24-3 恋

 どうしよう。どうしよう。どうしよう。


 唇が熱い。なんだかまるで、まるで……本当にそこに触れられたみたいだ。ちがうのに。私じゃないのに。唇を重ねていたのは――


 

 まるで体を、殊に胸のあたりを、内側からくすぐられているようだ。京姫はむずかゆさのようなものを覚えてとこにうつ伏せになったまま身をよじらせた。ぞくぞくする。ぞわぞわする。体が重たいのに、心と頭はどこかに飛んでいけそうな気がする。気持ち悪い、怖い、でもなんだかいやじゃない。



 思いがけず紫蘭の君と出くわした夜から自分はおかしくなってしまったようだ。だって、紫蘭の君を想いながら庭にたたずんでいたら本当に目の前に現れるのだもの。涙こそ封じたとはいえ、あの日、やっぱり自分は蛍の行幸に一緒に行きたかったのだ。あの人も行くのだと知っていたから。もう一度言葉を交わしたかった。あの日、私を見つけてくれて、助けてくれてありがとうと伝えたかった。でも、なによりも嬉しかったのは勝手に心を読んだ私を許して慰めてくれたこと。私はあの人の一番深い傷に触れてしまったはずなのに、それを許してくれたこと。それがとっても嬉しくて。涙を拭ってくれた手が、微笑みが、とても優しくて。だから……



 京姫はうつ伏せていた身を横向きにして、半ば巻き上げた御簾越しに光と影と音とが反射し絶えず揺動しつづけている庭を眺めやった。その実、姫はなにも見ていなかったのであるが。姫はうるんだ瞳を細めながら腰元にかけた衣の下で膝を抱えた。額の汗はわずらわしいけれど、今はとても拭う気になれない。汗が目に沁みる。



 ……だから、会いたかった。そう、ただそれだけだった。あの時は。確かに「好き」という見知らぬ言葉が胸の中をたゆたってはいたけれど。玻璃の器のなかを泳ぐ金魚のように。時おり内側の壁にぶつかって私をびっくりさせながら。



 好き、好き、好き。好きなの。貴方のことが好きです――こんな言葉、どこで覚えたのだろう。どこかで拾っただけの言葉。私の言葉ではないはずなのに、あの夜から私の言葉になってしまった。


 今その人の名前をつぶやく唇はかわいている。この唇で、その人の唇に触れることはあるのだろうか……ああ!何を考えているんだろう私!!想像するだけでおかしくなりそうだ。そうだ、おかしいんだ。「あんなこと」は。


 ねぇ、なんで「あんなこと」をしたの、白虎?急いで目をつぶっても、白虎の指先のふるえは伝わってきた。だから、私、知ってしまったの。私もまた「こんなこと」をしたいと思っているんだっていうことに。私の場合は朱雀ではなくて、紫蘭さんと……



 京姫は、視線は庭に据えたまま、指先だけでみつけだして胸元にしまっていたものを取り出した。それはあの夜より片時も肌身離さずに持っていた紫蘭の髪飾りである。鼻先にかかげてから京姫は髪飾りに目線を落とし、ためらいながらもそこにそっとくちづけた。水晶の珠は姫の唇がいまだかつて知らない感触を返した。水晶は涼やかで硬かった。しかし、それがゆえに、今くちづけてしまったものはこの上なく清らかなもののように姫には思われた。すなわち、紫蘭その人自身であるように。珠は姫の吐息と温もりに触れ、姫の愛が織りなすもっともこまやかな襞を映しとりつつほのかに曇った。


 くすんだ水晶の珠を見つめる、少女の瞳は歓喜に満ちていた。だが、急に名前を知らない激しい感情の高波に突き上げられて、京姫は息を止めた。そして次の瞬間に思わずその場に打ち伏せた。痛いほどのかなしさがひろがっていった。京姫は泣くことよりほかにこうした感情を戦う術を知らなかった。姫はとても泣けないとも思った。この悲しみが、今この世のなかでもっとも美しく思われている紫蘭の君のためであるならば。


「紫蘭さん……!」


 泣きたいのに泣くこともできない。この気持ちの行き場はどこにもない。もう起き上がることだってできないかもしれない。そうしたら、女房たちにどんな言い訳をすればいいのだろう?


(……紫蘭さんに会いたい。紫蘭さんに会えるならどんなことだって耐えられる気がする。どんなひどい目にあっても平気なの。紫蘭さんが好き。紫蘭さんのことが好き)


 ひろがる姫君の樺色の髪の端を斜陽が染めていた。ねぐらへ急ぐ烏が二声三声鳴き、その後の長い沈黙をひぐらしの声が圧した。


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