第5話
それから、本当に沙藍さんはたびたび部活の後にやってきた。
どこで見ているのか、身体に傷が付いた時を見計らってやってきては、僕の傷を食べてくれて、ついでに少しの雑談をした。
いつの間にかそれを心待ちにするようになるくらい、それは僕にとって至福の時間だった。
なのである時、わざと転んで傷を作ったのだけど……その傷を食べた途端、沙藍さんは眉を歪ませて、口から傷の残骸のようなものを吐き出した。
……いや、吐き捨てたと言うべきか。
そして僕に軽蔑の眼を向けると……
「自分で自分を傷つけるのは、尊さから最も遠い場所にある行為よ。二度としないで」
怒りのこもった声で、どこか悲しそうに言った。
「………すいませんでした…!」
必死で謝ってなんとか許してもらったが、これで学習したのは、沙藍さんとの関係性を続けて行きたいのなら、必死で不様な練習をするしかないということだ。
ただ、続ければ嫌でも少し上手くなる。
上手くなるとあまり怪我をしなくなる。
困る。
と言う事で、毎回自分のレベルより少し上の練習をしてくれるように顧問の体育教師に頼むこととした。
それはもう感動して、「スポーツの素晴らしさに気付いたか!」とか「俺の教育が届いた!」とか戯言を吐き出していたが、今となってはどうでもいい。
ただ、必死に、諦めず。
それが良質な傷に繋がるのなら、いくらでも頑張ってやる。
それに――――上手くなってきたら、まあ、それなりに楽しいのも確かだし。
そんなこんなで傷の絶えない毎日を送っていると、少しずつ沙藍さんと出会う回数が増えて、色々な事を話した。
これはそんな、ある日の会話のひとつだ。
「あなたって、変わってるわね」
「……どうしてですか?」
「私を、待っていてくれるもの」
「それは、どういう――――」
僕は質問を続けようとしたが、沙藍さんの顔を見た途端、言葉を押し殺した。
沙藍さんが、あまりに悲しそうな瞳をしていたから。
………考えてみれば、傷を食べる能力や、その長い舌が、沙藍さんに幸せな人生を与えていたとは思えない。
マスクで口元を隠しているのも、長い舌を隠すためなのだろう。
傷を食べる能力を持ったがゆえに、心に傷を負ったのだとしたら、理不尽な話だ。
僕には傷を食べることはできないけど……いつか、沙藍さんの心の傷を消すことが出来たら良いのに。
お互いに、傷を舐め合い、癒し合う……そんな関係に、なれたらいいのに――――
それから、半年の時間が経った。
「不様なものだったわ」
「………光栄ですね」
高校テニスの大会で見事に惨敗を期した僕の帰宅途中に、会場から駅へ向かう途中の人通りの少ない路地で沙藍さんに遭遇した。
「鼻の頭が赤いわよ」
「はは、見事に顔面から転びましたからね」
僕なりに頑張った方だとは思うが、相手が全国大会常連の優勝候補だったこともあり、それはもう不様に負けた。
「相手は余裕のプレイで、なんなら終盤明らかに手を抜いてたわね……それでも、全く相手にならなかった」
「こっちはアレでも必死だったんですけどね……悔しい、ですね」
まあ、所詮半年程度頑張ったところで、ずっと本気でやってた相手に勝てるはずもない。
そんな事は解っているのだけど、手を抜かれて、弄ばれて、観客からは笑われて、蔑まれて……それで悔しいと思わないほど、僕は鈍感な人間じゃないつもりだ。
「そうね、見事な不様だったわ」
全くその通りでしょうとも。異論をはさむ余地も無い。
「けど――――不様でも、あなたは最後まで諦めずに走り回って、転げまわって、汗を流した。
それは……相手を軽んじて手を抜く優勝候補より…必死に頑張る人間を嘲笑う観客より………とても、尊いわ。
私は、あなたの不様さが――――好きよ」
――――涙が、溢れそうになるのを、歯をくいしばって耐えた。
僕はただ、沙藍さんのために頑張っていただけだ。
本気でテニスに打ちこんでいた訳じゃない。
負けて悔しがるのも、慰められて泣くのも、まだ早い。
それは、もっと真剣に向き合った人だけに許された特権だ。
だから、今はまだ……
「あの、僕……僕が、いつか―――」
いつか、沙藍さんのおかげでここまで来れたと、そう言えるような人間になったらその時は――――そう言おうとして、口を閉じた。
未来の約束を口にして、沙藍さんの心を繋ぎ止めようとしているんじゃないかと、気付いたから。
違う、僕のすべきことはそんな事じゃない。
日々の努力を不様に積み重ねて、いつか結果を出して、堂々と言えるその日まで、沙藍さんに見捨てられないようにするだけだ。
だから、今はまだ―――
「いや、すいません。なんでもないです」
そう言ったその瞬間……沙藍さんの顔が近付いてきて―――
「え……」
――――――――――伸びた舌が、僕の鼻の頭をペロリと舐めた。
「…ふふ、キスでもされると思った?」
沙藍さんの舌は、鼻の傷を舐め取って、口の中へと戻った。
「え、は、いや……その…」
お、思いましたすいません…!
「そうね……」
再び舌が伸びてきて―――――おでこに、舌先が付いた。
そこには、傷は無かった。
「今はまだ、このくらいかな」
そう呟いた沙藍さんの顔は、初めて目にする、幼さすら感じさせる、純粋な笑顔だった。
舌が戻ってから、そっと自分のおでこに触れる。
……傷のない場所に触れられた。
それが、沙藍さんにとってどの程度の意味を持つ行為なのか、僕には解らないけど、でも―――――少しだけ、傷の分だけ、距離が縮んだ気がした。
「今日はなんだか、今のでお腹一杯だわ。さ、帰りましょ」
気のせいかもしれないけれど、そう言って背中を向けた沙藍さんの耳が、少し赤くなっているように気がした。
―――――いつか、来るだろうか。
僕と沙藍さんの間にある、あの15センチの舌を飛び越えて、彼女に、彼女の心に、直接触れられる日が。
その日に向けて僕は……これからも、毎日不様に生きようと思う。
不様に、必死に、二人で傷を舐め合いながら―――――。
おしまい。
不様な生き様。 猫寝 @byousin
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