ろっく・ぼとむ

げんなり

第1話

 今、目の前に続いているのは、記憶にあるのよりもずいぶん緩やかな坂だった。

 あの時あたしはパンクしたママちゃりを、前かごもリアキャリアも荷物で満載のそれを、よろよろと押しながらこの坂を上ったのだ。重たくて悔しくて情けなくて、本当はここがどこなのかも分からないくせに、一本道の先を目指して、どうしてこの坂を上らなければいけないのかも自信がなくて。

 あれから七年、これくらいの坂なら助走付ければトップギアでも上れるだろう。

 で、あたしはそうした。


 エリコと二人で朝の体操一発決めて、布団の中でだらだらとテレビなど見ていると、店のガラス戸を叩く音が聞こえた。今時珍しい木製の引き戸なもんで、何だかぶっ壊れそうな勢いで揺れている。

「親父さんが怒鳴り込んできた、なんてことはないよな?」

「えーっ、だってここに来てることなんて知らないか、あっ」

 何か思い当たったような、そんなお顔も可愛らしいエリコ、

「日記に書いちゃった、てへ」

と、肩をすくめて見せるが、そんなしぐさもたまらない。

「結構細かくいろんな事書いちゃってるからぁ、たぶん読んだら気絶するかも」

頭を抱えしゃがみ込みたくもなったが、とりあえずパンツとスウェットをはいて、

「はいはい、ちょっと待ってくださーい」

め一杯の微笑を浮かべて、おれは引き戸の鍵を開けた。


「はい?」

 目の前にいたのは、サイクルジャージにメットにアイウェア、こんな街中でそんな格好してどうすんの的な女で、何だか肩で息をして言葉も出せない様。そこそこ趣味のよいシクロのバイクがうちの外壁に立てかけてある。

「修理ですか?」

 首を振る女。

「良かった。うち、今、自転車屋じゃなくって、スケボー屋だから」

「えっ?」

 サングラスをはずし、店内を覗き込む。

 化粧っ気はないけど、なかなかきれいな顔立ちをしてて、ぼーっと丸い目が天然な香り。大体こんな非常識な時間にやってくる奴はろくでもないか、可愛いかのどちらかだ。

 店内の壁面にディスプレイされた夥しい数の色とりどりのボードたちを愕然と眺め、みるみる落胆の表情(はじめて見るけど)を浮かべ、がっくりとうなだれたその視界の隅に映るブルーシートに覆われた大きな荷物の山、何かに導かれるようにそれをめくりあげる。

 って感じでその女、自転車関係の工具やら部品やらが、無意味なほどにきれいに磨かれ整理されて山積みになっている物を見つけた。で、なんか勝ち誇ったような表情で振り返り、なんか喋ろうとするから、おれは先に言ってやる。

「それはただの未練だから。断捨離ドラフトナンバー1。使う奴いないし」

「お父さんは?」

 あれ、あのやろなんでこんな若い女といつの間にと、ちょろっとジェラって、口を開きかけると、「お客さん? じゃ、先行くね」

 エリコが硬質プラスティックのような笑顔を浮かべて奥から出てきた。セーラー服姿が朝の光に眩しくて、通り過ぎたあとにいい香りと何だかわかんないけど、きらきらした雰囲気を撒き散らしていく。うーん、最高っす。

「なんか汗くさ」

と、聞こえるか聞こえないかというより、確実に聞こえる小さめな声で言って可愛らしいお顔をしかめる。それから食品サンプルの宙に浮いたフォークのような笑顔を浮かべて、

「どうぞごゆっくり」

と、出て行った。いやー、最恐っす。

 女はと言えば、

「え、やだ」

とか言いながら、体をクンクンしているが、ま、それも趣があってよろしい。

 てか、どうにかしてくれよ、この状況。エリコと仲良くイチャイチャ通学の予定が、何だかご機嫌斜めになっちゃって、痛くもない腹探るような、あーんな冷たい瞳でにらまれるような、そんな悪いことは僕、しておりません。

 猛烈に頭を抱え込んでいると、外から、

「おーっ、エッちゃん、朝早くから通い妻、ご苦労さん。リョータは?」

「中で鼻の下伸ばしてまーす」

 なんていう会話が聞こえてくる。

「ほら、お待ちかねの」と声を掛ける、その数瞬前に道路へ飛び出し、

「中山ショータさん、あたしのメカになって下さい」

と、女の素っ頓狂なプロポーズが聞こえてきた。


 ま、確かに、俺が十歳くらいの頃、親父はそこそこ名の売れた自転車のメカニックで、だけどそれはたまたまガキの頃からの連れに、むっちゃくちゃ天才的なライダー、神埼トオルがいたからで、二人で組んだいろんなレースで勝ちまくり、雑誌やテレビで話題になって、スポンサーもつき、国内、国外の別なく参戦しまくり、そんで結果どうなったか?

 念願のプロショップをオープンしたのもその頃。街のみんなと馴染むんだとか言って、実用車やママちゃりの整備や修理もやってたけれど、いかんせん営業してる日のほうが少ないので、客なんてつく訳がない。亭主が留守だと、嫁も良からぬことをするもんで、ま、俺のお袋ということだけど、放任というよりは育児放棄のようになって、たぶん男でも出来たんだろうけど、俺の顔をジーっと見つめて、

「大の大人が自転車自転車って、ガキっぽいよね?」

と、問いかけた。

 当時の俺は親父の影響からかBМXにはまってて、朝から晩までトリックの習得に励んでいたのだけれど、そんな俺だっていい加減、家庭の中がぶっ壊れていることには気付いていたから、

「うん。もっと家庭を大事にするべきだと思う」

「リョータ、あんたはちゃんと大人の男になりなさい」

涙とか怒りだとか、そんな物のまったくない、非常にまじめな顔でそう言ったお袋は、その日の夜中に行方をくらまし、あれから七年、音沙汰なし。

 で、大きなダウンヒルのレースで優勝して、華々しく帰国してきた親父は、最愛の妻のいないことに気付き、さっさと大人になっちゃいたい息子には蔑みの眼差しで見つめられ、次第に引きこもり親父と化し、レースからはすっぱり足を洗い、自転車屋も止めちゃって、何故だか突然スケボーのプロショップにリニューアルし、未練たらたらと嫁の帰りを待っている。あまりの寂しさに夜な夜な繁華街に繰り出すが、酒が飲めないものだから、いっつもしらふで朝帰り。

「な、こいつバカだろ?」

 結局四人で茶の間に座り、軽く朝食(中華粥と青菜の香り炒め・エビのガーリックソテーとカンパチのあらの煮付け、もちろん俺の自炊メニュー)などとりながら、俺は言った。右手の親父はたいして食わずにお茶だけすすり、対面のエリコは運動の後の旺盛な食欲で若さを見せつけ、左手の女は遠慮がちだけど、しっかりと食べながら、黙って話を聞いている。

「うけるー。おじさん、かわいー」

「えっ、おじさん、かわいい?」

「真に受けんなよ、バーカ」

「てめぇ、親に向かって」

「リョーちゃん、おかわり」とエリコのお椀にお粥をよそって、

「こんな奴に、あんたのメカニックなんて出来るわけないじゃん。ほか探したほうがいいって」

と、さっきから黙りこくっている女に、話を振った。

「おかわりする?」

 女は箸を置いて、首を振った。まっすぐに親父の方を見ているが、肝心なその相手は腫れぼったい眠たげな眼をしぱしぱさせながら、我関せずというか、気持ちここにあらずというか、ただぼーっとしてるというか、空気が読めてないというか、とにかく彼女の真剣な思いには気づいていなかった。

「あたし、ずっと憧れてたんです。諦めるなんて、できません。あたしの力を見てください」

 やけに静かに、彼女は言った。


 で、何がどうしたということもないのだけど、俺はその女(カエデというらしい)と、BМXのコースのスタートゲートに立っている。もちろんバイクにまたがってだ。

「リョーちゃん、がんばれー」

「カエデちゃん、負けるなー」

 エリコと親父の無責任な応援の声が、遠くの方に聞こえている。

 あ、学校は一体どうした、俺たち?

 あの後、あんまりしつこく、とうとうと説得しようとするカエデに条件を出したのだ。カエデが勝ったら親父はメカニックを引き受ける。俺が勝ったら、金輪際うちと関わらない。どういう流れでこうなったのかは曖昧だが、あんまりまっすぐな奴ははた迷惑なもんだと決まっているので、ぶっ潰したくなったのが一つ。そしてもう一つの理由は、なんでこんな腑抜け親父にそこまで執着するのか理解できないから。

 隣のカエデにメット越しに言ってみる。

「負けたら、俺と付き合いなよ?」

 一瞬きょとんと眼を見張り、

「あたしに口説くなんて十年早い」

と、ゴーグルを下して前を見据える。

「十年たったら、三十二だろ?」

 俺もゴーグル越しにゲートを見つめる。

「その頃はもう買い手はつかないかも」

「うるさい」

 シグナル、ゲートが、倒れる。

 一瞬体を引いて、そして、真っ逆さまに落ちていく。

 お袋がいなくなってから、一度もペダルなんて漕いでなかった。記憶の中の半分も回せない。肺が焼けてきて、体が悲鳴を上げている。全然乗れてない。それでももし、俺にアドバンテージがあるとすれば、それは恐怖感がないことだろう。初めて回るBМXのコースは、短い距離の中で躊躇するほどのアップダウンがある。МTBのダウンヒルとかクロカンとかにはない感覚だ。

 視界の隅にカエデの姿はない。おそらくスピードを乗せ切ることもできていないのだろう。このまま、ぶっちぎってやる。

 最初のジャンプはダブル。一息に飛び、バームを抜け、ひたすら漕いでスピードを乗せる。小さなこぶの続くセクションでは、飛びすぎないようフロントを抑え気味に走り抜ける。

 最高だ。

 やっぱ、おもしれぇ。

 タイトなコーナーを切り返し、次のテーブルトップへと加速する。

 飛べる、俺は確信した。


「リョーちゃん、速ーい」

「カエデちゃんだって、そんなに遅れちゃいない。たいしたもんだ」

「あ、すごい、あんなに高く飛んだよ、おじさん」

「あのバカ、やりやがった。調子こきやがって」


 飛び出した瞬間、俺は思い切りフロントを上げた。そのままボトムブラケットを両足で押し込むように、ハンドルを軸にした動きをイメージする。くるりと視界が反転して、俺は空の上にまたがった。澄み切った青空は、その時確かに、俺の足元に存在していた。

 ずいぶんと長い時間がたった気はした。こんなにゆっくりと回転してたらやばいという気もしていた。これじゃだめだと、強い焦りを感じていた。高く飛びすぎたせいか、上体のあおりが足りなかったのか、次の瞬間、俺は前頭部から地面へダイブしていた。軽い脳震盪を起こし、俺は意識を失った。確かにそばをすり抜けていった車体のイメージはあった。


 約束は約束だ。親父は渋々、カエデの要望を聞き入れる約束をした。

 聞けば、あの神埼トオルのチームだという。

 なんだか落ち着くところな落ち着いたような、俺一人がはしゃいで馬鹿を見たような、一杯食わせられた感がある。

「でも、かっこ良かったよ」

 エリコは、そう言ってくれる。

「自転車に乗ってるリョーちゃんもいいね」

とはなかなかの誉め言葉じゃないか。

 お袋には悪いけど、楽しいことができないんなら、大人になんてなんなくていいんだって、そんな気がする。その悪い見本が、大事そうに工具を取り出して、俺のマシンを整備し始めている。


「お嬢ちゃん、たくさんの荷物だけど、自転車旅行かい?」

 自転車屋のおじさんがパンク修理しながら話しかけてきた。

 荷物満載のママちゃりは、旅行というより夜逃げな感じで、正確に言えばそれは家で支店者だったのだけれど。

 店の前の坂道では、男の子が小さな自転車に立ち乗りして、上手にバランスをとっている。ピタッと静止したり、ぴょんぴょん飛び跳ねたり、とても上手だ。

そのそばには、たぶんお母さんなんだろう、きれいな女の人が陽気に手をたたいて男の子をほめている。もしかしたら、このおじさんの家族なのかな。

「はい、ちょっと遠くまで旅をしたくて」

 あたしは無理してそう答えた。でもきっと、さっき泣いちゃった涙のあとが顔には残っていたんだと思う。

「そうか、それを聞いて安心した。旅なら必ず家に帰るもんだ。道路を長く走ると、排気ガスでずいぶん汚れてしまう。君も遠くまで来たんだね。はい、お待たせ」

 いたずらっぽく笑いながら、おじさんが言った。

「今回はもう家に帰りな。多分、おうちの人も心配してるだろうから。どうしても旅を続けたくなったら、その時また、この道から始めればいいよ。その時はまた、俺がバイクの整備をしてあげるからね。」

 






 

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ろっく・ぼとむ げんなり @tygennari

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