4.日本料理、そして海と水着
食堂はお祭り騒ぎだ。二十七人の楽団の中央で、お酒に酔った詩織が歌を歌っている。
「ヴィーデォマーレクヮンテベッロー♪ スピッラタントゥセンティメンットー!」
「Vide ‘o mare quant’e bello,♪ Spira tantu sentimento,」
自分も歌う者、楽器を取り出して演奏している者、とにかく楽団員全員参加している。ヴィットーリオも手拍子を叩いていて大喜び。
その隣でルキッラも手拍子を叩いて詩織に声援を送る。それを受けて詩織はサラダを取り分けるための大きなスプーンを取り上げ、マイクにして歌にさらに熱を入れていく。
「んマァーーヌンーっメーーーーラーっサーーーー! ヌンダルメストゥトゥルミエントーー!」
「Ma nun me lassa, Nun darme stu turmiento!♪」
この曲はナポリ民謡「Torna a Surriento」邦題「帰れ、ソレントへ」。ソレントから去って行ってしまった恋人に思いを寄せる歌だ。
歌詞もメロディも所々あやふやな上に発音もカタカナの詩織が、歌の意味をどこまで理解しているかは不明だが、とにかくノリノリで歌っている。この曲をひたすらリピートして、みんな夜の宴を楽しんだ。
*
二十七人の楽団員たちが寝静まり、食堂にはルキッラ、そして酔いの覚めた詩織が座っていた。
「ルキッラ、よく引き受けたね。急に二十七人も」
「うん。ここは、いつでも泊まりたい人を受け入れられる宿であってほしいの。だから断るのは嫌なんだ。マサキと悠ちゃんにはかなり迷惑かけちゃったけど」
「平気平気」と詩織は手を振る。
「マサキの方は知らないけどさ。悠は『こういうアクシデントで活躍する私やるじゃん!』みたいに楽しんでる感じだよきっと」
みんなを起こさないよう静かにルキッラは笑った。
「ルキッラ、本当にこの宿が大事なんだね」
「うん。私の家でもあるしね。それに私、おじいちゃんにもお父さんにも、小さい頃からずっと聞かされてたの。このテーブルやイスにも、壁にも天井にも階段にも、お皿にもナイフにも、時計にも、お客さんたちの旅の思い出が詰まってるんだって。自分たちはそれを守ってるんだってね。おじいちゃんにおばあちゃん、お父さんお母さんが守って来た大切なものだから、私も守っていたくて」
「いいなあ。ルキッラさ、かっこいいよ。ほんとにかっこいい……」
詩織は喋っている途中、突然ガタンと前に倒れて、頭をテーブルに打ち付けた。驚いたルキッラが「大丈夫?!」と起こそうとすると、詩織はすぐ自分で起き上がっておでこをさすった。
「あ
「今日は一日中歩いたし、夜も歌いまくったもんね。そろそろ寝たら? 私ももう寝るから」
「なあ悠ちゃん、よく分かったな。レモンパスタの隠し味」
食堂と同じく静かな厨房。こっちでは悠とマサキが二人で後片付けをしていた。
「まあ、これでも十年料理の仕事してるからね」
「すごいな……。本当に助かったよ。俺一人じゃもう、倒れてたかも」
「二人掛かりでも大変だったね。私もくたくた」
「いやー、悪かったね。お客さんなのに、こんな仕事させちゃってさ」
マサキは申し訳なさそうにそう言いながらタオルで顔を拭った。「それにしても」と話し続ける
「ホントに、ルキッラのやつ、自分はたいしてすることないから安請け合いしちゃって。俺がどんだけ忙しくなるか、ちょっとは考えてくれって話だよ」
マサキがそう言うと悠は「ふふっ」と笑った。
「さっき本当はルキッラになんて言ったの?」
「え……やることないか聞いてきたから……大丈夫だって答えた」
「本当にそれだけ?」
「いや、出来る事なんかないだろって言っちゃったな……イライラしてたからつい」
「謝っておいた方がいいんじゃないの?」
「……そうだよな」
いったん静かになった後、悠が小さな声で聞いた。
「マサキとルキッラって、どういう関係なの? 夫婦?」
「いや、ただの幼馴染だよ」
「そうなんだ。どうしてこの宿で一緒に仕事してるの?」
「ああ……ここはルキッラのじいちゃんが始めて、亡くなった後親父さんが引き継いだんだけど、親父さんも事故で亡くなったんだよ。奥さんも一緒に。で、一人っ子のルキッラは足が不自由だし、親戚はもう宿を閉めるしかないだろうってみんな言ってたんだけど、ルキッラはどうしても嫌だって言ってさ。俺は親父さんの時代からコックやってんだけど、あいつに頼まれてコックを続けながら、あいつが出来ない他の仕事もやってる」
「へえ……そんなに尽くしてるのに『ただの幼馴染』なんだ」
「いや、俺もこの宿には思い入れがあるんだよ。小さい頃から本当に毎日ここに遊びに来てたし。なくなってほしくはないんだ」
「ふーん、なるほどね」
マサキは布巾でテーブルを拭ききると、悠の近くの椅子に腰かけた。
「なあ、日本の料理屋ってどんなふう?」
「どんなふうかって、メニュー? 私のいるお店は、揚げ物がメインの定食屋だから、鶏の唐揚げとか豚カツなんかと、ご飯に味噌汁、それとお新香」
「おしんこ?」
「漬物だよ」
「ああ、なるほど。なあ、日本のご飯って、すごくもちもちしてて美味しいって聞いたんだけど、本当? イタリアで食べるお米とどう違う?」
「えー、どうなんだろ。私イタリア来て白いご飯なんて食べてないからな」
「俺、悠ちゃんの料理食べてみたいな。明日なにか作ってよ。定食屋で出してる揚げ物とか」
「ここ使っていいの? だったら作るよ。食材何がある?」
マサキは立ち上がって悠に冷蔵庫を開いて見せた。悠も隣に立ってそれを覗き込む。
「ああ、鶏肉は結構あるね。使って大丈夫?」
「いいよ。卵と小麦粉も好きなだけ使って」
「野菜は何使っていい?」
マサキが別の扉を開く。
「ニンジン、玉ねぎ……ナスとズッキーニは明日の朝食に使いたいな」
「キャベツある?」
「あるある。いいよ、使って」
「ピクルスは?」
「ある……何作るか決まった感じだな?」
マサキがそう言って笑みを浮かべると悠は得意げに「まあね」
「何だと思う?」
「うーん、俺日本料理詳しくないから全然わかんないや」
「じゃあ、明日のお楽しみにしときな」
「いいなあ。俺、日本に行って日本料理の修行とかしてみたいよ」
「いいじゃん!」と声が大きくなる悠。
「来なよ。私面倒見るよ」
厨房の入り口から声がした。
「マサキ、いる?」
ルキッラだ。
「マサキ、今日はお疲れ様。ヴィットーリオは明日の朝食もって言ってたけど、それは無理って言っておくから」
「え? いや、平気だよ。ここまで来たら全部やろう。俺も、もうそのつもりだし」
「そう……ありがとう。それじゃあ、私もう寝るから。悠ちゃんも、手伝わせちゃってごめんね。ゆっくり休んで」
「うん。お休み」
*
次の日の朝、マサキも悠も自分たちの食事そっちのけで二十七人分の調理をした。狭い食堂に大勢のお客がすし詰め状態なので、ルキッラは車いすをあまり動かせず、楽団員達のお喋りの相手。配膳はヴィットーリオ、さらには詩織もお手伝い。いくつかのミスをしながらも、なんとか乗り切った。楽団が去っていくとき、アスカニオがルキッラの所にやってきた。
「ルキッラ! ありがとう。本当に本当に助かったよ。またこの街に来ることがあったら、必ず君に挨拶しにくるからな」
「じゃあ、次に会えるのを楽しみにしてるね」
「ああ」と言った後アスカニオはルキッラのさらに向こうへ手を振った。
「シオリ! またな!!」
詩織も笑顔で大きく手を振り返す。言葉は伝わらずとも、昨日の演奏ですっかり仲良しになったようだ。
アスカニオは次にルキッラの前にしゃがんで目線を合わせ、手を取った。
「ルキッラ、君は立派だよ。君は立派だ。それを忘れないでくれよ」
そう言って、アスカニオ達は旅立って行った。
*
「なあ、俺腹減ったよ。マサキ、なんか作って」
ヴィットーリオは食堂の椅子に詩織と腰かけている。ルキッラも玄関から戻り、マサキは厨房から出てきた。
「もう作ってるって。俺じゃなくて悠ちゃんがだけど」
「えマジ? 日本料理?」
「たぶんね。鶏肉使って揚げ物作ってるよ」
そう言ってマサキはすぐに厨房へ戻った。手伝いをする……だけでなく、悠の料理を観察するためだ。
食卓に鳥の揚げ物が乗った皿が並んだ。分厚めの衣は、何かに浸されたらしく、つやつや輝いている。具材たっぷりのタルタルソースが、おたま一杯分ほどもかけられ、何やら甘酸っぱい香りがする。
「美味しそう。これ、何て言う料理?」
「チキン南蛮だよ」
悠ではなく詩織がルキッラに教えた。嬉しそうな満面の笑み。好物らしい。片づけを済ませた悠とマサキもやってきて、全員で食べ始める。マサキは一口かじると「んっ」と目を広げた。
「うまい。これ、揚げた後に何かに浸してたよな。何に浸したの?」
「バルサミコ酢。それにお砂糖加えて甘くしてある。お店で作るときはすし酢でパッとやるけど、こっちにはないからね。でもちょっと甘すぎたかな」
「タルタルソースには……ピクルスと玉ねぎとニンジン? あと玉子も入ってるよね? これもうまい。特に玉子! うまくマヨネーズになじんでる」
「うん。キッチンペーパーにくるんで、冷蔵庫で水気飛ばしたからね。こうするとタルタルソースがでろでろになりにくいんだよ。ピクルスも水気拭いたし」
「随分手間かけてるね。すごく美味しい」
ルキッラもそう言い、ヴィットーリオも無言ながらフォークを止めずにあっという間に間食した。
*
食事を済ませると、今日はルキッラとヴィットーリオだけでなくマサキも、悠達と一緒に宿を出た。
「昨日はどんなとこ回ったの?」
「教会を見て、市場を見物しながら船着き場まで行ったよ」
ルキッラは扉に鍵をかけながらマサキに答えた。ヴィットーリオが「よし」と軽く手を叩く。
「じゃあ今日こそ観覧フェリー乗ろうぜ。昨日は俺がいっぱいにしちまったからな」
ヴィットーリオの提案をルキッラが通訳。
「ヴィットーリオが観覧フェリーはどうかって」
「うん、いいね。悠もいいでしょ?」
「うん……でも私、ちょっと海水浴場行ってみたいな」
「水着買って着る?」
詩織がにんまり笑ってそう言って茶化すと悠は「ふふっ」と笑ってうなずいた。
「うん」
「え?」
冗談のつもりだった詩織は笑顔のまま固まった。
「詩織も一緒に泳ごうよ。マサキ達も一緒にどう?」
詩織は慌てて手を横に振る。
「私は無理だよ。泳げないもん」
「じゃあマサキ達は?」
お客さんが泳ぎたいと言っているし、ルキッラには無理。それに、ビーチで遊ぶのは嫌いじゃない。マサキはすぐに「いいね」と返事をした。
「ビーチボール取ってくるよ」
マサキは鍵を取り出しながらヴィットーリオにもたずねた。
「ヴィットーリオ、悠ちゃん海水浴場で遊ぼうって。お前どうする?」
「俺はパス。海パン取ってくるのめんどくせーし」
*
ビーチへと向かう前に悠の水着を選びに海辺のショップに寄った。
「ねえ詩織、選ぶの手伝って」
「うん、いいけどさ……悠、なんで急に水着なんか着る気になったの?」
「別に、何となくだよ。せっかく旅行に来たんだし、初めてのことやってみたいなって」
「そう。じゃあさ、メッチャ露出度高い刺激的なのにしようよ」
「それは嫌。ほどほどにして」
今日は風も吹いていないし、雲一つない快晴。海水浴日和とあって、ビーチは人でごった返していた。
深緑のエスニックな柄のビキニを着た悠とアロハな花柄の海パンをはいたマサキが、海でビーチボールを打ち合って遊んでいる。
残りの三人は少し離れた石段からそれを眺めていた。
「悠さ、やっぱりスタイルいいよね」
詩織がルキッラに話しかけた。
「うん。そうだね。羨ましいな」
「でもさ、ちょっと腕は太いね。足は……まあ、健康的な太さ」
「うーん、そうかも」
ルキッラと詩織は顔を見合わせて笑った。
「悠ってさ、昔ボクシングやってたらしいんだよ。体鍛えてたからさ、それでかも」
「そうなんだ。体が強いのも、羨ましいな」
「なあルキッラ」
ヴィットーリオに呼ばれてルキッラは「ん?」と顔を向ける。ヴィットーリオは詩織を指さしていた。
「その人、イタリア語分かる?」
「ううん、分からないよ」
「じゃあ話してもいいな。なあ、あの二人、なんかいい感じじゃね? 向こうも料理人で、話も合うみてーだし。おれ日本語分かんねーけど、意気投合って感じじゃん」
「うん……。まあ、お客さんだから、楽しんでくれるようにってマサキも」
「マサキのやつ、日本で修行してみたいって前に言ってなかった? あの人に日本に連れてかれちまうかもよ?」
「いや、それはないって」
「なんで分かんだよ。本人に聞いた?」
「聞いてはないけど……」
「俺は全然あると思う。マサキがうちの宿辞めて日本に行っちまったら、次のアテあんの?」
ルキッラは黙ってしまった。次のアテなどない。どこの誰に何を頼ったらいいのか全く分からない。そもそも正規の従業員が車いすの女性だけなんてところで、コックだけでなくあれこれ仕事を全部こなしてくれる人なんて、国中探したっていないかもしれない。
ルキッラは黙って車いすを百八十度回転させ、動き始めた。
「あれ、おいルキッラ、どこ行くんだよ」
「疲れちゃった。先に宿に帰ってるから」
潮時なんだろうか。前から、マサキをここに縛り付けてしまっている、という意識はルキッラの中にあった。親戚も、さっさと宿をたたんで、階段だらけで暮らしにくい街より、自分たちの街に来いと何度も連絡をよこしてきていた。昨晩のマサキの言葉「出来る事なんかないだろ」イライラしていたとはいえ、これが現実なんだ。実際に昨日も今朝も、邪魔になる事を恐れて配膳もせず、マサキと、こともあろうにお客の悠や詩織に全部やらせてしまった。
こうしてマサキにコックをさせて宿を続けているのは、自分のわがままなのかもしれない。
残りの四人が宿に帰ってきた。まず詩織が、興奮状態でルキッラの元へ走ってきた。
「ただいまー。ルキッラ、悠すごかったよ。モテモテ。ちょっとマサキが離れるとさ、何人も男の人がナンパに来るんだよ」
後ろから悠達もついてくる。
「詩織、いい加減に落ち着きな。ナンパとは限らないよ。私向こうが何言ってるのか分からなかったし」
「いや。悠ちゃん、あれはナンパだと思うよ。俺は離れてたから話は聞こえなかったけど、絶対そう」
マサキは荷物を洗濯機のある部屋へと運び込む。
「うーん、じゃあそうなのかな。ねえ詩織、私お腹すいちゃったよ。お昼食べに行こう」
洗濯機の前からマサキがこっちに声を上げた。
「だったら俺がいいお店教えるよ。俺も腹減ったから一緒に行こう。ルキッラ、どうする?」
「あ、私はここにいる。お昼は適当に食べるから、ヴィットーリオも連れてみんなで行ってきたら?」
四人ともすぐに仕度を済ませ、昼食を食べに出て行った。ルキッラはみんなを見送ると、自分の部屋に行き、便箋を引っ張り出した。
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