第二十四話 短夜

24-1「白虎、扇が落ちていてよ」

 男装の麗人と呼ばれるようになったのはいつのころか。女の身で男のなりをしていることに意味はない――つまり、こだわりはないということだ。男の形をするのはそれがまつりごとに関わる身として欠かせないから。政に参与することは一条家の末裔としての使命だ。男であろうと女であろうと一条家のたったひとりの生き残りであるかぎり、自分はこの使命は果たさねばならない。男のように話すのも、男のようにふるまうのも同じ理由だ。慣れてしまって、居心地がいいということもある。いまさら女らしくしようとしても不自然だ。


 そして、女の身で女を愛するのは…………


「あら、白虎」


 かの女性ひとは微笑みもしなかった。うつむけた顔から紅の瞳だけがなにものかにおびやかされた二羽の小鳥ようにつかの間飛び立って、また元の枝へと足を下ろした。それきり朱雀の目は膝の上に置かれた京姫の寝顔をじっと見据えている。


 風は死に、真夏の日は金色の暑熱を京に注ぎ込み、人々の瞳を澱ませ、蝉の声を煽り、池の面さえをも燃え立たせている。月のもののために元気をなくし、めずらしく午睡をされている京姫の額にも、重たげな前髪の裏側から汗が滲みでてくるらしい。朱雀は扇を動かす手を時おり止めては、その汗をていねいに拭いとって差し上げている。しかし、当の朱雀はといえば、いかにも季節の主らしく悠然としていて、夏物とはいえ豪奢な衣裳を重ねていても汗ばむ気配すらみせなかった。


 ……この女性ひとを愛するのはこの女性がかくも美しく、気高く、物静かであるからだ、と部屋の奥の暗がりの方には容易に歩んでいけないような気がしながら、白虎はひとりちる。誰にもおもねらず、誰にも干渉されず、全ての音、色、光を金色の火柱のなかに巻き込んで燃やし尽くしてしまう、そういう真夏の静謐をその内部に湛えている。ゆえに白虎は朱雀に惹かれるのだ。秋とは夏の残滓に他ならないのだから。


「……姫さまの具合は?」

「あまりよくないわ。玄武が薬を煎じてくれたので少しは楽になったようだけど」

「おかわいそうに」


 朱雀のかたわらに腰かけて京姫の顔をのぞきこみながら、白虎はつぶやいた。朱雀の扇ぐ風を受けて京姫の寝顔はやすらかであった。白い瞼には脈が透けていたが、頬は赤かった。唇は眠っているときのくせでかすかに開き、まくれたところだけが外気に触れて乾いている。上半身は涼しげなしゃの衣であったが、お腹より下は分厚い夜着で幾重にも覆っていらっしゃった。


「立ち寄ったのは何か用でもあって?」


 白虎に扇を取り上げられても反応ひとつ示さずに、朱雀は尋ねた。白虎は京姫と朱雀とに風が行き渡るように扇いだ。


「いや、仕事がはやく片付いてしまったから、姫さまのお顔でも見ておこうかと思って」


 嘘だ。本当は朱雀が桜陵殿に来ているのだと聞いて、それでやってきたのだ。紅の髪の一房が風に揺られるさまを見るためにここにやってきた。朱雀は「そう」とだけ応えた。


「君こそどうしてここに?」

「姫さまに呼ばれたのよ。午前中は青龍と玄武が面倒をみていたようだけど、二人は午後から神饗祭かむあえまつりの支度があるのでおそばにいられないのですって」

「ずいぶんと気が早いな」

「玄武にとっては初めてですもの」


 その時、京姫が小さく声を漏らされたので、朱雀と白虎とは口を閉ざした。しばらくの間、二人は黙って姫の寝顔をうかがっていたが、朱雀の態度には沈黙がそのまま続こうとも一向に構わないといったような無頓着さが見て取れた。


 たとえその沈黙が、白虎に唇をすくいとられたためという無理強いされたものであったとしても、朱雀は無頓着さを片時たりとも手放さなかったにちがいない。この春、松楹院しょうえいいんのお庭に臨みながら朱雀の身を抱き寄せながらめぐらせた熱い妄想を、白虎は冷たい確信で以って断ちきることができた。思い出されるのはあの夜のこと――ほのかな蛍火はその小さな自身の影ひとつ満足に照らし出すものでもないのに、時として陽光さえも届かぬ人の心の奥底を照らし出す。



 ……川は浅く、黒い水は流れるというよりは川底を這うようにゆるやかに進み、踏みしめた足元を洗っていた。ひわ色の光はぽつりぽつりと二人のまわりに明滅していたけれど、字義通りの蛍に関しては青龍たちや左大臣が尽力してくれていたので、白虎と朱雀とはもういたずらに蛍火を追いかけることはせずに、からの虫籠を惰性のように提げたまま歩み続けた。空いた方の手を、白虎は時おり朱雀に貸し、朱雀は灯りをかざすのに使っていた。


 朱雀は言葉少なであり、こうした行事のときにも無暗にはしゃごうとしないのが、内親王ひめみこらしいといえばそうであり、そのあまりの無関心さが内親王らしからぬともの内親王らしくないといえばその通りのように思われた。白虎は蛍火を指さしてもほんのわずかに顔をあげるだけで、藺笠いがさから垂らしたきぬのうち、「あら」と一言つぶやくきりの朱雀につい微笑を禁じ得なかった。


 感情の方では容易に動かされない朱雀であったが、川端の歩きにくい道を進まねばならぬので、白虎が次の足場へと導こうとするのにはすなおに従った。かさばる大きな花のような朱雀の体は白虎の手にすっかりゆだねられていて、引き寄せれば引き寄せるだけ白虎の胸元に近づいて、ある時ふと溶け入ってしまうのではないかとの幻想を起こすほどであった。白虎はそれでもこの誰よりも大切な友、そして心より愛する女性を相手に図々しい真似をする気にはなれなかったので、いつもごく自然な、微妙な距離をあけたところに朱雀の身を置いていた。朱雀の呼吸が(時にそれは夜風であることもあったが)衣をかすかにそよがせて白虎の頬にかかると、それに呼応するように抱えている腰元が沈み膨らんだりする。そんな感触の方が、身を寄せ合っているよりも執拗に、悩ましく、息づく朱雀の体を伝えてきた。


 ところで、白虎がずっと気になっていたのは、自分たちより後方、少し離れたところを伴の者を従えつつも陰気なほど黙然と歩を進めている右大臣一行なのであった。


 白虎はもとよりこの男が気に入らなかった。その野心、抜け目のなさ、剛毅、筋の通った冷徹さ――この男の政治家としての才能を政治的力量へとまっすぐに流し込んでいく、これらの性質が気に食わなかった。だが、柏木家などという無名の家に生まれながらもこの男が若くして出世の道を駆けのぼった理由は、単に才と性質のためばかりではない。恐るべき強運が彼をここまで導いたのである。


 二条の乱――白虎にとってはこの世の何よりも忌まわしい事件――を未然に防ぎ、逃げ散る二条家の者どもを捕らえたかどで、この男は帝の覚えめでたきところとなった。松枝帝は後裔すでに絶えし神代の武人の名であるたけるの名を許され、ついで皇女のおひとりを賜ることを約束された。果たして女二の宮が降嫁されたが、野心のかけらでも持ち合わせる男であれば泣いて喜ぶこの僥倖にあたっても、大臣が通り一遍の感謝と恭順の意を示しただけであったため、以来、不思議な噂が聞かれるようになった。右大臣殿は、本当は妹宮である女三の宮を欲されていたのだと。


 なんたる身の程知らずであろうか……!


 降嫁のとき、朱雀は十四、白虎は十三であったが、すでに白虎がこの美しいひとに心とらわれて久しかった。朱雀は噂などまるで耳にも届いていないかのごとく平然とふるまっていたが、白虎は明日にでもこの友が見知らぬ卑しい男の手に奪われるのではないかとひそかに怯えていた。恐れるものなど、もうこの世にはないと信じていたのに。世にも清らかな乙女として四神の霊力を授かりつつ、男性としての力と地位をも手に入れた自分には。いまだかつて誰も手にしたことのない力を得た。誰よりも誇り高く生きようと誓った。それなのに、「男」はまったきものとして依然白虎を脅かす……


 友はこの手にうちに(というよりも松枝帝の手のうちに)残り、右大臣夫妻の不仲の噂だけが後ろ暗く漂うばかりであったけれども、この時以来の憎悪と嫉妬とを、白虎は柏木右大臣かしわぎのうだいじんに対して忘れたことがなかった。あの蛍の御幸の夜も、右大臣の存在はこの上なく重苦しく不愉快なものに思われてならなかった。まさか右大臣は朱雀に視線を寄こしたり、気を引こうとしたりするような軽率なまねはしなかったけれども、白虎には斜め後ろあたりにわだかまっている彼の一行の影がこの上なく無礼で忌々しいものに感ぜられてしかたなかった。一行を遠のけるため、白虎は川の狭まっているところを見つけると、すばやく朱雀の身を抱き上げて対岸へと渡ってしまった。あちらのほうが蛍がよく見えるからなんだのと理由をつけて。朱雀は抗わなかった。


 朱雀を優しく抱き下ろしたとき、藺笠の衣が白虎の髪にもつれて、その端が一瞬、白虎の肩の上に留まったままになった。すると、一匹の蛍が衣の内へと入り込んできて、朱雀の顔を間近で照らし出そうとした。


「あっ」


 という声は朱雀と、白虎の口から共にこぼれた。対岸の人に顔を見られることの危惧が同時に二人の胸を押したのであった。それとともに、白虎を襲い来たのは恐怖であった。なじみ深くも厭わしい恐怖。


(あの男にこの女性ひとの顔を見せてはならない……!)


 白虎は咄嗟に朱雀の後頭部に触れた。そのまま自分の肩で朱雀の頬を覆い隠すつもりでいたのだ、きっとその時は――ああ、今思い出してみてもなぜあんなことをしてしまったのかがわからない。きっと蛍が照らし出してしまったから。純粋なる驚きのために瞠られた瞳を。彼女にはもっともふさわしからぬと思っていた、けれども実際には愛らしくて仕方のなかった、あどけない瞳を。


 気がついたとき、白虎はその鼻梁の影で朱雀の鼻梁を、頬で頬を、唇で唇を覆っていた。


 蛍火がかき消え、朱雀の手から灯籠がすべり落ちた。二人を照らし出すものはなかったから、対岸の人には二人の身の寄せ方は、芦辺で眠る水鳥の羽交はがいのありかほども明らかではなかったはずであった。知っていたのはたった二人だけである。そのうちの一人は青ざめながら身を離し、かほど夢見た熱さも甘さも剥がれ落ちゆくのを止めることもできずに茫然としていた。もう一人はすでに取り落とした灯籠を拾い上げようと身を屈めていた。先に間近に迫ったものはすでに全て薄い衣の後ろに隠れていた。


「白虎、虫篭が落ちていてよ」



「白虎、扇が落ちていてよ」


 無頓着な沈黙は破られた。朱雀の全く無頓着な言葉ひとつによって。白虎は長い夢からさめたように目をしばたかせた。そこはまばゆいばかりの夏の午後であった。


「ああ、すまない……」


 拾い上げた扇で白虎は京姫の額を再び扇ぎだした。だが、なぜだか手元が覚束ない。いびつな風を受けている京姫も不快そうにかすかに声を立てられている。見かねて朱雀も言った。


「貴女も暑いのではなくて?」

「君は暑くないのかい?」

「暑いわ」


 と朱雀は言い放った。その調子が白虎をまたまごつかせた。


(彼女はたとえ暑くとも傍目には少しもそれと見せぬのだ)


 白虎はその一事だけを幾度も幾度も胸に繰り返した。


(朱雀は隠しこそすれども嘘はつかない。ずっと一緒にいたから私は知っている。「暑い」という彼女の言葉は真実で、そうとは見えない私の目も恐らくは正しくて。ああ、ともすると、曖昧になるのは蛍の御幸の記憶の方だ……)


 はたして二人は触れ合ったのだろうか。朱雀は触れ合ったという事実を認め得たのだろうか。唇が触れ合うことは「暑さ」ほどの意味をも持たないというのだろうか。


(いっそ怒ってくれればよかった。たとえあれきり彼女が私に口を聞いてくれなかったとしても……いや、駄目だ!彼女に憤りなどふさわしくないから。まるで何事もなかったかのようにふるまうことこそ、まさしく高貴な彼女らしい。それでも、私の行為は「暑さ」ほども、蛍火ほどの意味もないのだという、その事実だけはどうしても……!)


 彼女は言ってくれたのに。凍えるほどに寒かった真冬のあの日――「心配ないわ。貴女のことは私が助ける……絶対に」。言葉通りに救ってくれたのに。優しく微笑みかけてすすり泣く自分を抱きしめてくれたのに。


 否!否!それよりも今現に、これほど彼女を愛しているというのに……!


「白虎、また扇が……」


 京姫の額を拭いつつ瞳ももたげずにつぶやいた朱雀の言葉は途切れた。朱雀の唇が涼やかな彼女自身の言葉の代わりに押し当てられたのは、蛍火よりも暑熱よりもずっと熱いものであるはずだった。固くつぶった瞼を透かして京姫の体に染み入る、黄金の雨のような日差しよりも。乱れて吐かれる京姫の息よりも。その腿の内側に震える汗の玉よりも。でも、姫君の薄い胸のなかにうずまく感情よりは……?


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