24-6 「三の宮さま……!」
あまりの思いがけなさと恐ろしさとに眩暈さえおぼえながら、朱雀にできることはひたすら相手を無視するというその一つ事ばかりであった。相手が静かに目を伏せて、何事もなかったかのように立ち去るのをただ待つのだ。しかし、柏木右大臣は立ち去るどころか、むしろ朱雀の方に向かって歩み寄ってくるではないか。緩やかな、断固とした歩調で以って。
あと十歩というところまで二人の距離が近づいたとき、朱雀大路に連なる石灯篭が消えた。あと七歩というところまで近づいたとき、月影が薄雲に隠れた。あと五歩というところまで近づいたとき、かちゃりとかすかな音が闇のなかに響いた。あと三歩というところまできたとき、月影は再び明晰な光を取り戻した。
柏木右大臣が目の前に朱雀の姿を認めたとき、高く結い上げられていたはずの長い髪がはらりとほどけて、紅の
右大臣はたとえ髪の先にでも触れようものなら、朱雀は躊躇なく引鉄を引くだろうと確信していた――というよりは確信しようと努めた。それこそが、火の神の
「……宮さまともあろう方に無作法を致しました。お許しください」
「許します」というしるしに、朱雀は小さくこくりと頷いた。髪の端からかすかにのぞく鼻先が揺れるのが見えた。懸命に顔を逸らしながらのその仕草が高貴な方にふさわしからぬいかにも幼い仕草であったのに、右大臣は快い意外の感を抱いた。それでも柏木は口元がほころびかけるのを留めて訴えた。
「お声を聴かせてはいただけないのですか。せめて、許すと」
朱雀は黙り込んでいる。
「畏れながら、わたくしは宮さまにそれほど他人行儀にされる義理はないかと存じますが。義理とはいえわたくしどもは兄と妹なのですから」
紅の髪に覆われた沈黙。
「……銃をおろしていただくわけには参りませんか」
またもや沈黙。
右大臣は無言のうちに
黒馬が怒ったように土を蹴立てるのを鋭い瞳の一刺しで黙らせると、銃を地に放り捨てた右大臣は、両手で朱雀の頬を挟んで額の上より髪を払いのけ、強引に月明りの下にその美貌を曝け出させた。朱雀は意外にも強靭な、しかし、神代の武人の名を賜った右大臣にしてみればか弱い力で、男の手から逃れようとした。が、全ての動作はむなしかった。朱雀のせめてもの抵抗は、目を伏せ決して右大臣と目を合わせぬことであった。憎悪も屈辱も恐怖も決して表さぬことであった。
「三の宮さま……!」
降りかかってくる右大臣のかすれた声がなぜだか遠く、朱雀には聞こえてきた。この頬に、髪に、肩に、
父院のことを思った途端、朱雀の身が震えはじめ、ぐったりと力を失った。それでも朱雀はかろうじて自らの足で我が身を支えていた。男に我が身を預けることは、内親王の誇りが許さなかった。しかし、わずかにもたれかかってきた朱雀の重みに、柏木は憐憫を抱いたようであった。
「ご安心を。無体はいたしません」
「……これが無体以外のなにものだと申すのですか」
憐みをかけられたことへの怒りが、初めて朱雀に口を聞かせた。右大臣の目が喜びと興奮を帯びて刹那に輝いたのを、朱雀は無視して顔をそむけた。
「お離しになって」
「やっとお声を聴かせてくださった……」
「慈悲です」
朱雀は冷ややかに言い放った。
「しかし、私はこれ以上慈悲深くはなれません」
「
右大臣の声が急に低くなった。そこには朱雀を不安にさせかねないものが潜んでいた。冷笑こそがもっともふさわしい言葉であったにも関わらず、あまりにも真剣に吐き出されたがために。深い敬意がにじみでていたにも関わらず、あまりにも嘲笑的であったがために。
朱雀はその時ようやく右大臣の衣に焚き染められた香のにおいに包み込まれていることを認めた。ゆらいだ黒い瞳が頬に影を落としていることを認めた――この人も白虎と同じように私をみるわ、と朱雀はただ思った。すると、突如として、今まで感じたことのない息苦しさのようなものが朱雀の胸を迫り上がってきた。まるで狭い気道を押し広げようとするがごとくに。朱雀は自由になった右手で
その様子をじっと眺めていた右大臣は朱雀の身を腕のなかで優しく据えなおすと、身を屈めて朱雀の右手の甲に、続いて恭しくその手を返して掌の上へ、そしてまた手の甲へと三度
「これが貴女の憤りなのですか」
つい先ほどまで男の唇に翻弄されていた指先が引鉄にかかると、蛍火は熱せられたように燃え上がった。右大臣は間近にその色を見た。鉄の色と、それから珊瑚色の爪のつやめきを。
「……ならば撃ち殺されてもかまわない」
言葉は接吻よりも真摯であった。己の心臓に向けるため、武器に課せられた両手の重みもまた切実であった。しかし、朱雀は鷹揚に首を振った。
「申したはずです、右大臣。もはや慈悲はかけません。立ち去りなさい」
「この闇のなかに貴女を置いて?」
「この闇は私自身が作り出したもの。炎を操る者には闇を作り出すこともまた自由なのですから……貴方が立ち去らないというのなら私が去ります」
呼ばれるなり、少し離れていたところでこわごわと二人の様子をうかがっていた黒馬は、すぐに主人の傍らに駆け寄ってきた。右大臣が馬に乗るのを助けることを皇女は拒まなかった。右大臣は皇女の誇り高い無頓着さを愛した。その無頓着さこそ、彼女が今宵右大臣によって少しも辱められなかったことを示しているからだ。彼女は皇女としての習慣に従ったに過ぎない。皇女の手は蝋のようにしっとりと、柏木の指先に残った。
(ああ、この
「夜も更けてしまったわ。お父様に叱られる……」
別れの言葉にも応えずに、しとやかに手綱を取りながら皇女がつぶやくのが聞こえてきた。薄れかけた月光が黒馬の皮膚に斑を落とすとき、結い上げていたのを急に解き放ったせいでゆるやかに波打っている皇女の髪もまた、その波間に白い影を満たしていた。そこに確かに触れたはずなのだと思うと、右大臣は昂揚と物足りなさとを同時に覚えた。
皇女は去った。残された右大臣は月明りの
終焉まであと
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