締めすぎないで弱めないで

ミーシャ

君の "事故"


 妻が、僕の留守中に腕を切り、



「どうして君がこんなこと」


手首の傷を縫ってもらい、看護師に包帯を巻いてもらった妻は、言葉を失ったように、僕を見返した。時刻は、夜8時を過ぎていた。


いつもより早く帰宅した今日は、水曜日。

会社を出たのは、午後5時半だった。



 病院に付いた途端、腰が抜けて動けなくなった僕を、看護師が助け起こし、スポーツドリンクを一本、必ず飲むようにと渡してくれた。視界の端がけぶるように霞んで、うまく息が出来なかったが、それでも人のいない、所々ところどころ明かりの消えた院内は、たしかに気味が悪いと思った。



* * *


 浴槽で気を失っていた妻の身体を、黒ずんだ湯の中から引き上げたとき、すでに手遅れかと思った。ぐったりとした肢体に、かすかな呼吸を感じ取って、始めて希望がちらついた。


誰より先に伝えるべき相手は、ついこの間、短いやりとりをした妻の実家だと思った。

 

濡れて震える手をスラックスで拭い、履歴の番号を呼び出す。

電話に出た義母は、途切れ、途切れの僕の言葉を拾うと、ひどく落ち着いた態度で、タクシーを呼ぶよう、僕を諭した。



『大丈夫、君尋キミヒロさんのせいじゃないのよ。娘の悪い癖なの、ごめんなさいね』


 義母の冷めた態度に、ようやくまともな血がめぐり始める。



「いいえ救急車を、呼びます」


 

 固くタオルで圧迫しながら握りしめ、頭の上まで引っ張り上げた妻の右腕は、ひどく痩せて、細かった。こんなに壊れそうな腕をしていたのに、僕は気付かなかったのだ。なぜ今朝も"いつも通りだ"と、思ったのだろう。



 何度も「若菜、若菜」と呼びかけ、そのたびに今かと、腕時計の針を確認する。次第に、乾いた血のまだら模様が浮かび上がる妻の身体を、更にバスタオルと着ていた背広で覆い、その間にも、様々なことを僕は覚悟した。


 

 擦るように妻の頬に触れた。


温かい浴室に対して、ずっと冷たい気がした。


『ここには今、自分しかいない』


そう言い聞かせて、正気をつないだ。



 サイレンの音が響き、ドタドタと救急隊員の足音がしたときには、妻の腕を握る僕の腕も、感覚が無いほど痺れて、硬直していた。


不幸中の幸いか、玄関のカギは開いたままだった。「御邪魔しまーす!」という断りの言葉を響かせ、廊下一本、すぐの浴室へ、2人の救急隊員が姿を現した。



「もう大丈夫ですよ、旦那さん、離してください」



そう言われても、自分で動かすことが出来なかった。救助されたのは、まるで妻ではなく、僕のようで情けなかったが、適切な処置を知っている人間に預けられるという安堵は、はかり知れない。



「保険証とか、奥様の服とか、お財布とか、もろもろ持って、一緒に行きましょう」



タンカで運び出される妻を呆然と見送っていると、そう声が掛かる。



「はい、ぁあ…っと、分かりました。急ぎます」



反射的に駆け出しそうになった僕に、やってきた3人目の救急隊員がこう言った。



「大丈夫です、落ち着いて下さい。今、受け入れ先の病院を探しているので、十分間に合いますから」


 

 押入れの中身を、片っ端から全部引き摺り出し、薄手の旅行バッグを発見すると、普段は決してさわらない妻の洋服ダンスを開け、下着やら部屋着やら、一通り集めて押し込んだ。


あとは妻の部屋から、貴重品の入ったポーチを攫う様にして取ってくると、玄関先まで舞い戻る。



「行きましょうか」


「はい」




* * *

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