不様な生き様。

猫寝

第1話

「人間の舌の平均の長さって知ってる?」


 彼女の質問はほとんど耳に届いてなかったが、それでも解ることが一つある。


「7センチくらいなんだって、意外と短いわよね」


 言いながら、自らの唇を舐める彼女の妖艶な舌……それが、決して平均的な長さでは無いということは、ハッキリと解る。

 平均の倍以上……15センチは有るだろうその舌は、口元から顎を通り過ぎ、制服の襟元までぬらりと伸びている。


「ねぇ、思ったこと無い?舐めるのって気持ち良いなぁ、って」


 その長い舌が、少しずつ近づいてきて――――僕の膝へと伸びる。

 僕の膝には血が滲んでいる。部活のテニスの練習で転んで付いた傷だ。


「たとえば、子供の頃に食事の終わった後にお皿を舐めたりしたでしょう?あれってなんだか楽しくなかった?」


 皿に残ったソースを舐めるように―――彼女の舌が、僕の傷口を舐める。


「いっ…!」


 鈍い痛みが走る。けれどそれは一瞬のこと。


「でも、お皿を舐めるのは恥ずかしいこと……そう教わって、私たちは大人になるにつれてその舌を止めるの」


 言葉とは裏腹に、彼女は僕の傷を舐め続ける。15センチの長い舌で、まるで僕の傷を舐めとろうとするかのように、生温かい舌を押しつけながら。


「けれど考えてみて…?恥ずかしさと気持ち良さは隣り合わせなのよ。性的な行為なんて、その極みじゃない」


 その言葉に、僕は自分の顔が紅潮していくのを感じる。

 この状況でそんなこと言われて、連想するなと言う方が無理だ。


「―――味が変わった。Hなこと考えたでしょ?」


「う……わ、わかるの?」


「どうかしら?」


 カマをかけられたのか、それとも本当に解っているのか……彼女の悪戯な笑顔からは読み取れなかった。


「でも、今日の傷は少し苦いわ。良い傷とは言えないわね」


「……傷は傷さ。良いも悪いもないよ」


「有るのよ。前にも言ったはずよ、良い傷はね、甘いの」


 さも当然のことのように彼女は言う。


「じゃあ、今日の傷は美味しくないってこと?」


「あら、私はいつの間に小学生の傷を舐めていたのかしら?」


「……なんだよそれ…」


「苦みも旨味の一つ、ってことよ」


 ……はいはい、どうせ僕はコーヒーにミルクと砂糖を入れないと飲めない子供舌ですよ。

 一応高校生の身としてはプライドを傷つけられた気分だが……それでも、「もうやめろ」と彼女を……彼女の舌を振り払って行けない自分の弱さを恥じる。


 それほどに、彼女の舌は蠱惑的だった。


 彼女の舌から滴る唾液と僕の血が混じり濡れたその舌は、朝露の滴る青葉のような清爽たる美しさと、見ただけで血流の速度が上がり酷く喉が渇き、それを欲してしまう欲望の塊のような淫らな醜さが同居していた。


 彼女の舌が僕の傷に触れるたびに、口から吐息が漏れることを止められない。

 僕の人生の中で、彼女とのこの時間以上に大切なものなど見つけられないのではないかと、そう思ってしまう程に。


 この感覚は一体何なのだろう。


 きっと一言で大きな枠組みに押しこめば、「快楽」というものなのだろうとは思う。


 けれど、それだけじゃないんだ。


 単純な快楽なのではなく、もっと複雑な……ああ、ダメだ。言葉が見つからないし、頭が回らない。

 今はただ、この感覚に心と体を沈めて居たい。いつか、深く深く沈んで戻れなくなり、そのまま溺れて命を落とすような気もするのだけど、それでもこのまま―――。


 ――――しかし、この時間は永遠には続かないのだ。


 それが仕上げの合図だと言わんばかりに、彼女は長い舌を全て僕の膝に押しあてて、身体ごと上に移動させるように、傷を舐めあげた。


「……っ!!」


 今日一番の刺激が全身を震えさせ、何かが背筋をぞわぞわと這い回るような感覚に身を委ねていると、彼女の舌がちゅるりと口の中へと収まって行く。

 あの長い舌をどう納めているのかいつも不思議なのだけど、彼女はすぐにマスクをしてしまうので、窺い知ることはできない。


 マスクは彼女のトレードマークのようになっているけれど、当然食事の時などは外しているし、常に付けていると言う訳ではない。

 だが、その時の彼女は実に自然で、舌の長さなど微塵も感じられない。


 不思議で仕方ないのだけれど、以前訊いた時に「女の子の秘密を探ろうだなんて、下劣な趣味もあったものね」と不快感を露わにされてしまったので、それきりその質問は封印した。


 実際問題、舌のしまい方はそれほど重要ではない。気になるのはもちろんなのだけど、彼女に嫌われてまで知りたい事ではあり得ないのだ。


 本当に知りたいのは…こっちのことだ。


 僕は自分の膝にそっと触れる。


 まだ僅かに彼女の水分が残るそこには―――他になにもない。


 先程まで確かに血の流れていた傷がそこにあったハズなのに、そんなものは最初からなかったかのように消えていた。

 しかし、触れると確かにそこには、まるで傷の残滓のように痛みだけが残っている。


 この余韻のような痛みもじきに消える事を、僕は知っている。


 傷を舐め取る……それが彼女の持つ、長い舌の不思議な力なのだ。


 彼女の喉が、こくりと音を立てたのが聞こえた気がした。


 飲みこんだのだ、僕の傷を。


 まるで上質のワインでも飲んだかのように、恍惚の表情で頬を染め、ほう…と息を吐く。


 僕の傷が彼女の体内を駆け回ると思うと、妙な背徳感に体温が上がる。


「ごちそうさま、あなたの傷はやはり良いわね、醜くて不様でとても甘露だよ」


「それはまた……褒められていると受け取って良いんだよね?」


「あら、どこかに貶す要素が有ったかしら?」


 とぼけているのか、本気で思い当たらないのか、きょとんという擬音が見事に似合う表情で、軽く首をかしげた。


 可愛いな、くそぅ。


という言葉を思わず声に出しそうになって、ギリギリ飲み込んだ。


「醜さも不様さも、あなたがこの傷を作るために得たものよ、それが傷の味を熟成させるの。誇りなさい」


 そう言われても、なかなか「そうか!誇ろう!」とは……さすがにならないけど、ほんの少し心が救われたような気もする。


「じゃあ、また会いましょう。あなたに傷が出来たその時に」


 そして彼女は、マスクの端からちらりと舌先を出し、目だけで笑って去って行った。


 その後ろ姿を眺めながら、半ば放心状態の僕は、ひと月前の事に想いを馳せていた。



 僕と彼女の、この奇妙な関係が始まった、あの日のことを――――

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