24-5 「せめて今だけは私を見て」

 どうしよう。どうしよう。どうしよう。


 どうしても会いたい。どうしても言葉を交わしたい。あともう一度だけでも。

 この想いを伝えたい。叶わなくてもいい。それでも知っていてほしいの。私がどんなにあなたのことが好きなのか。


 ああ、そのためならなんだってしてしまいそう――!



 病とはいってもたかだか夏風邪ではあるけれど、朱雀の宮は病身の父を置いていかねばならぬことに相当の抵抗を示した。それでもやはりいかねばならぬだとほかならぬ院に諭されて、朱雀は渋々、夜の街路へと赴く支度をした。また怪しきものどもが現れたとの噂が朱雀の元に届いたのである。


 本来ならば玄武を連れて少しでも実戦の経験を積ませた方がよいのだが、今宵は一刻もはやく帰宅したかった朱雀は手早くなにもかもを自分だけで済ませてしまうことにした。真夜中ごろ、朱雀はよく躾けられた黒馬を駆けさせて、ただ一人、怪しきものどもが現れたという現場へと向かった。貴人である朱雀にとっては都合の悪いことに月はまだ明るかったが、朱雀は気が急いていたこともあって顔を見られぬための装いをすっかり忘れていた。


 馬を駆けさせていた朱雀は、瞬く間に過ぎていく寝静まった京の景色に一体何を思ったであろうか。端正な横顔は頬を打つ風にはためこうとさえしなかった。めったにかき乱されることのない美貌とその心――人々はそれゆえにこの皇女ひめみこに心惹かれ、それゆえに裏切られて去っていく。この高貴な女人にどれほど愛を叫んだところで、彼女はそれを一向に解し得ないからだ。いっそ蔑まれる方が彼らにとってどれほど幸せなことであっただろう。彼女は当惑さえしないのだ。子供が難しい問いを出されたときのように、心持ち首をかしげるばかりなのである。


「君がまだ少女なのを私はすっかり忘れていたよ……」


 その身を抱きしめ、くれないの髪をかき撫でながら、いつしか友が倦んだようにささやいた言葉をもまた、朱雀は知らない子守歌で寝かしつけられるときのような不思議な心地で聞いていた。いかにも涼しげな友の透き通った皮膚と、金色の髪の境目である額は汗ばんでいた。しかしながら、なおも、朱雀はそこに触れたら指先が凍えてしまいそうな印象を抱いた。嗅ぎなれたつもりでいて今こうして間近にいることで思わず圧倒されている、こうのかおりよりも汗のにおいの生々しさだけが切実に朱雀の鼻をついた。そして胸元にうずめられている重みとが……


「君は何も知らないんだよね、朱雀。それでいい、それでいいんだよ……だからせめて今だけは私を見て。駄目だ、姫さまの方でさえも。今はそれも許したくない。許したくないんだよ、朱雀……これが、これが私の愛なんだよ」


 その声は次第にか細く。


(だって、貴女を見ろと言ったって、貴女は私を見ていなかったわ。私の胸で泣いていたのだもの)


 唇に触れた風があの午後の記憶を呼び起こしたのかもしれない。朱雀は鷹揚に胸のうちで答えた。


(なぜ泣いていたの、白虎?まるで貴女は出会ったときの少女のようだったわ。私のことを少女扱いしておきながら……)


 唇がふと綻ぶ。けれども手繰り寄せられる遠い思い出は決して微笑ましいものではない。暗闇と血――灯影に浮かび上がる男たちの影はすでに魔のものどもの姿を借りていた。打ち捨てられ、月光を浴びて白く浮かび上がったむくろの数々。救うべき少女は、母のころもの裾の下で凍えていた。気高き母は死してもなおその娘を庇っていたのである。そのお方こそまさしく先代の白虎であったのだが。


(四神のなかで白虎だけは母から娘へと血によって受け継がれてきた。あの晩、先代が亡くなったことで、あの凍えていた少女は白虎として覚醒した。だからこそ、私は彼女の危機を知り、あの場に駆けつけられたわけなのだけれども……皮肉なこと。悲劇が彼女の命を救うだなんて)


 朱雀はただ物思う。瞳は揺れもせず、唇は引き結ばれたままである。


(それでも私は貴女を救えたわ、白虎……)


 不意に馬の足を止めさせたものが、朱雀の瞳にたちまちほむらが点じさせた。朱雀はその場に馬を留めて手綱を握ったまま、しばらく耳をそばだてていた。月光は寝静まった家々の屋根を隈なく照らし出していた。不審な影は見当たらない。だが、「それ」は確かに近くにいた。


 馬から降りた朱雀は、杏子あんず色の裳の裾をゆらしながら、朱雀大路の中央をゆったりと歩み進んでいく。まださほど南下してはいなかった。大路の石灯篭の灯影もさやかな場所、内裏の間近に怪しきものどもが寄りついているなんて。


 寝苦しいほどの真夏の夜に、ぞくりと悪寒のようなものを覚えて朱雀は目を細める。底知れぬ悪意を感じる。このような悪意が湧き出づる場所はただひとつだ。朱雀はその場所を知っている。朱雀はその場所へ向かわねばならない。この世界が終焉を迎えたその日には。あの御方が命じられたから――



 私だけが覚えている。

 これは私の罰。

 そして、私の…………



 朱雀は振り返らなかった。背後から飛びかかってきた敵は自ら罠に飛び込んで、炎の壁に妬かれて悲鳴をあげる暇もなく燃え尽きた。この炎の結界こそ、朱雀の技のひとつである虫篝むしかがりであった。以前、襲いかかってくる魔物から玄武を守ったのもこの技である。


 馬のいななく声に朱雀はようやく振り返った。見れば、邪なる獣が二頭揃って黒馬に飛びかからんとしているところであった。濃い灰色の被毛と渦を巻いた黒い角を持った、まさしく悪意の化身たる魔物である。その鋭い爪が馬に触れようとしたその瞬間、咄嗟に馬に向かって差し伸べられた朱雀の右手の内で炎が燃え、鋭い音が月夜を貫いた。続けて同じ音が弾けて、二頭の魔物の体はそれぞれ地面へと吹き飛ばされる。魔物どもの前足は蒸し暑い夜に土埃を少し立ててもがいたのち、それきり動かなくなった。その屍は黒い砂となって消え失せた。


 虫篝の罠が燃え立つより前に、朱雀はただ背後にまっすぐ右手を据えることで、駆け寄る悪意を薙ぎ払うことができた。一頭め、背後。二頭めは右より。三頭目、左。四頭目、右。前方に目視できるものはなし……やがて、黒馬が朱雀の方へ駆けてきて怯えたように顔をすり寄せたが、その頬を撫でようとする朱雀の両手はそれぞれくれないの銃に塞がれていた。それはこの玉藻の国においては数少ない人間のみが扱うことを許された武器である。この武器が初めて朝廷にささげられて以来、帝はその威力に恐れをなし、善なる者――すなわち朝廷に反旗を翻す恐れのない家柄の者にのみ、その使用と技の伝承を許されたのだ。武勇と武芸とが次第に軽んじられつつある今日こんにちにおいては、銃という物体そのものよりもそれを使いこなせる者の方がはるかに少なくなっていたが、朱雀は幼いころより、先の朱雀に仕えていた者たちの手でその技を仕込まれ、ついに代々の朱雀によって受け継がれてきた二挺の銃の継承者となった。名を短夜みじかよと蛍火という――


 蛍火を握る朱雀の右手の指先が馬の皮膚に触れるそばから、紅の色は銀色へと褪め、美しい皇女ひめみこの貴き掌の白さに紛れて見えなくなった。神なるものの武器の神秘である。しかし、朱雀自身はすでにその神秘に慣れ切ってしまっていて、馬を撫ぜながらも何か物思いに耽りつつ、かすかにひそめていた。


 つとに魔物の気配は消えたようだった。あまりに呆気なく事が済んでしまったから。その呆気なさがどうしても気にかかるのだ。あの魔物どもの目的は一体何であったのか。数日前より貧しい者どもを食い殺して回っていたことは聞いているが、今宵の魔物どもは明らかにその貪欲なる口腹のために襲いかかってきたものではない。群れながらも統率がなく、かといって獲物を争うでもなかった。仲間の死や朱雀の武器に怯える様子もなかった。個々の生命への執着が感じられなかったのだ。そうだ、まるで、彼らのうちのいずれかが朱雀を殺害すればそれでよいとでもいうような……


(あの魔物からは意志というものをまるで感じなかったわ。生きとし生けるものには意志がある。人や獣から鳥、虫、草木に至るまで、全てに。しかし、あの魔物は違った。おぞましい悪意に満ちてはいたけれども、それさえもあの魔物自身のものではない。あれらは自然に生まれてきたものではなく何者かによって作り出されたものではないかしら。なにか、悪しき目的のために。確かに、憎悪の泥をすくいとり、殺意を埋め込めばあのような魔物も生まれるだろうけれど。でも、一体誰の手が……)


 夜の京に女の身でひとり立ち尽くしていることも忘れて、朱雀は馬にもたれていた。結いあげた髪の硬質なつややかさと、白いうなじのきららかさとを、遠からぬ灯籠の灯が照らし出し、その横顔は暗闇をにおやかにかぎりながら半ばは闇に侵されていた。もし傍目に見る者があったとして、その姿はとてもこの世のものとは思われなかっただろう。かの者はきっと闇のなかに幻を描いたものと己を疑ったにちがいない。


 ようやく幻とうつつを見極め得たのか、それともそのは元より惑わされることのない冷徹な眼であったのだろうか。石灯篭の影より歩み出でてきた人は、陶酔と当惑の名残を宿しつつも不遜なまでにまっすぐ朱雀のみ顔を見つめ、黒馬に見咎められてもなお逸らそうとしなかった。


「あっ……」


 朱雀は声ならぬ声をあげて瞳に男の影を映したのち、慌てて顔を背けた。水鳥が優美な首を羽のうちにうずめるように。その肩の上で威嚇するように黒馬が鳴いたが、それでも男が動じる気色はなかった。


「……三の宮さま」


 男が呼びかけた。朱雀は返事をしない。父松枝院や伯父である左大臣は別として、皇女たるもの、男性と言葉を交わすことはならなかった。ましてやこんな道端では。


「朱雀の宮さまでいらっしゃいますね」


 幾分か乾いた声は朱雀の長い睫毛をそよがせることすらかなわない。その実、朱雀の胸は雛鳥の恐怖に張り裂けんばかりである――どうしよう。顔を無暗にさらしてはならないとあれほどお父様に言い聞かされてきたのに。朱雀としての務めを果たすのは立派なことだが、はしたない真似はならないとそう言われてきたのに。ああ!このことが知れたら、お父様にきっと叱られてしまう……では黙っていようか。そんなことはできない。一体、一体どうすればよいのだろう。しかし、どうしてこの方は私が私であることがわかったのかしら。いとわしいこと。こんな風に馴れ馴れしく話しかけてくるだなんて。いくら、義理の兄であるとはいっても。いくら右大臣であるといっても――

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