第4話:君の笑顔が見たくて

 葵とプラネタリウムへ行く前日だっただろうか。授業が終わると、僕は担任の藤田先生に職員室へ来るよう言われた。職員室が得意な学生はあまりいないように思う。僕も勿論、苦手だ。


 職員室の空気は学生にとって無言の圧力を有している。授業中に図書室で借りた小説を読んでいたのがばれたか、あるいは……。なんとなく、もやもやした気持ちで、職員室の扉を開けた。藤田先生は部屋の奥、窓際の机で何かの書類を作っているようだった。


「城崎、学校は慣れてきたか?」


「ええ、だいぶ」


「そうか、ならいいんだが、今日はちょっと相談というか、お前に頼みたいことがある」


 先生は椅子に腰かけたまま書類を机の中にしまうと、僕に向き直り話を続けた。


「月本葵のことだ」


「葵がどうかしたんですか?」


「お前、彼女と仲が良いそうだな」


「あ、いや別にそんなんじゃ」


「いや、いいんだ。すごいことだよ。お前と出会って彼女はだいぶ変わったと思う。見ていてわかるだろう? あいつ、絶対に他人と話をしようとしないんだ」


 そう言うと、先生は、机の奥にある書類棚から茶色い封筒を取り出した。


「葵は中学二年の時に傷害事件に巻き込まれている」


「ストーカーですよね。佐々木から聞きました」


 藤田先生はうなずくと、封筒の中から一枚の新聞の切り抜きを取り出し、僕に見せてくれた。そこには『女子中学生、刺され重体』という大きな見出しがつけられていた。


「彼女はインターネット上でストーカー被害にあっていてな、警察にも何度か相談していたそうなんだが、現実に傷害事件として発展してしまった。二十数か所も刺されて、一時は心肺停止状態、その後一命は取り留めたが、一部の記憶を喪失し、そして言葉が出なくなったそうだ」

 

 佐々木から聞いてはいたものの、あまりの残虐さに僕は言葉を失った。まだ十四歳やそこらの少女がナイフでめった刺しにされることの恐怖……。想像を絶する恐怖と苦痛の中で、彼女の大切な何かが壊れてしまった。


「犯人は……、犯人は捕まっているのでしょうか」


「ああ、もちろん犯人は捕まっている。だが、この事件をきっかけに月本は心的外傷後ストレス障害、つまりトラウマだが、そうした精神的な後遺症を負うことになった。そして、状況は悪いことに、彼女の親が葵の症状をよく理解できなかった点にある」


 生命の危機的状況という経験がもたらす精神的に強い衝撃が、その後の人の人生に大きく影響を及ぼす。心的外傷、いわゆるトラウマは、葵から言葉や記憶の一部を奪っただけでなく、抑うつ症状をもたらし、そして、その症状を両親は理解できなかった。会話をしようとしなかったり、学校を休みがちになったり、自分の部屋に引きこもったまま外に出なかったり、そうした症状は、単に彼女のわがままだと親から思われていた節がある、そう藤田先生は説明してくれた。


 うつ病は心の風邪なんて簡単に言うがそんな単純なものではない。むしろ心の癌がんに近い。少しずつではあるが、確実に精神を蝕んでいく。そしてその苦しみを他者が理解することは多くの場合で困難である。“分かり合える”そんな言説が、人と人の大切な絆みたいに語られる社会で、分かり合えるなんてことがいかに幻想にすぎないか、心を病むことによってはじめて理解できるのだ。


「なあ城崎、月本の友達になってやってくれ」


「はい」


 葵のそばにいたいと、僕は心からそう想った。


 翌日、葵とは練馬高野台の駅ホームで待ち合わせをした。それは彼女と初めて出会った場所。待ち合わせ場所に少し早めについてしまった僕はその時のことを思い出していた。


 彼女はどんな気持ちで、このホームに立っていたのだろうか。泣いていた理由は何だったのだろう。人は必ずしも悲しいから泣くわけではない。うれしい時も、悔しい時も、そして苦しい時も涙を流す。


 やがて現れた私服姿の葵はとても新鮮で、なんというか素敵だった。淡い青のロングスカートに、白いTシャツ。初めて出会った時と同じように髪は後ろで束ねてあった。


 東京屈指のプラネタリウムは池袋サンシャインシティにある。葵と初めて会った日に、一人で行くはずだったプラネタリウムを、僕はその彼女と一緒に来ている。なんだか不思議な感覚だった。


 ドームスクリーンが暗くなってしまえば、もう筆談もできないな、などと考えながら、僕は頭上に広がる夕景を眺めた。西の地平線に太陽が沈んでいく光景が映し出され、東側の空から夜が現れ始める。少しずつではあるけれど、着実に訪れる夜の闇。真っ暗な空に落ちて行く感覚が良くも怖くもあるこの瞬間。


 夜空に舞う星は、栃木のそれとは違うやや無機質なものだったけれど、葵はそれなりに楽しんでくれたようだった。プラネタリウムから出ると、後ろから葵が僕の肩を叩いて、いつもの紙を手渡してきた。


 A4の紙を丁寧に半分に切った、このサイズはA5サイズというらしい。19世紀、ドイツの物理学者オズワルドによって提案されたA判という大きさの規格は、面積が一平方メートルのルート長方形をA0とし、A0の半分のサイズがA1、その半分がA2、さらのその半分がA3……というように、面積が半分になるにつれて数字がひとつ繰り上がる仕組みになっている。


 縦十五㎝、横二十㎝というA5のサイズは、大きすぎず、そして小さすぎずという感じで、筆談には程よい大きさだった。筆談のたびに葵からもらうこの紙を、僕は捨てることができず、家に持ち帰り自分の机の引き出しの中にしまっていた。


『買いたいものがある』


 このまま帰ってしまうのもなんだか寂しかったし、かといって、これから何をしたらよいか良く分からないでいたから、葵ともう少し一緒にいられることが単純にうれしかった。


 僕らは池袋駅に直結している雑貨屋さんに向かった。そこで、葵が買ったのが手帳だった。A5サイズのピンク色の手帳。帰りの電車の中で、彼女は買ったばかりの手帳に何か書いていたが、別れ際に、その手帳を僕に渡してきた。


『今日はありがとう。沢山の星を見ることができて、幸せな気分でした。栃木の空もあんな感じなのかな? いつか見てみたい』そして最後に小さく『この手帳で、交換日記をしよう?』と書かれていた。


「ああ、もちろん」という僕の返事に、葵が作った笑顔は今でも忘れることができない。僕の前で初めて見せてくれたあの笑顔を、僕は何度でも見たいと思った。



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