第5話:一瞬の勇気か、一生の苦しみか
日記を始めた当初は、だいたい1日おきで交換していた。初めて会った時の印象とはまるで別人の葵の姿が、そこには存在した。昨日食べた夕飯の内容や、毎年十一月に夜空を舞う、しし座流星群の話、自分の好きなテレビドラマや音楽の話であるとか、葵が書いたであろう挿絵と共に綴られていて、何も言葉を発しない実際の葵とのギャップに驚いた。彼女は絵を描くのがとても上手だった。
そんな日記につづられる葵の日常を思い浮かべながら、僕もなるべくありのままの自分を文字にしようと思った。さすがに絵を描くのは無理だったけれど、栃木の話や、自分が星を好きになった理由、好きな映画とか、とにかく等身大の自分を葵に知ってもらいたいと思った。
そんなやり取りが一か月ほど続いたころだろうか。葵は学校を休みがちになってしまった。なんとなく体調が悪そうだったのは日記の文章を見ていても分かった。
「無理しなくていいよ」
日記を続けることが彼女の負担になっていないだろうかと、僕は彼女を気にしたつもりで言ったのだが、彼女は僕が日記をやめたいと勘違いしてしまったことも原因だったかもしれない。とにかく梅雨が始まるくらいから状況はあまり良くなかった。
ある日、帰り際に学校の廊下で手渡された日記には、一言だけ『死にたい』と書かれていた。背を向けた葵の後ろ姿に、僕は「葵が死んだら俺は悲しい」と、いつもより大きな声でそう言った。
そんな僕の声に、葵は歩みを止めたけれど、こちらを振り返ることはなかった。ただ生きることが苦しい、当時の葵はそんな苦しみの中を歩いていたに違いない。生きていてよかった、そう思える瞬間をどうすれば手に入れられるか、僕は諦めずに考えたいと思っていた。
★
梅雨が明けるか明けない頃だっただろうか。まだ曇り空が続く虫暑い日だった。学校の帰りに、僕は見知らぬ女子高生に声をかけられた。自分の通う高校の生徒ではないことは、制服を見てすぐにわかった。とはいえ、いわゆる逆ナンではない。あまりに突然のことでびっくりしたが、よくよく話を聞いてみると葵の中学時代の同級生ということが分かった。葵が連絡を取り合っている数少ない友人の一人だった。話があると連れられた先は、近くのファミリーレストランだった。
「あんたが葵の彼氏?」
席に着くなり、
「いや、べつに彼氏とかそういうんじゃ……」
「じゃなんなの? あんた、葵のことどれだけ知ってるの?」
確かに僕は葵のことをそれほど多くは知らない。これまでのいきさつを、かいつまんで説明すると、石川は納得したらしく、彼女について詳しく説明してくれた。
葵はあのストーカー事件以来、ずっと精神的に不安定な状態で生活を続けているそうだ。予想はしていたが、状況は僕が思うよりもはるかに深刻だった。病院には通っているらしいが、症状は一向に改善していないのだそうだ。自死を試みた経験はこれまでにも数回あったという。救急で病院に運ばれたことも一回ではないことなど教えてくれた。
「一度や二度励ましたくらいで、こっちの世界に戻ってこられるくらいな所に葵はいないの。彼女を支えるっていうのはね、一生彼女に寄り添って生きることなんだよ。それだけの覚悟があんたにはある? 自分の人生を犠牲にしてまで、彼女と一緒にいることができるの? 」
そういった石川の真剣なまなざしが、彼女たちの友人関係を物語る。葵は良い友人を持っている。僕はそう思った。
「俺は葵を支えたい」
死ぬということは、おそらく死ぬ人にとって幸福をもたらすこともあるのかもしれない。生きることが絶望で、死ぬことが希望となる、そういう状況を生きている人も確かに存在しうるのだ。自死以外の希望をどうしたら見つけられるだろうか。僕は葵と一緒に考え続けたいと本気で思っていた。
「あんた自分の言っていることの意味が分かってるの?」
自分を犠牲にしているという感覚はなかった。とはいえ、今にして思えば、石川の言う通り僕は自分の発言を真に理解していたかどうかと問われれば、そうではないということなのかもしれない。ただ、当時の僕も真剣だったのだ。
★
放課後の教室で、僕らは筆談したことがある。それは、もうすぐ夏休みが来る、そんな時期だった。二人で図書室から出ると、突然の雷鳴と共に、激しい豪雨となった。僕らは、雨脚が弱まるまで、教室で待つことにした。
『死よりましな希望のある選択肢なんて、見つかるのかな?』
葵はいつもの紙にそう書いた。「一緒に探そう」僕はそう答えた。一体何を、どう探せばよいのか、自分でも良く分かっていなかったけれど、僕は葵と一緒に見つけたいと思っていた。”幸せ”なんてものは確かに幻想かもしれない。だけど”希望”は確かに存在するんだと、僕はそう確信していた。どんなに小さくても探すに値するような希望はあるはずだと……。
でもこの時、既に彼女の心は、こちら側の世界には存在していなかったのかもしれない。その下に葵が書いた一文は今でも心に突き刺さったまま抜けない。
『一瞬の勇気か、一生の苦しみか、そのどっちか』
この文字を見たとき、葵と初めて会った日の光景がまざまざとよみがえった。この言葉には葵の心のすべてが刻まれているように思えた。そこには「希望」の存在する余地が一ミリも残されていなかった。いや、希望を探し続けて、疲れ果てた葵の姿があったと言うべきかもしれない。日没前なのに、真っ黒な空が印象的な日だった。
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