24-4 「いっそ二人で死んでしまいましょうよ!」

 帝のご発案で、紅葉の月の十五日に管弦の会が開かれることとなったが、ふた月前にそれが知らされた時も、人々は色めきながらも決して驚こうとはしなかった。それどころか会では三条家のむすめたちによって女楽おんながくが行われることさえもがすでに知れ渡っており、名だたる人々の演奏に紛れてしまえば一見余興に過ぎぬように思われるこの出し物こそが、実はこの催しの中心であることも人々はとっくに承知していたのである。


 というのも、この度柏木右大臣の養女となった枳殻からたちの姉妹が筝の演奏を披露することとなっており、これまで厳格な実父によって世のなかから遠ざけられていたこの姉妹は、その評判ゆえに殿方の興味をひきつけてならなかったのだ。だが、この姉妹に帝が熱心に入内を勧めているとの噂がすでに流れており、せめて姉妹のうちのどちらか一人だけでもと、世の殿方はひそかに焦りはじめているのだとか。


 周囲の騒ぎをよそに、当の枳殻の姉妹は憂鬱のさなかにいた。姉妹にしてみれば何もかもが解せない。実父が急な病に倒れ、自分たちを置いて月修院に入ってしまったこと。突如として面識さえない方――それもかの右大臣――の養女にされたこと。姉妹ともども遠からぬうちに入内することが決められており、そのための支度に日々心休まるひまがないことなど。


 これまでのさびしい暮らしから一転、華やかな三条家のお邸での暮らし、そして入内というこの上ない誉れ――女に生まれついたもので姉妹をうらやましがらない者はいないと、女房たちはほめそやしつつ言い聞かせる。しかし、姉妹にしてみればその全てが迷惑以外のなにものでもない。どうか自分たちにかまわないでそっとしておいてほしい。入内などするより父と同じように月修院に入れるのであれば、それがかなわずともせめて月の女神にお仕えする身となれるのであればどれほどよいか。どうしてよりによって自分たちがこのような目に遭わねばならないのだろうか……それでもいまだかつて実父に逆らったためしのない姉妹はやはり養父にも逆らうことができず、大后さまがなにかと世話を焼いてくださるのも恐れ多いので、自分たち二人よりほかには誰にも心うちとけられぬままに日々を過ごしていた。


「お父様のところへ行きたいわ」


 と、この日も二人きりになった隙を見計らって、妹君は涙をこぼしつつそう言った。女楽に向けての筝のお稽古の途中であったが、妹の方は姉ほどには筝が得意でもないので、楽しいとも思わぬ様子で大概いつもこうして楽器を放り出してしまうのが常である。赤い唇が木の実のようにぽってりとした、世間の評判通りの愛らしい容貌の女性であった。


「お父様もよっぽどひどいわ。あたくしたちを置いていかれるだなんて……ひどい、ひどい、ひどい。お別れの挨拶さえまともにしてくださらなかった。あたくしたちがこんなに苦しんでいるというのに、お父様はお手紙ひとつ寄こしてくださらない」


 姉君の方はまだ楽器の上にうつむけた懸命な顔を上げようとはしなかった。こちらは容姿という点でいえばやはり妹と比べるとやや見劣りはするけれど、たおやかな仕草と、思慮深げな瞳の暗さとが静かな魅力となって湛えられている。


「……月修院に一度入った者は私信も制限されるのですよ。致し方のないことです」


 物悲しげな曲をひとつ奏で終わったところでようやく姉君は静かにつぶやいた。


「ねぇ、中の君。わたくしはね、こうなってしまった以上はもうあきらめるより他にないと思うのよ。右大臣は何が何でもわたくしたちを入内させるつもりだけど、入内したところでわたくしたちのような育ちの者が――まあ、貴女はともかくとしてもわたくしは――主上のお気に召すはずがないのだもの。すぐに皆わたくしたちにかまわなくなるに違いないわ。その時を待つより仕方ないのよ。今、わたくしたちはどうあがいたってここから逃げ出すことはできないわ」

「お姉さまはすぐそうやってご自分ひとりだけ達観して」


 中の君は恨みがましそうに言ったものの、口元は悲しげに微笑んでいた。


「昔からそうだったわ。あたくしには耐えられない……あたくし、本当に逃げ出してしまいたい。もちろんお姉さまも一緒よ。お姉さまに悪い薬を嗅がせてね、眠らせて連れていくの。そうして二人だけで暮らすのよ。お父さまなんかもう知らないわ」

「薬を嗅がせるなら他に相手がいるでしょう」


 姉は素っ気なく言った。時おりこの姉は涼しい顔で突拍子もないことを言ってのけた。


「でも、右大臣あのひとには薬が効く気がしないわ。生まれの卑しい者はあたくしたちより体が丈夫だというし。あのひと、人間じゃないんですもの。愛情や思いやりを欠片かけらも持ち合わせちゃいないんだわ。父親らしい口を聞くけれど、あたくしたちを自分の娘だなんて片時たりとも思っていなくってよ。あのひとはあたくしたちを単なる出世の道具だと思っているんだわ」

「静かに。そのようなことを言ってはいけないわ、中の君。今は辛抱するときです。ひたすらに、じっと……」


 中の君は幼子のようにいやいやと首を振った。


「だめよ!辛抱なんかできない。他のことはまだ辛抱できるけれど、お姉さまを他の誰にも寄こしたくないんですもの。主上にさえも……!」

「それはわたくしもなのよ、中の君……あなたを主上に差し上げたくない」

「なら、いっそ二人で死んでしまいましょうよ!ねぇ、そうしましょう……?そうしたらみんなわかるはずだもの。誰もあたくしたちを羨ましがる必要がないってことが」


 涙で濡れた手で、妹が姉の手をとった。静謐と理性とに占められた姉の瞳は、二人で死のうという妹の言葉に一瞬星のように燃え上がった。しかし、妹の肩越しに何かを認めると、恐怖が姉の激情を凍りつかせた。妹もまたはっとして背後を振り返った。


 屏風の陰に養父こと柏木右大臣が立っていた。この感情に乏しい人にしてはめずらしく苛立ちと嫌悪と軽蔑が入り混じった表情を押し隠そうともしないのは、先ほどの中の君の悪口が聞こえたためばかりとは思えない。養父に視線に射られた姉妹の手は、冬枯れの葉のごとくぱさりと床の上に落ちて離れ離れになった。


「お養父とうさま……」

「相変わらず仲のよい姉妹だな。話が弾んでいたようで大変結構」


 まさか額面通りに受け止める姉妹ではなかったから、二人はろくに返事もできない。その様子を眺めるさなかにも右大臣の表情からは苛立ちと嫌悪が薄れ、冷ややかな軽蔑の笑みだけが残った。右大臣が妻子に対して向けるあの笑み、小柴を怯えさせてならないあの笑みである。


「しかし、筝の稽古はどうしたのかな?中の君、あなたはもっと熱心に稽古をする必要があると、先日注意したはずだが」


 ふしぎなことに、妹君はあれほど悪しざまにこの養父を罵っていたにもかかわらず、いざ目の前にするとすっかり縮こまってしまってまともにお返事すら差し上げられない様子である。見かねた姉が言った。


「申し訳ございません、お養父とうさま。でも、中の君はもうほとんどまちがえずに弾けるようになりましたわ。ただ、お養父さまの前ではどうしても緊張してしまうだけなのです」

「それはいけない。父親に聞かせるというだけで緊張しているようでは。本番には主上がいらっしゃるのだから。中の君、あなたは元気のよい女性だと思っていたが、意外と気の弱いところもあるのだな。もっとも女にはそうしたしおらしさも必要だが」


 右大臣は澱みなく冷たく言い放つと、姉妹に背を向けた。妹君は「ここで今弾いてみろ」と言われなかったことに安堵して、そっと姉の顔に弱々しく微笑みかけようとしたが、冷酷なる父の声は再び降ってきた。


「仲睦まじいのはよいことだが、いつまでもお互いに依存しているのは幼い子供のようで見苦しい。今宵からは寝所を別にするように。あなたがたは姉妹とはいっても性質や能力の点ではあまり似ていないようだから、これから学ぶべきことも違ってくる。中の君、あなたはとにかく試楽の時までに筝の方を間にあわせるように。それからその言葉遣いも改めなくてはならない。大君、あなたは暇さえあれば筝ばかり弾いているようだが、その他のことにも同じぐらい身を入れてくれることを願っている」


 右大臣は立ち去った。後に残された姉妹はもはや言葉を交わす必要がなかった。二人は互いの肩に顔を寄せ、声も出さずに涙しながら、憤りと屈辱と絶望とを分かち合うことができたから。だが、この仲のよい姉妹が差し向かいで顔を合わせることができたのはこの日が最後だった。終焉のその日まで、二人は引き裂かれてしまった。




「えっ、姫さまも会に出席されるの?!……えっ?!」

「安心なされ、玄武殿。姫さまは演奏する方ではなくて聴く方でございますからな」

「あっ、なるほどね」

「ねぇ?なんでそこで納得するの?!」


 怒った京姫をなだめるのは相変わらず白虎の役目である。だが、これまでは京姫は白虎に後ろから抱きしめられて膝の上に座らされるとひとまずはおとなしくしていたのに、今日は何か一瞬どきりとした表情をみせたあとで、なおもおさまらぬ怒りのためか、その腕から飛び出して左大臣に詰め寄っていった。青龍は白虎がおや、という顔をしたのを見逃さなかった。


「っていうか、安心なされって何?!」

「お認めになってくださいよ、姫さま。姫さまのお筝では他の方々と並ぶのはどう考えても無理ですよ」


 青龍に図星を突かれ、京姫は何も言い返せず悔しそうにその場に座した。左大臣はひとまず京姫が落ち着いたのに安堵した様子で、姫君を慰めた。


「まあまあ姫さま。今度の会はご出席できるだけよいではありませんか。主上が特別にお認めなさったのですぞ」

「主上には感謝してます。最近全然来てくださらないけど……ところで、白虎も出るんでしょう?白虎は何を弾くの?」

「さあ、まだ決めておりませんが。困ったものですね。筝は枳殻の姉妹に奪われてしまったし」


 白虎は微笑みながら小さく肩をすくめる。白虎は音楽の才に優れ、どんな楽器でも見事に弾きこなすことで知られていた。筝の技の見せ場を他の者に奪われたところで少しも困っていないにちがいない。


「またまたご謙遜を。しかし、この度の会では白虎殿といい、枳殻の大君といい、名人ばかりが揃いますな。紫蘭の君もびんを披露されるとのことだし」

「斌というのはなかなか難しい楽器なのですよ。しかし、見た目の本当にうるわしい楽器です。美しい女性が何気なく弾きこなしている姿などはきっと神秘的にさえ思われるでしょうね。姫さまも練習なさってはいかがですか?」

「姫さまはまずお琴の方を練習なさらないと……」


 白虎や青龍の言葉にも取り合わず、京姫はうつむいてじっとなにごとかを思案しているようであったので、今度は青龍がおやという顔をした。白虎と青龍の目が合った。これは何かおかしい、と目線でささやきかわしながら、しかし二人ともその理由についてはさっぱり思い当たらなかった。


 

「最近姫さまはどこか変わられたような気がいたしますな」


 桜陵殿を退出し、京姫を中心に久しぶりの歓談を楽しんだあとで左大臣が唐突にそんなことをつぶやいたので四神たちは驚いてその顔を見やった。左大臣はまっすぐ前を見たままでつづけた。


「わたくしだけの感慨ではありますまい」

「……以前より口数が少なくなったような気がいたします」


 白虎は慎重な顔つきと口ぶりで言った。


「きっと大人になられたのでしょう。いえ……それでも姫さまは姫です。これから先もずっと」

「最近、姫さまがおひとりで遠くをみていらっしゃることがあります。夜になるといつのまにか姿が見えなくなって、気がつくとお庭にいらっしゃるのだとか。女房が教えてくれました。母がいれば夜のお庭遊びなど許さないのでしょうけど、なにぶん監視が手薄になってますから……」

「お庭遊びだなんてものじゃないんだよ、きっと」


 青龍の言葉に重なるように言いながら、玄武は目を細めていた。いつの間にか一同は蘭城らんせい殿へと続く渡殿の半ばで立ち止まり、煮詰まる前の夏の朝のすがすがしい日差しが、すでに熱を帯び始めた両手で以って履の底を温めはじめたのを感じていた。どこか遠からぬ場所で蝉がけたたましくわめきながら飛び立っていく。生い茂る葉叢はひとつひとつの葉の輪郭までをも陽光に切り取られ薄灰色の影となり、微風が吹くたびに皆の足元で揺らめいた。そのために、一同の胸には、なにか波間に立っているようなあやうさがあった。


「あたしはみんなほど姫さまと一緒にいたわけではないけど、でも、なんとなくわかる気がします……なんていうのかな。姫さまはあたしたちが知らない姫さまになろうとしているんだって。自分でも知らないうちに」

「朱雀も同じようなことを言っていたな。そして、それでも私たちが守るべきおん身とみ魂とは、神代かみよより永久とこしえにただ一つなのだとも」


 白虎はその場にいない人の名を出して、少し切なそうな顔をした。朱雀は体調のすぐれない父松枝院の看病のために今日は出仕を控えていた。


「うらやましいものですな、四神の皆さま方は。来世もまた姫さまをお守りできるのですから。この老翁は姫さまとは現世かぎりのご縁でございますからな。いえ、それさえもったいないことですが」


 左大臣が溜息をつきながら首を振ると、その白い髭に日差しが反射してちらちらとまばゆく光った。それを見ていた三人の乙女たちが物寂しい思いに駆られたのは言うまでもない。彼女たちはその指のあいだから砂のようにこぼれ落ちて失われゆくものを感じ、また同時に、その手の下で形作られるものを感じていた。そのどちらをも彼女たちは寂しいという心地で捉えてしまう……


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る