第3話

「はあ、でも僕何も持ってませんけど…」


 お腹が空いたと言われても、部活終わりでそのまま寝てしまったのだ、食べ物など持っているはずもないし、学校へ持ってきているお金などたかが知れているから、おごってあげる余裕も無い。


「ご期待に添えず申し訳ないです」


 まあ、初対面でいきなり食事を要求するような相手に謝る義理も無いのだけれど、一応謝罪しておこう。


 けれど、僕のその言葉に、沙藍さんは目だけでにやりと笑った。


「座って」


 先程驚いた勢いで立ちあがってそのままだった僕の肩に手を添えて、再びベンチに座るように誘う沙藍さん。


 戸惑いながらも、特に逆らう事はしないでいると、沙藍さんは僕の両膝に両手を乗せて足を開かせ、その足の間に膝を立てて座った。


「え?あの、え?は?」


 な、なにこれなにこれ!?どういう状況!?


 誰も居ない夜の学校、月の明かりに照らされた見知らぬ女生徒が、僕の足の間に座り、こちらを見上げている。


 蒸し暑い夏の空気のせいなのか、それともこの状況からくる緊張なのか、汗が頬を流れ落ちた。


「ふふっ…」


 マスクの奥からくぐもった笑い声が響いてくると同時に、僕の膝に置かれれた沙藍さんの手を力が込められた。


「痛っ…!」


 痺れるような痛みが走る。


 先程までの練習で、何度も転んだりボールが当たったりして体中に細かい傷がたくさんあるのだ。

 特に両膝は、転んでそのまま硬いテニスコートに何度もぶつけたので、そこそこ目立つ傷が付いていて、触られると当然痛い。


 しかし、沙藍さんは僕の痛みに構いもせずに、傷を指でなぞるようにしたり、息を吹きかけたりしてくる。


「ちょっ、やめてください…!」


 そう言いつつも、女子への免疫の無さが、沙藍さんの手を掴んで離させる、という行為を思い止まらせる。


 ああもう、ダメ過ぎるな僕は。


 諦めて身を任せていると、時間にしたら2分程度経った頃だろうか、あまり痛みを感じなくなってきた。


 なんだろうこの不思議な感覚は。

 なんだかふわふわしている。

 痛い訳でもなく、気持ち良いわけでもなく、ただ心地良いというか……。


 その感覚の正体を探ろうとしていると、不意に手が離れた。


「あっ」


 思わず声が漏れる。


 それは自分でも解るくらい、手が離れた事を惜しむ声だった。


 それに気づいた沙藍さんの目が、あからさまに変わった。


「なぁに?今の可愛い声?」


 陳腐な表現だと我ながら思うが、それはもう獲物を見つけたハンターのそれだとしか表現出来ないような目だった。


 その瞳の持つ圧力と、相反するような引きつける色気と、変な声をあげてしまった恥ずかしさ。


 今まで感じた事のないくらいの混乱が、心の中に一瞬で渦巻いた。


「な、なんなんですか!?どうしてこんな…!」


 恥ずかしさを怒りに変換して、何とかごまかそうと語気を強める。


「どうしてって…言ったでしょ?私はお腹が空いているのよ」


「だから、僕は何も持ってないって……」


 僕の反論を遮るように、沙藍さんの小さいけれど不思議と耳に届く声が響いた。


「いただきます」


 言葉と同時に、マスクが下される。少し大きくて、でも形の良い唇と、口元のほくろ。


 素直に美人だと思った。


 可愛いとか綺麗とか、褒める言葉はいくらでもあるのだけど、「美人」という表現がしっくり来るような整った顔立ちだ。


 その美人の唇が――――僕の膝の傷に触れた。


「っ!」


 なん……は?どういう…ええっ!?


 柔らかく暖かい唇が膝に当たって形を歪めるその様はあまりに甘美で淫猥で、硬いコートに当たった感覚ごと吸い取られてしまうような気がする。


 なんなんだこれは、僕はただ疲れてベンチで寝てしまっただけなのに、別世界にでも迷い込んだのか?


 いや、別世界だとしても、見知らぬ美女が傷だらけの膝にキスをする世界ってなんだ。それは天国なのではないか。


 ……あれ?死んだの?僕死んだの?


 死んだにしては感覚が生々しいな!


 などと混乱していると、膝にさらに新しい感覚が襲い来る。


「んっ……ふあっ」


 沙藍さんの口から吐息が漏れるのと同時に、舌が出てくるのが見えた。


 舐め……ている?


 僕の傷を、まるでアイスでも舐めるかのように舌でなぞっている。


 もう、もう訳がわからな過ぎて頭がどうにかなりそうだ。


 ほとんど女の子に触れたことも無い、地味でつまらない自分の人生で、なんでこんな事が起こるんだ!?


 ああくそ、心臓うるさいな。ドキドキし過ぎだろう!でもするなってのも無理な話だよな!


 こんな美人が、突然膝にキスをして、その舌を伸ばして傷を舐めているのだ。

 間違いなく人生初めての経験だし、そもそも大半の人間はこんな経験をせずに人生を終えるだろう。

 この状況を当たり前のように受け入れられる人間が居るとしたら、そいつはどうかしている。


 これは確実に、そういうレベルの出来事だ。


 血液が蒸発しそうなくらいに体温が上がっているのを自覚した頃、ふと違和感に気付いた。


 …あれ?これ舌……だよな…?


 なんか、凄い長いというか……下から傷を舐め上げているのが、全然途切れない。


 月明かりしかない夜の闇の中、長い髪に隠れて良く見えないけど……確かに沙藍さんは僕の膝を舐め――――――


 ………………っっ!!!


 先程まで上がっていた体温が、一瞬で下がる感覚。


 背筋にぞわりと寒気が走り、腕に鳥肌が立つ。


「それ、その……舌、何ですかその舌!?」


 唐突な恐怖に思わず沙藍さんを突き飛ばし、慌てて立ち上がる。


 その瞬間、ハッキリと月の明かりに照らされて、見えた。


 赤く、ぬらりとした……首元まで伸びる、長い舌が――――。

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