、人間特有の倫理観があるが故だと思う。

 あの人はこういう人だと期待し、信じるのではない。きっと、そうであると思う自分を信じ、願っているに過ぎないのである。

 人を信じるのは簡単だけれど、単純ではない。むしろ、疑う方がずっと簡単で、客観性を帯びている。

 自分が決めつける相手の像を信じず、純真に相手を疑うことが、もしかすると最善なのかもしれない………。

 知らんけど。

 身もふたもないことを言うが、ごちゃごちゃ言ってても結局は運だからな!

 先週、万馬券になるはずの~万円が一瞬で紙切れになって俺はこの世の真理を悟った。

 俺が今彼女といるのも運。小説が書けないのも運。あの時はたまたま運の値が低かったからああなってしまったのだ。そう! 人生は、運の値で決まるのである! うんうん!!

「ち」

「?」と彼女は怪訝な顔をして反応した。俺は「なんでもない」と言って流した。そこで足音が近づいてきた。タイミングがいいんだか、悪いんだか。

「お待たせしました、特製ドリアでございます。大変熱くなっておりますので、やけどにご注意ください」

 このお店のドリアは、所謂ピラフの上にベシャメルソースソースとチーズを乗せてオーブンで焼いた、オーソドックスな見た目のドリアである。

「いただきます」と俺が手を合わると、彼女もそれに続いた。

「いただきます」

「ゆっくりでいいから、やけどしないようにな」

「はい、ありがとうございます」

 ドリアは冗談じゃないくらい熱い。それはもう小籠包や、たこ焼きに匹敵するだろう。 

 彼女は一緒に運ばれてきたカトラリーケースからスプーンをとり出して、一口、ドリアをすくい上げる。

 口元に持ってきて、ふーふーと息を当て、髪を耳にかけ、ゆっくり口に入れた。

「おいしい…」

 口を隠して彼女は言った。

「そうか」

 彼女は、虚をつかれたような驚きの表情を浮かべていた。おいしいという言葉と彼女の様子を見て、内心ホッとしていた。

 俺もドリアに手を付ける。

 このお店のドリアの秘密は、中に隠れたピラフにある。

 黄色味の強いこのピラフには、数種類の香辛料が使われている。この香辛料によって独特かつ、食欲をそそる文字通りスパイスになっている。一度手を付ければ、ドリアの熱さを忘れて夢中で食べてしまう。

 彼女を見ると、黙々と食べ進めていた。心なしか、表情が明るくなったように思った。

 やはりうまい。月に一回は食べたくなる中毒性がある。

 あっという間に俺は完食してしまった。口の中がやけど気味である。

「ごちそうさま」

「ごちそうさまでした」

 俺が食べ終わるのと同時くらいに、彼女も食べ終える。そして、時を見計らった若い女性の店員は、いつも頼んでいる食後のコーヒーを持ってきて、ドリアの皿をさげる。もちろん、アイスコーヒーである。

「コーヒーもおいしいです」

 一口ストローで飲んだ彼女は言う。

「食後のコーヒーとタバコは格別にうまい」

「それ、おじさんくさいですね」

 彼女は笑って言って、ハッとして一転、ばつが悪い顔になる。

「すみません……」

 彼女はまださっきまでのことが気にかかっているらしい。

「実際おっさんくさいから気にするな。俺はおじさんだ」

「わかりました! おじさん!」

「おい、早速おじさんの優しいフォローを無下にしやがったな。でも、俺はそっちのほうがいいと思うぞ」

 そう言うと、彼女は何かを言いかけた口を閉じて逡巡するような素振りを見せた。

「それはつまり、おじさんと呼ばれて嬉しいということですか…?」

 ジト目で言う彼女は、気持ちの悪いものでも見るような風だった。

「ちげーよ。そういうお前の歯に衣着せぬ物言いが面白いって言っているんだ」

「え…? それはつまり、毒を吐かれて喜んでいるということですか……?」

 なぜか引き気味の彼女を見て俺は頭が痛くなる。

「おい、お店の中で誤解を招くような変なことを言うんじゃありません」

 そこで、彼女は黙っていた。気付くと体を丸めていた。

 小刻みに震える彼女から「ふふ…」と、言葉が漏れている。そして、体が元の態勢に戻って彼女の顔が見えた時、彼女は笑顔で大きく笑った。

「ごめんなさい…! こんなに面白いのは久しぶりで…」

 嬉々として彼女は笑う。とても清々しく。

 元気な彼女を見て、俺も少し安心した。

 正直なことを言えば、俺の言動が正解なのか疑心暗鬼になっていた。けれど、彼女の問題は彼女のものだ。俺は彼女の親でも兄弟でもなければ、友達でもないさっき知り合った男なのだ。

 正論を言えば正しいと言うわけではないし、正論と思っていることも主観交じりの講釈に過ぎないかもしれない。

 言葉は時に人を救うかもしれないが、人を殺すこともある。

 言葉扱って商いをするからこそ、言葉一言一言を軽々しく扱ってはいけない。

 吐いた唾は呑めない。

 それらしく、それっぽいことは誰にでも出来る。そうやって、良いことをした、良いことを言ったと悦に浸るのはさぞ気持ちいいだろう。

 そんなものはクソだ。

 と、一個人として思っているが、彼女が自分で道を進めるかどうかはある意味賭け。それを無責任と見ることもできるだろう。

 結果的に運よく良い方向に傾いた。

 やはり運だな! うんうん!!

 だが、本当に良かった。

「よかったな」

 まだ笑っている彼女にそう投げかけると、すぐに返ってくる。

「はい!」

 はにかんで言う彼女は、晴れ晴れとしていた。

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