君の沈黙
「僕は、このことの説明が、欲しい」
多少の輸血をした妻の唇には、ほんのりと赤みが戻っている。身体は、看護師が手伝って汚れを拭ってくれたようで、服も、僕が持ってきたものから、ちゃんと着ている。
靴は忘れてしまったが、裸足ではなく靴下を履き、病院から借りた青色のスリッパに爪先をつけるようにして、妻はベッドに腰かけている。
向かいの丸椅子に座る僕の目をじっと見つめて、かと思えばうつむいて、まるで隠し事をしている子どもの仕草だ。
僕は言う。
「ものすごくたくさんの人に、迷惑をかけたと思う。でも、君が助かったから、いいんだ。いいんだけど僕は、理由が知りたい。どうして…」
僕の問いかけに、妻は答えるか否か、悩んでいるようだった。
それは、僕がひどく疲れて見えたせいなのか、いつ
病院で結んでもらった包帯の下には、痛々しい傷跡が複数あるのを、僕は遠目に見た。後で抜糸をするのだと妻は言ったが、それまでは近くで見たくなかった。利き腕を傷つけたので、妻の母がやってきて、全般の家事をやってくれることになった。
「新婚家庭にごめんなさいね。こんなことになってしまって、本当にごめんなさい」
「いいえ。僕のせいかも、しれませんし」
義母は終始、すまなさそうに僕に気を遣い、妻とたまに、小声で何かで話をしているのだった。そんな様子を見かけると僕はたまらなく不安に、そして憂鬱になった。
妻は、本を読んだり、軽いものを持ったりすることはやったが、朝と夜の妻は、慣れない左手でスプーンを握って食事をしたり、風呂に入るときの水除けビニルを被せるのに手間取ったりする、そんな不器用な
「手伝うよ」
見かねた僕は毎度、そう言うのだが、妻は「だいじょうぶだから」と言って、僕に任せようとしない。そんなことが続いていく中で僕は、妻の沈黙それ自体が、僕への非難、もしくはメッセージなのではないかと、思うようになった。
原因は僕に在って、でも、それを言えない。もしくは、言いたくない。そんな気がし始めていた。
会社にいるとき以外は、妻の周りをうろうろとしていた僕も、そんな日が重なる中で、妻が自分自身を傷つける恐れよりも、いいしれない怒りのようなものが、次第に勝っていくのを感じた。
もし、僕のせいで妻がそんなことをしたのなら、それが真実なら、この怒りは正しくない。
『妻を失うかもしれない』
その恐怖という"罰"を受けて、兎にも角にも僕は、まいっているのだ。
けれども妻は、何も言ってくれない。非が在るなら、その相手を責めなくてどうするのだと、僕は、妻に言いたいのを堪えて、今日もビールを煽る。
「会社、どうだった?」
夕食の片付けのあと、居間で過ごす、夫婦二人の時間。
怪我が治るまでは控えると言った妻の前には、コーヒーが一杯。
義母は、さっき帰った。
部屋の隅にあるテレビからは、賑やかなトークショーの音が聞こえる。こちら側の空間には、冷ややかな沈黙があるのに、その一角だけ、きれいなほど場違いだ。
足りない会話、足りない笑顔、足りない意思疎通。
無いものすべてが、何百、何万と視聴者のいる、一つの画面で
言葉を発するのも、ひどく息苦しい。でも僕は答えた。
「別に、ふつうだよ。君は? 腕はもう痛まない?」
ほかに尋ねることは、いくらでもあるのだろう。でも意識が、そこから離れない。
僕の問いに、小さく息を呑んだ妻は、努めて、明るい調子で答えた。
「うん、少し痒くなってきたかな。たぶん、治って来てるんだと思う」
自身の傷に対して、どこか突き放すような物言いをする妻。
そんな彼女の顔を見ながら僕は、一つの意地悪を、あえて口にする。
「ねぇ、また同じこと、やらないよね。治ったらまたやろうとか、考えてないよね」
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