武装高校広報誌 プロローグ

金魚殿

第1話 とある女の話

「ネズミちゃん!休ませて!」

始業のチャイムが鳴って5分ほどしてから元気よく保健室に駆け込んできたのは、もちろん常に顔色の悪かった彼女ではなく、銃も握ったことのない女子生徒だった。

「せめてネズミ先生って先生くらいつけなさいよ、まったく。」

元気よく駆け込んできたからといって、本当に元気とは限らない。

それが今の私のモットーであるため、一見元気そうな彼女を追い返すことはしない。

「えへへ、ごめん。ネズミ先生、また私の話聞いてよ。」

心の傷は誰にも見えないものであり、この年代の精神こころは脆く、いとも簡単に崩れ去る。

「いいよ。いくらでも聞いてあげる。ただし、人が来たら処置しなきゃいけないけど、それでもいい?」

「うん。それでいい。」

あの頃の私たちもきっとどこまでも弱かったのだと大人になった私は思う。

弱さを支えてくれる仲間がいたからこそ強くなれたし、もがき続けられたのだ。

だから、私はここで仲間にはなれないが力になれる先生になろうと思ったのである。



「ねえ、先生結婚するって本当?」

ひとしきり話して落ち着いたのか、女子生徒はそんな質問を投げかけてきた。

「ほんと。3か月後の12月に式を挙げる予定。」

「お仕事辞めちゃう?」

「辞めない。転勤の命令でも出ない限りここで仕事を続けるよ。」

彼女が不安定になった理由はどうやら私にもあるらしい。以前学校で精神的に辛いということを養護教員にさえ理解されなかったのがトラウマになり、体調を崩してもなかなか保健室に来られなかったことがあったから、私が退職してしまうかもしれないと不安になったのだろう。一度構築した関係を壊すのは容易いがそれには痛みと、再構築が待っている。日々起こる出来事一つひとつに敏感な彼女たちにとってこの再構築は、学校生活を脅かすほどの脅威にさえなりうる。

「でも、赤ちゃん産んだりするでしょう?」

「...私ね、昔とってもショックなことがあって、それから子どもができない身体になってしまったのよ。」

身体ではなく心の問題だと医者にも言われたし、私自身もわかっている。私の身体はまるで一生分の血を、他人の血で流したかのようにあのせいしゅんから女性としての機能を止めた。

「…ごめんなさい。」

「いいのよ。別に隠してないしね。むしろそんな私でも一生を共にしてくれる男性ヒトに出会えたから私は幸せよ。…だからね、この学校から少なくともあなたが卒業するまでは働いているから心配しないでいいの。」

安心させるように微笑むとそれに応えるように、うん。と彼女は呟いた。

「いつから付き合ったの?」

「大学二年から。」

「いいひと?」

「ええ、とっても優しいいい人。」

「いいな。私もそんな人に出会いたい。」

「出会えるよ、ちゃんと。」

あの時漠然と描いていた夢も、あの時何よりも大切だった人間関係も捨てて生きてきた私が幸せになろうとしているのだから。

「そうかな?勉強全然できないし、美人じゃないし。」

「関係ないよ。あなたがあなたらしく生きてさえいればちゃんと出会える。」

「私らしくって?」

「それはこれから探すものよ。」

「そっか。」

「そうよ。」

授業終わりのチャイムがなる。珍しくこの時間の訪問者は彼女だけだったようだ。

「頑張ってみつけてみる。疲れたらまた来てもいいかな?」

「いいよ、いつでもいらっしゃい。」

軽やかに出ていくセーラー服の残像。

「彩、元気にしてるかな。」

少しだけ秋が近づいてきた空を見つめて嘯く。

「私は今年も高校の修学旅行に行くんだよ。まあ、引率者だけど。…あの時の修学旅行とっても楽しかったね。今でも思い出すよ。」


人が来ないことをいいことに養護教諭は懐古する。


彼女がまだ“殿どの”と呼ばれていたときのことを。

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武装高校広報誌 プロローグ 金魚殿 @Dono-Kingyo

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