第4話

 その長さはヘビを連想させたが、ヘビほど細くはなく、あくまでも人間の舌がそのまま伸びたような……そんな舌だ。


 僕に突き飛ばされて尻もちをついた沙藍さんだが、特に驚いた様子も無く、舌をちろりと動かしながら、不敵な笑みで制服を手で払いながら立ちあがる。


「ひっ…」


 怯えて距離を取ろうとする僕を見つめながら、麺を吸い込むように舌をちゅるんと口の中に収める沙藍さん。


 次の瞬間、上を向いて、何かを飲み込んだように、喉が動いた。


「んっ……美味しい…」


 頬を染め、恍惚の表情を見せる沙藍さん。


 一瞬恐怖を忘れ、美しいとさえ思ったが、状況の異様さがすぐにそれを打ち消す。


「な、なにを、何を食べたんですか!?」


 まさか、僕の血とか肉を―――慌てて膝を見るが、なんともない。肉がえぐれている事も無いし、血も流れていない………何も無かった。


 ――――――――いや待て、何も無いのはおかしい。


 部活の時間に、何度も転んで膝を打ち、傷だらけだったはずだ、それが、無い……?


 顔をあげ、沙藍さんに視線を向けると…


「思った通りね、良い傷だったわ……ごちそうさま」


 その瞬間、本能的に理解した。


 この人が……沙藍さんが、「傷を食べた」のだと。


 そんなはずはないと何度打ち消しても、それが現実だと彼女の目が訴えてくる。


「沙藍さんは……人間なのですか?それとも―――」


 僕の質問に舌をペロリと出して、ニィッ…と笑いながら、


「あなたの思う人間の定義って何?」


 沙藍さんは、質問に対して質問で返してきた。


「え?それは……」


 意外な質問に、僕は答えを詰まらせる。


「姿形だとしたら、私が人以外に見える?」


「それは……人に見えますけど、でも舌が…」


「ならあなたは、何かしらの病気や、突然変異で身体の一部に異変をきたした人に対して、お前は人間じゃないと、そんなクズ発言をするのかしら?」


 う……そう言われるとそれは……


「そんな事は、ないです…」


「そう、あなたが差別主義者で無くて一安心だわ。なら人間ってなにかしら?出生かしら?私は間違いなく人間の両親から、病院で、通常の出産で生まれて、普通の子供と同じように育ってきたわ。次第に舌が長くなってきた私を心配して両親は病院に連れて行ったけど、遺伝子の配列も間違いなく人間のそれだし、両親の子供で間違いないって」


 ……そこまで言われると言葉が無いが……だからと言って疑問が消えるわけでもない。


「なら、傷が消えているのはなぜですか?」


 傷は確かに消えている。


 傷を跡形も無く食べてしまうなんて、普通は出来る筈も無い。


「それも同じ、たとえば超能力を持った人間は人間ではないのかしら?私は、傷を食べる事が出来る人間だった、それだけのことよ」


 なんだか、上手く丸めこまれているような気がする。

 言っている事は確かにその通りだし、下手に反論すればこちらが「普通じゃない人」を差別しているような気になってしまう。


 なので、少し方向を変えよう。


「わかりました、沙藍さんがそういう人なんだと、受け入れます」


「そう、理解が良くて助かるわ」


「でも、目的と理由が解りません。どうして、この場で、僕を選んで傷を食べたのですか?」


 その問いに、少し考え込むような仕草を見せる沙藍さん。


 悩む横顔すら美しいのはズルイな。

 …はっ、いかんいかん。また美しさに取り込まれそうになってる…。


「まぁ、そうね……」


 まだ少し考えつつも、言葉を吐き出す沙藍さん。


「どういえばあなたの自尊心を傷つけないで済むかしら、と考えていたのだけど、上手い言葉が浮かばないから直接言うわね」


 なんですかその怖い前置き…。


「テニスをしていたあなたが最高に不様だったからよ」


「超傷ついた!!」


 自覚が有ったとはいえあんまりな言われよう!


「一瞬でも傷つけないで済む方法を考えたとは思えないほどに凄い傷つけて来ましたね!その一撃は下手すると僕を死へと導きますよ!?」


「だから言ったじゃない、上手い言葉が浮かばなかった、って」


「確かに言いましたけど、モア少しオブラートに包むと言うかですね…」


「じゃあ……見るに堪えなかった…とか?」


「さほど変化なしですね!」


 いかん、この会話はメンタルダメージが高すぎる。


 しかし、それによってさらに増えた疑問を解消せずにはいられない。


「そもそも、なんで僕がその……不様だったとして、それが傷を舐めることに繋がるんですか?」


「だって、不様じゃない傷なんて、美味しいハズがないじゃない?」


 ……しらんがな、という言葉をぐっと飲み込む。


「傷って言うのはね、不様であればあるほど美味しいのよ、きっと心の傷と連動しているから」


「………イマイチ解らないんですけど…」


「そうね……たとえば、傷を勲章のように語る人って居るじゃない?」


「ああ、居ますね」


 これは何の時についた傷で―――とか聴いても居ないのに語ってくるタイプの人は確かに居る。


「ああいう人にとって傷は、心の傷ではないのよ。傷は誇りだから、手元に置いておきたい。だから苦いの」

「……食べられないように…ですか?」


「そう、逆に持ち主が見たくも無い傷は甘いの、花が蜜で虫をおびき寄せて花粉を運んでもらうみたいな感じで、甘くして食べて欲しがってるのね」


 ……まあ、理屈としては解る気がするけど……え?人間の体って、傷を食べてくれる存在ありきの機能付いてるの?


 進化の過程で、傷は食べて欲しかったら甘くして、食べられたくなかったら苦くしろ……ってのがもう遺伝子に組み込まれてるの?


「だから、本人が望んで無い傷……不様に付いた傷ほど美味しいのよ。あなたの不様さを見た時に、私がどれだけ心が震えた事か…!」


「それは……良かったですね…?」


 いや、良かったのか…?


「そうね、良かったわ。なにより良かったのは……」


 ふと言葉を止めて、じっと瞳を見つめてくる沙藍さんに、心臓が跳ねる。


「あなたが、どんなに不様でも決して投げ出さずに頑張っていたことよ。その結果、その甘くておいしい傷が生まれたの。だから―――」


 それはまるで奇跡のような。


 僅かな雲に遮られていた月の光がその瞬間に射し込んで、スポットライトのように照らしたのは―――


「だから、ありがとう」


 目がくらみ、心を奪い、時を止めるような……沙藍さんの、まばゆい笑顔だった。


 僕は自覚した。


 今、この人に恋したんだ、って。


「沙藍さ―――」


 何をしようと思ったのか、自分でも解らないくらい一瞬で恋に酔った僕が、名前を呼んで一歩近づいたその時、耳障りな電子音がこの場を支配していた空気をぶち壊した。


「うわっ!へっ?な?」


 何が起きたのか慌ててる僕に、沙藍さんはベンチの横の辺りを指差す。

「あ……」


 そこには僕のカバンが置いてあり、その中で携帯電話が鳴っていたのだ。


「え、ちょ、すいません!」


 慌ててカバンに手を突っ込むと、母親からの電話だった。

 ついでに目に入った時計の時間に驚く。連絡も入れずにこんな時間まで帰ってこないとなれば、そりゃあ電話もしてくるはずだ。


 でも、今は沙藍さんが……と思って顔をあげると、沙藍さんはもうすでに金網で囲まれたテニスコートの出入り口の辺りまで移動していて、こちらへと手を振っていた。


 ああ、何か、何か言わないと、何か……!


「あの!!……僕、これからもきっと、不様で美味しい傷作ると思うので、良ければまたお越しください!!」


 なんか変なこと言ってるような気もするが、沙藍さんは驚いたような顔をした後、少し肩を震わせて笑い、「またね」と口を動かしたように見えた。


 去っていく沙藍さんの後姿を、僕はじっと見届けた。


 もしかしたら、夢や幻や蜃気楼か何かで、突然消えたりするんじゃないかと思ったりもしたが、普通に歩いて、角を曲がったところで見えなくなった。


 ……時間にしたらほんの5分程の出来事だったと思う。


 本当に夢のようで、現実味が無くて、それでも確かに実感が有る。


 この出来事はきっと僕の人生を大きく変えるのだろう。


 そんな確信と覚悟…そして希望を与える夜だった。


……電話と、帰宅してからのダブルで両親に酷く怒られた夜でもあったけど……それは記憶から消すこととする。

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