第2話

「はい、もういっちょー!!」


 体育教師の、無駄に甲高い声が僕の疲労を倍増させる。いや、倍増なんてもんじゃない、×無量大数だ。

 ボールを左右に打たれ、夏の炎天下のテニスコートを走り回っているだけでも肉体のダメージが凄まじいのに、精神にまで攻撃してこないでくれよ。


 そもそも僕は日の当らない場所で誰にも見つからずに本を読んでるのが好きなタイプの人間なんだ。

 それを、不健康そうだから運動した方が良いとか言って無理やりテニス部に入れて、こうして連日鬼のシゴきを受ける僕の身にもなってくれ。


 いや、わかってる。決して悪い人間ではないのだ。人間は結局、自分の成功体験を通じてしか他人を教育することなど出来やしない。

彼は体育至上主義で成功してきた人生なのだろう。結果的に体育教師にまでなっているんだ、当然だ。


 彼なりに僕の将来を心配してくれているのも良く解る。


 しかしあえて言いたい。


 余計な御世話だ脳筋野郎。


 人には向き不向きがあるし、自分の成功体験が他人にも適応されるなんてのは思い上がりも甚だしい。


「ほらほらどうした下賀茂 梨莉央(しもがも りりお)!まだまだやれるぞ!」


 フルネームを言うんじゃないよバカ野郎。


 ここでこうしてヘトヘトになりながら不様に左右に行ったり来たりしてるのに全く球は打ち返せてなくて周りにもヘラヘラクスクス笑われてるのが、この僕、下賀茂 梨莉央だってことバレるだろうが。


 そこそこ珍しい名字と名前なんだから、どっちかだけでもすぐ特定されるのに、フルネームとはやってくれたな。


 ああダメだ、思考力が下がって言葉づかいと性格が悪くなってる。


 まあでも声にして発しないだけ褒めて欲しいくらいだ。


 結局その地獄の時間は、太陽が完全に沈むまで続いた……。



 ……………。



 目が覚めると、星空が見えた。

……ああ、部活が終わってから全く動けなくて、テニスコート脇のベンチに寝転んで、「ここでちょっと休みます……」って言ったのは覚えてる。そのまま寝たのか……起こせよ!


周囲には誰の気配も無く、生温かい風が疲れ果てて火照った身体を撫でる。不快指数が高いなぁ。


 夜になっても気温は下がらず、湿度の高さも加わって酷く蒸し暑い。


 汗拭きたい…タオル……タオルどこに有ったっけな…。


 確か、頭の上の方にカバンが有って、そこに入っていたような……。


 疲れ切った手をゆっくりと動かして頭上に手を伸ばすと、少し硬くてさらさらした布が有った。


 ……ん?これタオルか?なんか手触りが……。


「そんな状態でも性欲を失っていないのかしら?思春期の男子ってたいしたもんね」


 ……えっ?


 突然の声に驚いて、目線を上に向けると―――そこには、制服を着た女子生徒が座っていた。


「おはよう……と言うのもおかしいかしら。もうすっかり夜だものね。けれど、目が覚めた人にかける言葉としては、やっぱり おはよう、が適当だと思わない?」


「え?あ、は?そ、そうですね?」


 疲労と寝起きで頭が働かないが、聞き覚えのない声、見覚えのない顔……誰だ?


 制服からすると、きっとこの学校の生徒なのだろうけど……少なくともクラスでは見た事が無い。


「ねぇ、そろそろ満足かしら?あなたの性欲を満たすのに協力してあげる義理は無いのだけど?」


 何を言って―――――と、そこで気付いた。


 タオルを探していた僕の手が、彼女のスカートを掴んでめくるように持ち上げている事に。


「あ、ご、ごめん!!でも見えてないから!」


 さすがに披露も忘れて、慌てて身体を起こして謝罪と否定をする。

 女の子は僕に対して横を向いて座っていたので、スカートがめくれても、仰向けに寝転がっている僕の目からは見えるはずもないのだ。


「あらそうなの?めくって露出させておいて、あえて自分は見ないっていうプレイだと思ってたのだけと」


「上級者が過ぎるよそのプレイは!?」


 なんなんだろうこの子……と言うか、こうやって体を起して向かい合い、改めて顔をちゃんと見る。


 切れ長な瞳に長いまつげ……たぶん美人……だと思うのだけど、夜の暗さに加えて、大きなマスクが顔の下半分を隠しているのでイマイチ解らない。


 ただ、どちらにしても見覚えが無いのは確かだ。


「あの……はじめまして…ですよね?何か御用ですか?」


 他に人影の見当たらない夜の学校で、寝ている僕の隣に座っていた……ベンチはここだけじゃないし、さすがに偶然座っていただけとは思えない。


「偶然座っていただけよ?」


 いやいやいやいや、目が笑ってますけど本当に!?


「と言うのは冗談よ」


「……何の意味が有るんですかその冗談?」


 何だこのよくわかんない人……と思っていると、不意に顔をグイっと近付けてきた。


「え?本当に!?……という顔で驚くあなたを見たかったの。まんまと見れたわ」


 ふふっ、と笑う彼女の鼻息がかかる距離。


 近くで見ると、肌の綺麗さや少し細い瞳から漂う色気が、甘い匂いと共に伝わってきて、胸が高鳴った。


 くっ、どう考えても怪しいどこのだれかもわからない顔を半分隠した女の子に心を弄ばれたと言うのに、ときめいてしまう自分の未熟さが憎らしい!


「はじめまして、沙藍(さらん)よ」

「えっ、あ、はい。どうも、下賀茂です」


 突然の事に、一瞬自己紹介をされたのだと気づかず、反応が遅れた。


「下の名前は?」


「あの、梨莉央です」


「そう、梨莉央くん」


 いきなり名前呼びですか……

「えーと……さらん…さん?は結局、何の用事で?」


沙藍、ってのは多分名前なのだろうけど、名字を教えてくれないのでこちらも名前を呼ぶしかない。


 女子を名前で呼ぶのは……非常にこう…むず痒いというか…苦手だ。


「なんでもないのよ、ただ……お腹が空いたから」


沙藍さんが、マスクの下で、舌舐めずりをしたような気がした―――

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