第二十五話 夜長

25-1 「髪飾りはどうしたんだ?」

「髪飾りはどうしたんだ?」


 唐突に尋ねられたために、紫蘭は驚いた。決して短からぬこれまでの付き合いのなかで、東宮が紫蘭の髪飾りに触れたことは一度もなかったから。紫蘭は思わず髪を結んでいる紫色の絹紐に触れた。その仕草が妙になまめかしくみえることを紫蘭自身は知らなかったかもしれないが、男らしからぬ仕草であることにはすぐに気づいたとみえて、紫蘭は急いで紐から指を離した。


「それじゃない。前着けてた方の髪飾りだ。水晶のついてる……母親の形見だったんだろう?」

「えぇ」


 母の形見だという話をかつてこの友にしただろうか。酒に酔った拍子かなにかにしたのかもしれない。その時の自分はずいぶんと感傷的になっていたようだ。自分の持ち物のことを語り聞かせるだなんてまるで少女のようではないか……紫蘭はふいに月宮参りの日の京姫との会話を思い出して急に気恥ずかしくなった。頬がかすかに赤らんだのを、紫蘭は灯りの方に顔を向けることでごまかした。


「えぇ。そうでしたが、落として無くしてしまいました」

「一体どこで?」

東雲しののめ川の河原で。蛍の御幸の時に」


 紫蘭はすらすらと嘘をついている自分に、罪悪感と頼もしさとを共に覚えた。しかし、嘘はとうの昔に、それこそ疲れ切って帰ってきた蛍の御幸の夜にすでに考えついていたものであった。東宮には栃野というおうなが仕えているが、紫蘭にもやはり同じように長いこと仕えている媼が一人いて、紫蘭の髪飾りがない理由をその夜のうちに問い詰めたのだ。河原で落としたというのは、最も手近で説得力のある嘘であった。


 「残念だったな」と酒を干しながらつぶやかれる東宮の言葉にはまんざら心がこもっていなくもなかった。


「母上の形見は他に持っていないのか?」

「いえ、なにも。でも構いません。母のことはなにも覚えていませんから」

「なにも覚えていないからこそ形見が大切なんじゃないのか?」

「いえ、なにも覚えていないからこそ必要ありません……愛された記憶もない母親など、見知らぬ人と同じですから」


 東宮が何か言いかけてやめられたのは、いくら親しいとはいえ安易に他人のものの感じ方に口出ししてはならぬと思いとどまったためであろう。東宮も紫蘭もそれぞれ父上と母上とを亡くしてはいたけれど、自分を遺して世を去った人への思いにあまり重なり合うところがないことは、かねてより知っていたことだ。それに、東宮は紫蘭の孤高を尊敬されていた。ご自分が恵まれている分だけ。


 紫蘭の君は友の沈黙のなかに横笛をとった。それはびんと呼ばれる、美しい竹の笛であった。紫蘭は幼いころに大后さまに厳しく仕込まれたこともあって大方の楽器は弾きおおせたが、とりわけこの斌の演奏が世間では高く評価されており、今宵は稽古がてら音色を聞かせろというのが東宮のご所望のところであったので、紫蘭はその願いに(そして杯とに)応えようとしたのである。紫蘭は斌の演奏が決して嫌いではなかったが、内裏でなにかと催しがあるたびに引っぱり出されるのには辟易するところもあり、ひと月後に差し迫った管弦の宴については殊に気が進まなかった。というのも、東宮がすでに参加を辞退されており、それも恐らく三条家を憚ってのことであると思うと、何か苦々しいものが胸に残ったからである。東宮ご本人はつまらない行事に出席せずに済んで却って喜んでいらっしゃるようだったが。


 指先で触れるなり、漆塗りの楽器は月影の色の艶を帯びた。紫蘭はいつでも指先でこの楽器のある種冷然とした美しさを感じ、唇でほのかに甘い竹のにおいと温もりとに触れた。もし紫蘭の想像力が、自身の夢想さえをも制しようとする厳しい心の動きからほんの少しでも自由になれたのならば、紫蘭はそこに少女の頬にくちづけるときの感触を思い起こしたかもしれない。可憐で、清らかで、まだいとけない少女の頬。


 どの曲を弾こうか、と少し考えて、紫蘭は最初に頭に浮かんだ旋律を辿っていく。斌は神事にも用いられる太い厳かな音色を特徴に持つが、奏者の技量次第では繊細で優美な音色を作り出すこともできる。一般に斌が難しいといわれるのは、扱いそのものが難しいというよりも技術のない者が奏でると重苦しいばかりのつまらない演奏になるためで、紫蘭が今奏でるような物静かな曲は余計に難しい。それはこの世のはじまりにおいて、遠い星々を、世を去っていった神々のその最後の姿を見上げて歔欷するあまつ乙女の悲しみを表した音楽であった。


(なぜこんな曲を選んだのだろう。もっと面白い曲がいくらでもあるというのに。男二人でこんな曲を聴いたところで酔いがさめるばかりだ)


 紫蘭はすぐに反省を始めたが、意外にも東宮がしみじみと聴き入っていらっしゃるご様子なのをみると途中でやめることもできかねた。


(ああ、そういえば宴で何を弾くかも決めていなかった。所詮僕の演奏など余興に過ぎないのだから何でも構わないのだろうが。今度の宴の主役は女たちだ。枳殻からたちの姉妹とか呼ばれている……しかし、右大臣はやはり大した人だ。世間では「生まれたばかりの娘がもう入内とは恐れ入った」などと皮肉を言ってはいるが、それだけのことをためらわずにやってのけるのだから並大抵ではない)


 紫蘭は無心に弾き続ける。


(噂によればあの枳殻の姉妹とやらを右大臣の養女にするべく取り決めたのは大后さまなのだとか。女とはいえ、あの方だけはどうしたって侮れない。あの方は女らしからぬ果断さを持っていらっしゃる。三条家のためならば、あの方はどんな行為も躊躇しないだろう。たとえ……)


 紫蘭は東宮が自分を見ていらっしゃらないのをよいことに、そっとそのお姿を盗み見て、それとわからぬほどかすかに眉をひそめた。三条家の権勢が日ごと強まっていくのは構わない。三条家の邸で育てられた紫蘭にとっては決して不利に働かないだろう。その姓を賜ることを許されなかったとはいえ。しかし、九条家の血を引く東宮はどうなるであろうか。今でさえ公正な扱いを受けていらっしゃるとは言い難いのに、このまま枳殻の姉妹が入内し、どちらかが皇子を産めば、その地位を追われることも十分に有り得る。


(大后さまは、たとえ桐蔭宮とういんのみやさまを殺さなくてはならないとしても、少しもためらわないだろう)


 紫蘭は体が冷えゆくような心地がした。愛情深いゆえに憎悪も深い大后さま――中宮の座を奪われたその女人は、かつて九条家によって与えられた屈辱を決して忘れない。九条家の血を引く東宮がどんな目に遭わされるか、想像するのもためらわれる。かのお方は愛する紫蘭にさえも非情であった。皇位への道を紫蘭から永遠に取り上げられたのだから。



 ……あの時、僕はただ三条のお母様の釧を見せていただきたかっただけなのだ。翡翠かわせみが逃げてしまったのが悲しくて。兄上が行ってしまったのがさびしくて。お母様に慰めていただこうと思ったのだ。愚かな紫蘭。


 父上がいらしていることを女房たちは誰も教えてくれなかった。御簾の内にすべり込んだ時、声が聞こえてきた。


「紫蘭の君のことでご相談がありますの。あの子を臣下に降ろされてはいかがでしょうか?」


 僕が母だと慕っていたお方の声であった。でも、知らない声だった…………



 弾き終えて紫蘭が笛を置いたあとも、しばらく東宮は黙ったきりでいらっしゃった。杯の浅い底を見透かしてじっと物思いに沈んでいらっしゃるようであった。こんな東宮のお姿を見るのは紫蘭にとっても初めてだった。自分の演奏はそれほどにこのお方の心を動かしたのだろうか。


「……孤独だな」


 紫蘭は「えっ」と聞き返した。


「天つ乙女さまに同情しただけだ。相当つらいぜ。この世に一人きりっていうのは。そりゃ涙も川になるな」


 にやりと笑われる東宮を見て、ああ、ちがう、と紫蘭は思った。そして自惚れを

恥じた。この方は天つ乙女のことなど考えていなかった。紫蘭の演奏になど心を奪われていなかった。桐蔭宮さまは今きっとご自分の孤独について考えていらっしゃったのだ。三条家に疎まれ、世の人々もおそばから次第に遠ざかりつつある現在いま、孤独はどれほどしみじみと、切なく心に感ぜられることだろう。紫蘭は憐憫と、この友を憐れむことへの抵抗感との間に苦しみを覚えた。


「貴方は神話になど興味がないと思っておりました」


 苦々しげな口調で訴えさせるのは抵抗感の方だ。「どうか僕に貴方を憐れませないでください」と。


「ああ、もちろんだ」


 快活に答えられる東宮を見て後悔をする。本当に苦しいのはこの方だというのに、一番の友であるはずの自分がこの方に無理をさせている。だが、自分にできることなどない。時々酒の力を借りながら、こうして気を紛らわしてさしあげることより他には。


「……なにか他の曲を弾きましょうか?」

「いや、いい。同じ曲で」

「しかし、憂鬱になりませんか?」

「いや、いい曲だ。紫蘭、どうせなら宴で弾くのもこの曲にしたらどうだ?」

「場がしらけてしまいますよ……」


 宴の場にこの方はいない。男であれば臣下であっても名の知れ渡った方々は悉く出席し、女たちまでもが、そう、京姫までもが座に連なるというのに。


 京姫――


 石垣の小さな穴からじっとこちらを見つめていた翡翠色の瞳が思い出される。「紫蘭さん」と去り行こうとする自分を呼び止めた哀切な声もまた。幼い瞳と幼い声だった。それゆえ、紫蘭は彼女に優しく言葉を返す気にもなった。だが、その幼い彼女の機転のおかげで紫蘭は今、何一つ咎められずにここにいられるのだ。代償はまことに小さなものであった。髪飾りたったひとつ――京姫は髪飾りを返すつもりだと言ってはいたけれど、紫蘭はとうに諦めていた――それだけで、命も身分も救われたのだ。あとは京姫が不用意にそれを人目に晒さないことだけを祈るばかりである。もし帝がご覧になったらきっとすぐに誰のものか気づいてしまわれるだろうから。


(どうか懐にしまっていてくれ。僕への恋心とともに。そしていつしか、誰も知らぬところへと打ち棄ててしまえばいい)


 そう願う紫蘭はまさか思いもしない。今、風の月の夜のまさにこの瞬間、京姫の小さな掌に水晶の髪飾りが握りしめられていることなど。




 あとひと月、あとひと月だけ待てば、きっと……

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