第3話:星を見に行こう

 放課後の教室は閑散としている。部活をやっている連中は、部室かグラウンドに行っているし、帰るやつはさっさと帰っている。佐々木が、数学が分からないなんて言うものだから、早く図書室へ行きたいのに、僕は二次関数を教える羽目になった。


「城崎、お前の説明わかりやすいわ、ほんと。助かる」


「ああ、数学は昔から得意だから」


「いや、お前が隣でほんと良かったぜ。つき合わせちまってごめんな」


 本当だ。もう17時近い。図書室の閉室時間は17時30分。今から行っても、ゆっくり本を読むというようなタイミングでは無いなと思った。


「月本は何で、話をしようとしないんだ?」


 僕は数学の教科書を鞄にしまいながら佐々木に聞いてみた。葵は耳が聞こえないわけではないし、人の話を理解していないわけでもない。ただ、何故か誰とも会話をしようとしないのだ。


「お前、あいつのことが気になるのか?」


「いやいや、そういうわけじゃないけど。耳は聞こえるみたいだし、話していることも理解しているみたいだし……」


 佐々木は椅子に深く腰掛けると、お前も座れと言うように手を動かした。


「俺も聞いた話だから、詳しくは分からないんだけどな、あいつ、中学時代は結構派手だったらしい。あれで結構もててたって話だ」


「まあ、それなりに美形だよな」


 確かに葵は、あの性格を抜きにすれば、精悍な顔立ちをしているし、普通に考えても、もてるタイプの女の子だ。


「ただ、あいつネットストーカーの被害にあってたらしく、実際にストーカー襲われたんだってさ。その当時はテレビとかでも結構騒がれてたんだよ。なんでもナイフでめったざしにされて、一時期は危篤状態だったってよ」


「そんな……」


 そういえば、そんなニュースがあったのかもしれない。こうした傷害事件に関するニュースは身近で起こらなければ、案外気にも留めないものだ。人は見たいものしか見ない。関心のない事柄は存在しないのとほとんど同じことだったりする。


「あいつ、だからスマホも持ってないんだ」


 当時、普及し始めたスマートフォン端末。世間がソーシャルネットワークシステムを活用した、新しいコミュニケーションの形を手に入れつつあるなかで、彼女はそうした携帯通信端末機器すら持っていなかった。


 それはつまり、現実世界から切り離されたネット上の世界でも、人とのつながりをほとんど持っていないことを意味する。あらゆる人間関係を絶たなければ生きていくことが難しいほど、彼女が経験した過去はつらく、苦しいものだったに違いない。


 彼女はただ単に孤独を求めていたわけではない。孤独でいなければ、その生を保つことができない、孤独でいる他ない、という仕方で生きていたんだと思う。


 佐々木と別れた後、僕は気を取り直して図書室に向かった。閉室時間が迫っていたけれど、なんとなく葵のことが気になったのだと思う。葵と図書室で会って以来、彼女とはそこで何回か筆談をした。だから、なんとなくその時も葵に会えるような気がしたんだ。


 時間が時間だけに図書室に人の姿はほとんどなかったが、葵はいつもの窓際の椅子に座っていた。


「あの、よかったら一緒に帰ろう?」


断られるかと思ったが、意外にも葵はうなずいてくれた。


 昇降口で靴を履き替え、正門を出ても特に会話はない。歩いているだけに筆談するという空気でもないから、ただただ黙々と歩くというそれだけの時間。


 学校を出ると、すぐに住宅街が広がっている。道は狭く入り組んでいて、栃木のそれと比べれば、本当に窮屈な街という印象を受ける。でも、僕はこの窮屈さにむしろ親近感を抱いていた。


 密集して建っている住宅地の裏には小さな公園があったり、路地の奥には神社があったり。一本向こう側のやや大きな通りには、スーパーや商店が立ち並び、この地域に住んでいる人たちの生活が凝縮していた。昔ながらの商店街は、今も変わらず活気に満ちている。そんな街の姿が僕には驚きではあった。地方都市では巨大なショッピングモールが乱立しはじめ、車社会の浸透とともに、商店街の並ぶ店の多くが廃業に追いやられている。


 重たい空気に少し疲れた僕は、神社のすぐ横にある小さな公園へ行こうと誘った。葵は何も言わずについてきた。住宅街の路地奥にひっそりとたたずむ古い神社。拝殿のすぐ隣にはブランコと砂場、そして二人掛けのベンチが置いてある小さな公園があった。


 二人でベンチに座って、しばらく神社の拝殿を眺める。季節は春から初夏に変わる頃、新緑が神社の境内を覆っている。既に陽は沈んでいて、あたりは暗くなりかけていた。


「なあ、葵。プラネタリウム、行かないか?」


 彼女はうなずく変わりに、いつものA4用紙を半分に切った紙に『なぜ?』とだけ書いた。


 何故だろう。そう、あの時なぜ僕は葵をプラネタリウムに行こうと誘ったのか、よく覚えていない。ただ、葵も僕と同じように星が好きなのかもしれないと、そんな風に勝手に思っていたし、東京じゃあまり星が見えないという彼女の言葉が印象的で、心のどこかにずっと引っかかっていたのだと思う。


「星を見たいなと思ってさ……」


 葵の会話、いや筆談のペースはとてもゆっくりだ。最初は返事がすぐに帰ってこないと、葵に嫌われているのかな、なんて不安に思うのだけど、じっと待っていると、ちゃんと返事を返してくれる。葵がそうしているように、想いを短く言語化すること、これを自分でやってみると案外難しいことに気が付く。たった一言とか、そういうそっけない返事なのだけれど、文字に残るそれは、空気の中に消えてしまう声よりも、なんだかとても温かい気持ちになれた。


 辺りがすっかり暗くなると、葵はベンチから立ち上がり、僕に一枚の紙を手渡してきた。僕がそこに書かれた文字を読む前に、彼女はさよならも言わずに立ち去ってしまった。ぽつんと公園に取り残された僕の手には紙切れ一枚。そこには、大きく、いつもの丸みを帯びた字で『いいよ』とだけ、書かれていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る