マキ、貴女は知っているか

王生らてぃ

「ちょっと――貴女」

 彼女はまるで、うなじの辺りに強い磁力でも浴びたように、がばと跳ね起きた。その顔には、綺麗な新円の瞳がふたつ、こちらを射抜いていた。

「なあに?」

「もう放課後だよ。クラスのみんなは、とっくに帰ってしまった」

「あ、そう。困ったな、ついうっかり眠っちゃった。突然なんだよね――それで?」

「は、それで、とは」

「私が放課後まで寝てたことが、俊也としやくんと、どう、関係があるの」

「僕は週番なので、教室を施錠しないといけない。貴女が帰らないと、僕も帰れない」

「あ、そう」

 何事もなかったかのように彼女は机の中から、教科書やらノートやらを引っ張り出した。赤いノートには丁寧な字で「数学Ⅰ」。緑色のノートに「KOKUGO」。水色に銀縁のノートに、縦書きの「化学」。机の一番奥から、ぼろぼろの革のカバーに覆われた、文庫本が出てきた。

「なに、じろじろ見てるの?」まきが僕をじろじろ見た。「知っている? 俊也くん――キミは、友だちの家に行ったとする。部屋にはいろいろなものがあるよね、きっと。そこに本棚があったとき、キミはどうするかな」

「見るよ、そりゃあ」

「ほうら、やっぱりね。キミはそういう人だって、わたしは知っているよ。本棚って言うのは、その人の頭のなかの見本市なの。それをじろじろ見るなんて、俊也くんはいけずな人だ」

 手際よく鞄のなかにそれらをしまい込むと、彼女はそそくさと立ち上がって教室を後にした。

「俊也くん。週番、お疲れ様」

 僕はそれからすぐに教室を施錠して、職員室に向かった。白い廊下は西向きの窓が据え付けてあって、真っ赤な夕陽が差し込んでいた。僕の影が、教室の扉にかかって、真っ黒に刻み付けられていた――そこに、彼女の影はなかった。



 小村こむらまきは僕の隣の席に座っている。僕の席は、窓側のうしろから二番目。彼女は僕の右隣の席で、退屈そうに授業を聞いている。いつも試験の成績では、上位に名を連ねていた。

 昼休みに入るなり、彼女はさっさと、手早く昼食を済ませる。コンビニの菓子パンがふたつと、缶コーヒーを一本。まるで、食べている時間がもったいないという風に。

 そして、彼女はいつも、必死に読書をしている。視線に熱量があったなら、彼女の本はとっくに炭だ。いつも同じブックカバーをかけているから、表紙も見えない。毎日本を変えているのかもしれないし、もしかしたら毎日、飽きもしないで同じ本を読んでいるのかもしれなかった。

黒崎くろさきって、小村のこと好きなの?」

 時どき、馬鹿な――知能指数が劣るというわけではない、僕が気軽に付き合えるという意味で――男子が、こう聞いてくることがある。

「どうしてそう思うんだ?」

「だって、お前はいつも小村のほうをじっと見てるじゃないか」

「ああ……だって変なんだよ、あいつは」

「変だと思うよ。俺も」

「やってること、ひとつひとつに、全力投球なんだ。ただ立ち上がったり、ノートを取ったり、暇潰しにペン回ししてたりする姿の、どれもこれもが一生懸命な感じがして……つい、見ちゃうんだよなあ」

「それって、好きってことなんじゃねえの?」

「どうなんだろう」十七年間生きてきて、生まれてこの方、恋なんてしたことがない。「わかんないよ、そんなこと」

「お前、モテるんだから、もっといい子がいるだろ。あんな地味な変人よりも」

 中学時代は、バスケ部だった。入学したときに、集会の列の一番前だった僕は、その三年で四十センチ以上も背が伸びた。十何年ぶりかの、全国大会出場とかいう快挙にも立ちあった。僕はただ、コートの中を走り回って、何本かシュートを決めて、たまにブロックもしてただけだ。

 何度か、女子に告白もされた。けど、皆が示し合わせたように練習の後に呼び出してくるもんだから、僕は疲労困憊でほとんどなにも聞こえなかった。だから、漫画のまねをして、

「今はバスケに集中したいんだ」

 本当は君に集中できなかっただけなんだけど、そういうと大概の女の子は諦めていって、背番号がひとつ上のやつと付き合いだしたりした。

 中学でバスケはやめた。足に怪我をして、それは軽いやつだったら何か月かしたらプレーに復帰できたけど、なんとなく、以前のようにプレーできなくなったと思ったから。それで高校にあがったきり、部活も何もない、退屈な日々が始まった。

 スポーツはやめた。僕は身長が百八十八センチもあるから、体育の時間と、それから先生の雑用でたまに駆り出されるくらいだった。そうやって周りに頼られるのは、別に悪い気分じゃないけれど――どこかに虚無感があった。

 蒔はいつもひとりだった。

 僕の隣の席で、いつもひとりで座っていた。でも、いつも何かしていた。読書もそう。ノートへの書き込みもそう。原稿用紙に、なにか、物語めいたことを書き込んでいたのもそうだ。

「変わってるよね」彼女が窓の方を見ながら言った。机の上には、革のブックカバーに覆われた文庫本がこれ見よがしに、ひっそりと置かれ、「やっぱり、変わってる。さっきから思ってたけど」

「今日の天気の話か?」

「違う――俊也くんって変わってるよね、そう言ったの」

「そうかな? そんなに変かな」

「だって、なんかひとりでいるじゃない。いつも」

「そんなことないよ。僕だって、クラスメートと馬鹿話したり、一緒に飯食ったりしてるじゃないか」

「知ってるよ。隣の席だもん、見たり聞いたりしてたよ」

 彼女の新円の瞳が、まっすくこちらを見ていた。よく見ると、茶色くて、ふちが少し紫色がかっていた。

「俊也くんは何もしてない。友だちと話し終わったり、ご飯を食べ終わったり、授業が終わったりした時、いつもぼうっとして、何も見ていない。窓の外の景色をぼんやり見ているようで、実は窓ガラスに映った自分の顔をぼんやり見てる、けれどそれすらちゃんと見ていないような、そういう顔をしているもの」

 図星をつかれた気がして、つい、黙ってしまうと、彼女は大きく瞬きをした。そして、やっぱりね、というふうな顔をした。

 それは、誰もが持つ子どもの頃のトラウマを刺激する顔だった。やっぱり俊也くんがやったんでしょ。

 花瓶を割ったんでしょ。

「貴女だって、」苦し紛れの反撃だった。彼女は、ひとつだってたじろがなかった。僕も退かなかった。「貴女だって、いつもひとりじゃないか」

「まあね。でも俊也くんとは違うわ。私は、ちゃんとひとりだから」

「ちゃんと?」

「知ってるの、私が陰気で、変人で、地味なキャラだってこと。友だちとカラオケに行ってアイドルの曲を歌ったり、一緒になってトイレでクラスメートの悪口を言ったり、そういうキャラじゃないってこと。だから、私はちゃんとひとりでいるの」

「それで、いつも本を読んだり、なにか書いたりしてるのか」

「そう。これは、私にとってはひとりじゃないと出来ないこと。そして、ひとりだともっと楽しいこと」

 暗に、僕は、邪魔をするな、と言われているのだろうと思って肩をすくめると、蒔はしょんぼりしたような顔で私を見た。

 もう、やっぱり俊也くんじゃなかったんじゃない。ちゃんと最初から言いなさいよ。

 そういう顔だった。

 無性に腹が立った。

「先に話しかけてきたのは、貴女のほうじゃないか」

「え? そうだけど?」

 大きなため息が出た。僕は今度こそ、窓の向こう側にちょうど伸び始めていた飛行機雲を目で追いながら、窓ガラスに映った自分の顔を恨めしく思った。



 五時間目の授業は退屈だった。六時間目の授業はほとんど聞いていなかった。七時間目のことは、もう覚えていない。数学の授業なんて――いや、きっと先生の教え方の方が悪いのだ。教科書を予習しているときの数学の応用問題は、もっと面白いと僕は思っていた。

 出来るだけ隣の席の蒔のことを、見ないように、気にしないように黒板を見ていた。彼女はクラスの女子の中でも、わりと、背の小さい方だ。けれど小さすぎるということもない、そんなくらいの背格好だった。

 髪の毛は黒かった。たぶん、染めたこともないのだろう。

 目が大きかった。きょろきょろして、瞳が綺麗な新円だった。手持無沙汰にノートの隅に、なにか落書きを残していた。パラパラ漫画でも、描いているのだろうか。

 それらの一切を僕は無視し続けた。気にしないように、見ないように。

「ねえ――寝てる?」

 ふと、目の前に蒔の顔があった。空が赤く染まっていた。手元には、数学の公式がきっちり書きこまれたノートと、芯が出しっぱなしのシャーペンが転がっている。ぼうっとしているあいだに、昼休みは終わり、放課後になってしまったようだった。

「やっぱり、寝てたでしょ」

「寝てないよ。このノートは誰が取ったっていうんだ」

「ふうん」

「なんだよ、ふうん、って」

「別に? なにもないよ」

 彼女は自分の席に戻った。その机の上には、あの革のブックカバーが置いてあった。

「いつも、何を読んでいるんだ?」

「えっ? それ、聞いたらうれしい? 俊也くんは」

「別に……ただ、気になるだけだよ」

「じゃあ、教えてあげないね。気になるだけだったら」

「貴女は、いつもそうやって、煙に巻くような言い方が得意なようだ」

 返事がないので、見ると、彼女は机に突っ伏して眠っていた。

 いつか、発作だと、聞いたことがあった。教師も、たまの授業中の彼女の居眠りを黙認しているのは、そういうことだと――ある日ある時、突発的に彼女は寝る。そして、突然のように起きる。眠っていることは覚えていない、と。

 今日の週番は彼女だ。僕は荷物をまとめると、窓の施錠を確認し、カーテンを開いた。グラウンドの方から、ソフトボール部の威勢のいい声が響いてくる。空が煌々と焼けていた。明日もこれが見られるようだ。

 けれど、蒔は目覚めなかった。まるで死んだように、そこにじっと、在った。

 ふと――突っ伏した彼女の頭をかすめるように置かれた、革の文庫本が目に入った。擦り切れて、ぼろぼろでも、レトロな気品を感じる赤茶色のブックカバー。金色の刺繍めいたものは、もう薄汚れている。真ん中あたりのページから、栞の金色の紐がぶら下がっていた。黴臭い、古本の匂いがした。厚さからしても百六十ページくらい……

 手にとって、広げたい。中身を確かめたい。そういう衝動が、僕の裡に湧き上がってきた。その時、こくりともしない、眠ったままの蒔の姿が目に入った。制服の白い背中が、眩しく照り返していた。

「週番、お疲れ様」

 ドアに触れると、季節外れの静電気が指先に走った。



 次の日、蒔は学校を休んだ。ということは、昨日あれから起きて、きちんと家に帰ったのだ。授業中に眠ることはあっても、実は彼女が学校を休むということは、とても珍しいことだった。

 クラス中では、ああ、病気がちだったもんね、みたいな、実は根も葉もないうわさが飛び交っていた。彼女は病気ではない。ただ、いつどこでも眠ってしまうだけ。

 その日の授業にはなぜか、すっと集中できた。ちょうどテストも近かった。古文の小テストがあった。すらすらと、今までにないような早さで解けた。

 何が違うんだ。

 隣の席から、蒔が消えただけで、僕の風景はこんなにも変わった。昼休み、いそいそと隣の席のせわしなさが無い。落ち着いてゆっくり昼食を摂ろうとした時、

「よう、ここ、いいよな」

 クラスメートの馬鹿な男子が、どっかりと不躾に蒔の席に座った。僕はその時、不覚にもパズルのピースが最後のひとつ、嵌まったような奇妙な快感をおぼえた。

「珍しいよな、小村が休むって」

「ああ」

「でも、いつも授業中とか、居眠りしてたもんな。なんかの病気なのかな?」

「どうなんだろう」

「お前、何か知らないのかよ」

「知らないよ」

 そいつは、お前まだ自転車に補助輪つけてるの、十七歳にもなって、というような顔で僕を見た。

「お前たち、付き合ってるんじゃないの?」

「違う」

「なんだ、そうなのか」

「誰だ。そんな、根も葉もないうわさを流しているのは」

「根も葉もあるんだよ。お前たちは席も隣同士だし、いつも仲良さそうに会話してるじゃないか」

 あきれ果てた。たったそれだけの根拠で、どうしてこう、付き合ってるとか、そうじゃないとか、そういうことになるのだろう。

 だからお前たちは馬鹿なのだ。お前は馬鹿男子なのだ。

「僕はともかく、彼女に失礼だろう。そんな噂は信じるな」

 そいつは肩をすくめて、いつも蒔が突っ伏して眠っている机の上で弁当箱を広げた。お前の昼飯はどうした? と目で訴えられたので、顎を引いた。もう食った、あるいは、別にいい。

「そういや、お前、三年の水田先輩って知ってるか?」

「いや」

「バスケ部の主将でさ、県代表とかに選ばれてる結構すごい人なんだけど」

「はあ」そういえば名前を聞いたことが、あるようなないような。「その人がどうしたって? お前、バスケ部だったっけ」

「いや、その人は俺の中学の先輩でさ、部活とは全然関係ないけど仲良くて。一緒にゲームとかしてたのさ、で、今、バスケ部に部員が足りないとかなんとかで、いい知り合いがいたら紹介してほしいってさ」

「……まさか、僕に助っ人に行けっていうのか?」

「ああ、まあ、無理にとは言わないけどさ、黒崎俊也って名前を出したら、すごい食いつきで。俺はただバスケ経験者ってことしか知らなかったけど、結構有名人なのな、黒崎って」

 自分の名前がそんなところでひとり歩きしていたとは、まったく意図しないことであまりいい気分はしなかった。

「な、それで、もし気が向いたら、バスケ部に顔でも出してやってくれよ」

 そいつは弁当を食べ終わると、そそくさと自分の席にもどって鞄の中にそれをしまい、教室を出ていった。

 僕はまた、ひとりになった。



「黒崎、プリント届けてくれるか?」

 放課後、担任の先生にそう呼び止められた。

「女子の方がいいんじゃないですか?」

「お前、家が近いだろ?」

 そう言われて初めて、彼女の家を知ったのだ。

 机の中には、何枚かの白い新しいプリントと、――あの革のブックカバーが入っていた。栞が抜けていた。手に取るとそこには、黒と緑で作られた、しっかりした質感の紙で作られた栞があった。それらを、出来るだけ丁寧に、鞄の中にしまうと、僕は体育館に向かった。顔を出すだけのつもりだったのだ。

 部活に入るつもりなんてなかったから、体験入部も、見学もしていなかった。けれど、僕の名前はどうやらひとり歩きしているらしいから、きっと声はかけられたのだろう、そして僕は適当な言葉で受け流してきたに違いない。中学のときと同じように。

 体育館には体育の授業の時しか、ここ最近は入っていない。だから制服のままで入るのは少しだけ緊張した。威勢のいい掛け声と、ボールが床を叩く音。鈍い革のはじける感触、扉からむっと咽るような熱気。

 僕が一歩、足を踏み入れた瞬間に、空気がざわっと止まるのを感じた。みんなが、僕を見ていた。とても嫌な気分になった。

「練習やめ!」威勢のいい声が中心から響いた。「五時まで休憩! そのあとオフェンス練!」

 はい! 全員が息の合っているようで、微妙にあっていない、勢いと声量だけでごまかすような返事をして、散り散りに休憩に入っていく。ひとり、僕のほうに歩み寄ってきた。髪は短く、背も高い。何より鍛えられた筋肉が、鋼のように蛍光灯を照り返していた。

「黒崎俊也くん、だよな? 東中の」

「はい、……あなたが水田さんですか?」

「ああ、よろしく」汗ばんだ手をずいと不躾に差し出してくる。その不躾さが、ちょっと心地よかった。僕もちょっと不躾なくらいに、握り返した。「光栄だな。あの黒崎に会えるなんて」

「僕はそんなに、有名人でしょうか」

「君のプレーはあの年の県大会でも、ひときわ輝いていたよ! さて、多分、梨木から聞いたんだろ。早速で悪いんだけど、今、うちの部は若干、部員が不足していてね。それで、今度の夏の大会に向けて、選手層を強化したいと感じていたところなんだ」

「助っ人、ですか」

「いやいや、助っ人なんてものじゃない。ぜひ、スタメンで出場してほしいところだ」

 僕はああ、やっぱりな、という気分になった。

 体育館は熱気が篭って、蒸し暑い。汗のにおいがする。マネージャーや、実力のない一年生と思しき子たちが、窓や扉を開けたり、送風機を回して空気を循環させるのを見ていた。休憩している選手たちの目はぎらぎらと、獰猛に輝いていた。

 なんだろう。懐かしいような、戻ってきてしまった、というような、この気持ちは。

 水田さんは僕に、傍らに転がっていたボールをそっと、遠慮がちに手渡してきた。僕も特に抵抗なくそれを受け取り、二年ぶりくらいのその感触に、手の皮膚が貼り付くような思いがした。

「あの、少し考えさせてもらえませんか」僕は自然に言っていた。「お言葉は嬉しいのですが、僕は一度、足の怪我で引退しています――そんなに重いものじゃなかったですが。それに、もう数年近く鍛えていません。夏の大会までに、身体を戻せるか、自信がない。なので、少し待ってもらえないでしょうか?」

「ああ、構わない。こっちも急な申し出だからね」

「ありがとうございます」

 最後にボールを返そうとすると、水田さんは頑なに受け取ろうとしない。

 代わりに、右手の親指でゴールリングを指し示した。

「できるかな」

 スリーポイント・ラインにボールを抱えて立ち、ゴールを見据えた。休憩中の選手たち、腕組みした水田さん、マネージャーや一年生の新人たち、体育館じゅうの視線が、それとなく僕に向いているのを感じた。

 緊張しない。

 むしろ、懐かしい感覚だった。

 考えないようにした。ボールを頭の上に掲げ、そっと爪先で地面を蹴って放ったボールは、放物線を描いてゴールリングに吸い込まれた。

 おおー、という歓声。フリースローくらい、なんてことないのに。

「また、いつでも来てくれよ」

「はい、ありがとうございます」

 また、水田さんと握手をして、僕は体育館を後にした。奇妙な充足感が僕を満たしていた。どうして僕は笑っているんだろう?

 たったあれだけの時間、わずかに十分くらいだったはずだが、僕の身体はじっとりと汗ばんでいた。制服の上着を脱いで、鞄に突っ込もうとしてやめた。

 上着を肩に引っ掛けると、僕は下駄箱から靴を取り出して、蒔の家に向かった。こんなことなら、スニーカーで来るんだったと、ちょっと後悔した。



 本当に僕の家の近くだ。ほとんど隣と言っていいかもしれなかった。

 黒ずんだ木の壁に、コンクリートの壁。緑色の三角屋根の家に、表札にはいかめしい毛筆体で小村と、そう書かれていた。

 チャイムを鳴らしても音がしない。もう一度、ゆっくりとチャイムを押し込んだ。それでも音はしない。しばらくあって返事もなく扉が開いた。

「あら、俊也くん」蒔は制服を着ていた。そしてあの時と同じ、新円の瞳をふたつ、僕に向けた。「どうしたの? どうやって私の家に?」

「プリントだよ。貴女の分の」

「ああ、プリント」

「それと、これ」鞄から革のブックカバーを取り出し、「中身、見てないから。それと、栞が抜けてた。僕が抜いたんじゃないよ」

「まあ、あがってよ」

 彼女以外には誰もいないらしかった。古い木の匂いのする一軒家だった。階段をのぼって二階の小さな部屋が、彼女にあてがわれた場所だった。仏壇の匂いがする、と思った。蒔の部屋は畳敷きの八畳間で、卓袱台と座布団、それに本棚のほかには何もなかった。

「わざわざ、ごめんね」いや、部屋の隅に、畳まれた布団があった。「さっき起きたの。昨日、親が学校まで来てくれたみたいで」

「あれから、ずっと寝てたっていうのか?」

「たぶん」

「それで、その、ご両親はどこに?」

「仕事だよ。もちろん」

「ああ、そうか。仕事か。きょうだいは?」

「きょうだい? いない……と思うよ。私の妄想じゃなければね」

 ちら、と蒔の本棚が目に入った。けれど、彼女の言葉を思い出して、出来るだけ凝視しないように、車酔いを防ぐために遠くの空を見るように、目を滑らせていた。

「ずいぶん、たくさん本があるね――」それ以上の情報は得られない。「いつも読んでるのは、こいつらかい?」

「まあね。これ、ぜんぶ、おじいちゃんの形見なんだって」

「ああ」それで、仏壇の匂いがするわけだ。「線香の匂いがすると思ってた」

「煙草の匂いだよ。おじいちゃん、煙草が大好きで、それで死んだって聞いた。咽頭がん」

「へえ」

「顔も見たことない。私が二歳の時に死んだって言ってた。写真が嫌いだったみたいで、残ってもないの。私も見ないようにしてたし」

 唐突に目のやり場に困ってしまった。この部屋は、どこもかしこも本棚ばかりに囲まれていて、それを見ないようにしてしまうと、うつむいているしかないことに気付いた。

「ねえ、聞いていいかな?」

 ずいっと、彼女は僕と鼻先を突き合わせるようにして、

「なんだよ」

「どうしてさ、私のことを『貴女』って呼ぶ?」

「不思議なことじゃあ、ないだろう。貴女とは、丁寧な二人称なんだから」

「知らないと思ってるんでしょ。俊也くん、クラスメートはみんな名字で呼ぶのに、私だけ『貴女』。名前も苗字も、呼んでくれたことがない」

 どうして?

「どうしてだろうね。一度呼び始めた時、たまたま、そうなったんだ。変な箸の持ち方って、治らないだろ、なかなか」

「なあに、それ」

「貴女の名前が小村蒔だってことは知っている。小さな村、草冠に時間の時。種を蒔くという字だろ。でも、小村でも蒔でも、小村さんでも、僕の中でぴんと来なかったんじゃないかな。初めて、貴女に話しかけた時に」

「それで、貴女って呼ぶのね、私のことだけ」

「怒ってるのか?」

「ううん、怒ってないよ。いや、怒ってるのかもしれないけど、怒ってないっていうことにして」

「分かった。これからは別の呼び方にするよ。小村? それとも蒔、と呼べばいいかな」

「いや、違うの。そうじゃないの」

 じゃあ、なんなんだよ。

 蒔は僕から離れようとしない。十五センチくらい――それが僕と蒔との間の距離だった。じっと、吸い込まれそうな瞳で――ああ、よく見ると、

「貴女の瞳はずっと、新円だと思っていた。けど、よく見たらちょっぴり縦に潰れている――それに茶色じゃなくて、少し緑色が混じっているんだね」

「俊也くんの目は真っ黒よ」

「そうだと思う」

「なんにも見えてないんだから。それに、見ようともしていない。いつも、どこもなにも見ていない、そういう目をしてる。今もそう、私は俊也くんの目を見ているけれど、君は私の目を見ていない。もっと別のものを見ているのかもしれない。それか、やっぱり何も見ていないか」

 彼女は右手に持ったものを、僕と彼女が向き合っているあいだに挿し込んだ。それは、たまたま引き抜かれていた栞だった。

「俊也くん、読書は好き? 良かったら、これ、あげるから。使ってよ」

「いいよ。僕はもう持ってる」

「だって、私の本からはもう抜けちゃったんだもの。この栞」

 なぜか僕は納得した。それを手に取ると、ようやく彼女は離れた。座布団の上に腰を据えて、父親の説教でも受けるみたいに――小刻みに震えていた。にぎりこぶしを膝の上に固めて、

「おすすめの本とか、あったら、教えてくれよ」

 僕は彼女が何か言いだそうとするのを感じ取って、先に喋った。

「漫画しか読んだことがない。それも、バスケ部の同期に無理やり押し付けられた、つまらないやつばかりだ。僕でも読めるような奴をひとつ。どうかな、もしよければ、貴女のその本棚の中から」

「もう、帰ったら?」

「まだ」

 蒔――貴女は知っているか。

「僕はずっと、貴女のほうを見ていたんだ。貴女のほうを」

「二十点かな」

 蒔はおもむろに立ち上がり、本棚から一冊手に取って、投げるように僕に手渡した。色褪せた銀色の表紙、それは埃をかぶって黴臭く、ざらざらとしていた。

「それなんかどう? 短くて読みやすいと思う。翻訳ものだけど」

「……、ありがとう」

「私はずっと、君の方を見ていなかったよ。自分のことしか見ていなかった」

 だから、

「『貴女』って呼ばれるの、嫌いじゃなかった。それを、私に向けてくれるのが。だから、これからもそう呼び続けていいよ」

「ん……分かったよ。いつまでに返せばいいかな」

 栞と本を鞄にしまったとき、彼女はそこに倒れていた。初めてだ――初めて、小村蒔の寝顔というものを見たのだ。白い肌に、ぴたりと閉じられた目。小さく浮き沈みする胸、そして風に吹かれる旗のように揺れる、薄い唇。

 ああ――――見てしまった。

 貴女は見せてしまったのだ。僕に、それを。

 今までずっと見せてこなかったそれを、僕に見せてしまったのだ。

 僕は振り返らずに帰った。数分もしないうちに家に辿り着き、すぐに水を煽った。そして、そのまま胃のなかのものと攪拌しあって、何度も吐いた。

 やっぱり僕は駄目だ。

 蒔のことを、貴女なんて、遠回しに呼ぶことしか出来ない。きちんと名前で呼べるようになりたいのだ。

蒔――貴女は知っているか。きっとこれは、僕の……

 鞄の中に入っていた黴臭い本は、ツルゲーネフの『はつ恋』だった。貴女は僕のことを見てくれているのに、僕は貴女のことを、直視することさえ出来ないのだ。

 不意に笑えてきた。僕はおもむろに机に向かい、深呼吸をした。暑くもないのに、汗が流れ出てくる。心臓がどきどきする。古本の褪せた紙の匂いが、僕の体内に広がった。指を引っかけて、一ページ目を開いた。

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