24-2 「この度はおめでとう、右大臣」

 三条家のおやしきは祝いごとのために主人から下女に至るまですっかり華やいでいたが、祝いの中心たるべき部屋は静かであった。その静けさは決して安息と幸福ゆえの充足感によるものではない――祝いごとの性格ということを考えれば、それらは当然満ち満ちているはずのものたちであったが。


 端近に立って、じっと庭の方に目を凝らしているのは他でもない時の人、右大臣である。普段から険しい顔つきは目を細めているために一層険しそうに見えるが、それはまばゆい午後の光をじっと見据えているせいなのかもしれない。ただ、まばゆい光のなかに目を据えてまで顔をそむけたいなにものかがその背後にあるのは確かであった。


 その背後、戸外の光を恐れるように部屋の奥の薄暗がりのなかに佇んで、袖にまとわりつく二人の子をうるさがりながら一方では遠のけることもできずに、みどりを抱きかかえている女性こそ、この部屋の女主人である。腕の中で眠るみどり児の玉のごとき美しさは母親ゆずりであると見えて、かの女主人が我が子を見下ろしてじっとうつむいている横顔はさながら絵に描かれたもののように思われる。ひとつは女主人がほとんどみじろぎしないため、もうひとつは眉や切れ長の目の形、鼻筋やらおとがいから首にかけての線であるとかがいかにもくっきりしているために、このような印象を人々に抱かせるのであろうが、あいにくと最愛の人たるべき夫はその美貌を嫌悪するかのごとく目をそむけ続けていて、女主人の美しさを今この場において賛美できるのは周りにわずかばかりに控えている女房たちだけである。この美しい女主人こそが、松枝帝と牡丹の女御との間にお生まれになったという女二の宮であり、右大臣の北の方なのである。


 女二の宮と柏木右大臣――美しき皇女と野心に満ちた聡明な青年。この上なく似合いのお二人の結婚がどうして上手くいかないということがあるのだろう。ほかならぬ帝が取り決められ、祝福された結婚であるというのに……女主人からみどり児を受け取りながら、小柴こしばは思う。小柴はこの新しく生まれたみどり児のために雇われた乳母めのとで、孫娘の誕生に喜んだ牡丹大后直々の任命でこの屋敷へやってきたのであった。待遇のすばらしさには言うことなかったけれど、小柴はどうしてもこの屋敷を、というよりこの部屋を、居心地のよいものとは思えない。主人夫妻の冷ややかさがまだ若い小柴を委縮させるのだ。


 抱いている人の心を、子供というものはなぜこんなにも鋭く読み取るのか。小柴が受け取ったその瞬間、幼い女君はぱっちりと目をみひらいて、寝起きとも思えぬみずみずしい黒い目であたりを見わたすと、一瞬とほうにくれたような顔つきになり、それから火のついたように泣き出した。こうなると小柴はすっかりお手上げ状態で、女主人がどことなくつんとした様子ながらに女君を奪い返すのにもおろおろするばかりである。小柴はなにも子供が泣き出すのや女主人の叱責が怖いのではない。こういう騒ぎの折にだけ決まってこちらに寄せられる右大臣の目線が、その三白眼の黒目が、父親らしい愛情も夫らしい優しさも示さないのが、恐ろしいのであった。ああ何て心の冷たい嫌な方だろう。自分の妻と娘のことなのに。冷笑さえ浮かべていらっしゃる……


「せわしないな、母親というものは。どの子も母親ばかりを恋しがるものだから」

「何を他人事ひとごとのように。あなたの子でもあるものを。少しはかわいがっておやりになってもよいではありませんか。あなたのご待望の姫君だというのに」


 夫の声に妻の声、どちらも冷ややかで張りつめていて少しも溶け合うところがない。みどり児はいよいよ声を張り上げて泣きたてる。父君は相変わらず庭先に顔を向けたきりで、目線だけを妻と子がいるあたりへ送っている。


「その子の養育については心配していない。我が奥方殿と大后さまがついていらっしゃるからな。もはや男親の出る幕はない」

「あなたはご自分の子さえ出世の道具としかみなしていないのですわ」


 と奥方殿は特別語気を荒げもしないで言いのける。右大臣も皮肉に笑って応じ、


「その通りだ。だが奥方殿、それが下々の者どもの生き方というものだ」


 と言って、その瞳に小柴が寒気を覚えるほど冷酷な暗さを宿したあとで、また庭の方に視線を戻した。


「……ところで大后さまはいついらっしゃる?」


 奥方が答える必要はなかった。まもなく大后さまのご到着が知らされ、この時のために正装をしていた一同は大人から子供まですみやかにお迎えの支度にかかった。みどり児までもが泣き止んだ。




 牡丹大后ぼたんのおおきさき――かつては牡丹の女御と呼ばれ、柏木右大臣にとっては義理の母にあたるこのお方を、実は右大臣はいまだによく掴めていない。ある時にはあきれるほどに直情的な単純な女性にも思われるし、またある時には女性とは思えぬほどの豪気と狡猾さとをみせる。疎ましくも思われ好ましくも思われ、軽蔑すべきでもあり尊敬すべきでもある。右大臣にとって、この一筋縄でいかないお方と比べればそのご息女の方はどれほどわかりやすい性質であるだろう。夫たる自分へ投げつけられるのはただ一つの感情よりほかにないのだから。


「この度はおめでとう、右大臣。わたくしも大変嬉しいです。孫娘のことは正直あきらめておりました。でもこのように孫娘をこの腕に抱けるだなんて。それにまあ愛らしいこと、この子は今に世に評判の姫君になることでしょう。いいですか、右大臣。くれぐれも注意されることです。この娘には一点の傷さえも許しなさいますな」


 大后のみ顔を右大臣はいまだ仰いだことはない。ただお歳の割にお声はいまだに若々しいように思われる(大后は右大臣とは直に言葉を交わすことを好まれた)。女人のわりには幾分太いお声である。右大臣は畏まってお返事を奉った。その間にも大后が孫娘をあやしていらっしゃるのらしい。子供の笑うような声がかすかに聞こえてくる。右大臣はその声が自分の娘のものだとはまだ信じられなかった。息子二人が父を怖がっておそるおそる遠巻きに眺めているのを見ても、格別何の感慨もわいてこないのと一緒で。


 何を他人事ひとごとのように。あなたの子でもあるものを――ゆえに俺はいとわしいのではないのか。いっそ自分の子でなければよいものを。妻があさましい愚かな女であってくれればよかったのだ。あの女は貞節さえも侮蔑に変えてしまう。ああいう女こそを、世では毒婦と呼ぶべきではないか。


 ……それでも、そんな妻でも、愛せると思った時があったのだ。あのひとの姉であるならば。初めて顔を見た妻の顔は夢に描いていたよりずっと美しかった。きっとあの女よりも妻は美しい。だが、やはりあの女ではなかった。金色こんじきの朝日を浴びていたあの横顔――朝日よりもずっと弱々しい蛍の光に照らされて、ほんの一刹那、その面影はお闇のなかによみがえった。記憶よりも鮮やかに。


 右大臣ははっと我に返った。人と話しているさなかに物思いに耽るなどと彼らしくもなかった。ましてや大后の御前にぬかづいているというその時に。さいわい周りの者どもはなにも気づかなかったようだ。というより、右大臣が我に返ったときには周囲に人はほとんどいなかった。大后が人払いをなさったのだ。右大臣の瞳に冷徹な光が戻った。


「……こちらへお寄りなさい」


 きりりとした沈黙のなかで咳払いをひとつして、大后は厳かな声で切り出した。こういう時、このお方の声には実に大后らしい威厳があらわれた。


「はっ」

「そなた、桔梗の女御の懐妊の話はご存知ですか?」

「えぇ、存じておりますが」


 牡丹大后は御簾の向こうで突如として激された。


「全くなんと忌々しい!よりによってあの女が……!桔梗の女御には九条家の血が流れているのですよ。母親が左大臣の従姉いとこにあたるのですから。よりによって九条だなんて、全くもって!!主上も困ったお方です!後宮には容姿、教養、家柄、いずれをも備えた女人がかつてないほどあふれているというのに、どのお方にもとりたてて心を惹かれぬご様子。京姫のところで夜を明かされることもあったのですから呆れてしまいます――えぇ、それはさすがによくお聞かせしてやめていただきましたが――しかし、主上ときたら、かのたちばなの女御にさえもただひたすらにお優しいというそれだけ。あのは主上にとっては従妹いとこにあたるというのに!」


 右大臣は黙って成り行きを見守ることにした。話を切り出したときの大后の声音を決して忘れてはいなかったためである。この激高は落ち着くべきところへと落ち着くはずだ。滾り落つる瀑布もやがては静かな水面をなし、ほの暗い下樋したびをひそかに潜り抜けるように。


 牡丹大后は盛大なる溜息をおつきになった。


「わたくしも常々申し上げてはいるのですよ。橘の女御こそ主上にとってもっとも大切にすべきお方なのですよ、と。しかし、主上はこうしたことばかりはこの母の言うことを聞き入れないのです……橘の女御が懐妊する兆しはまだありません。そして、九条の血が流れる者の腹より皇子を生ませてはならない。右大臣、おわかりですか」


 「ごもっともです」と右大臣は低くつぶやいた。


「……ご心配には及びますまい。桔梗の女御は。かほどお体の弱い方にご出産はつとまりますまい」

「おお、やはりそなたもそう思いますか。それでわたくしも安心いたしました」


 大后は嬉しそうにおっしゃると、また溜息をつかれて、


「ですが、なんといっても橘の女御に皇子が生まれぬことには始まりますまい。いえ、橘の女御でなくともよい。とにかく三条家の血を引く娘ならば。そなたがこれまで娘に恵まれなかったのは残念なことです……いいえ、こんなことを嘆いても始まりません。わたくしの従兄の子に、見た目のうるわしい、なかなかに見所のある姉妹がいるのです。大君おおいぎみの方は今年で十八。中の君は十五ですが、この中の君の器量が実にうるわしいのです。それに大君の弾く筝はとても素晴らしいのですよ。この姉妹を入内させようと思っています」

「……しかし、恐れながら、後ろ盾や身分といった点で他の后と張り合うことは難しいのでは?皇子をお生みになったとしても、その姉妹のいずれかを中宮に立てるとなっては、世間も黙っておりますまい」

「心配ないでしょう。そなたの娘として入内するのですから」


 さすがの右大臣もこの時ばかりは一瞬言葉を失った。


「わたくしの娘ですと?」

「えぇ。そなたが姉妹を養女にすればよいではありませんか。生まれの方とて決して卑しくはないのですから、誰も文句は言えますまい」


 右大臣はかすかに唇を噛んだ。自分の娘を入内させるというのはかねてより考えてきたことだ。この度女君が生まれたことでその希望がかすかに見えてきた。もっとも、今すぐにというわけにはいかないが。しかし、今すぐにでも娘の入内が叶うというならば。それもお相手はかの今上帝である……


 右大臣はほんのわずかな間うつむけていた顔を御簾の方へと上げた。当初の動揺はすでにおさまっていた。あとは二つ三つの懸念ばかりである。


「しかし、姉妹の父君はご承知なのですか。大后さまの従兄で年ごろの姉妹がいらっしゃるのは枳殻からたちの大夫と呼ばれていた方でしょう。このお方が早くに官を退かれたのは極度な厭世家であるがためだとか」


 厭世家であり愛妻家。ただ一人の妻を守られて、妻に先立たれたのちは、京の北はずれの邸にこもり、妻の忘れ形見である姉妹はらからの養育だけに心をくだいているのだとか。この方が姉妹を手放すはずがあろうか。無論、大后には目論見がおありに違いない。


「……姉妹の父君は。残念なことに先は長くないでしょう。今はまだこちらの申し出を拒んでいますが、やがて自分の病を悟り、娘の行く末について現実的に考えねばならぬ時がきます。その時にはあの頑固者といえども、さすがに折れざるを得ないはずです」


 大后はそれからすっと声をひそめられた。


「そなたは覚えていないと思いますが、月修院に仕えていた巫女のひとりに呪術に長けた者がおりました。主上がご執心を示されたのをよいことに京に呼び寄せましたが、この女が実に役に立ってくれることと思います」

「左様でございますか」


 右大臣はふと思い出した。いつの夜であったか、帝と二人で杯を酌み交わした折に帝は不思議な問いを投げかけられた――「……義兄上あにうえは心より女性を愛したことがおありですか?」と。では、帝のほのめかされていたのはその月修院の巫女とやらのことであったのだろうか。ともすれば憐れなことである。その愛にはひそかに甘い砂がまぶされていることに、帝はお気づきでないのだろうから。


 そして、今日この時から右大臣もその砂をまぶす一人になるのである――


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