第二十四話 短夜
24-1「白虎、扇が落ちていてよ」
男装の麗人と呼ばれるようになったのはいつのころか。女の身で男の
そして、女の身で女を愛するのは…………
「あら、白虎」
かの
風は死に、真夏の日は金色の暑熱を京に注ぎ込み、人々の瞳を澱ませ、蝉の声を煽り、池の面さえをも燃え立たせている。月のもののために元気をなくし、めずらしく午睡をされている京姫の額にも、重たげな前髪の裏側から汗が滲みでてくるらしい。朱雀は扇を動かす手を時おり止めては、その汗をていねいに拭いとって差し上げている。しかし、当の朱雀はといえば、いかにも季節の主らしく悠然としていて、夏物とはいえ豪奢な衣裳を重ねていても汗ばむ気配すらみせなかった。
……この
「……姫さまの具合は?」
「あまりよくないわ。玄武が薬を煎じてくれたので少しは楽になったようだけど」
「おかわいそうに」
朱雀のかたわらに腰かけて京姫の顔をのぞきこみながら、白虎はつぶやいた。朱雀の扇ぐ風を受けて京姫の寝顔はやすらかであった。白い瞼には脈が透けていたが、頬は赤かった。唇は眠っているときのくせでかすかに開き、まくれたところだけが外気に触れて乾いている。上半身は涼しげな
「立ち寄ったのは何か用でもあって?」
白虎に扇を取り上げられても反応ひとつ示さずに、朱雀は尋ねた。白虎は京姫と朱雀とに風が行き渡るように扇いだ。
「いや、仕事がはやく片付いてしまったから、姫さまのお顔でも見ておこうかと思って」
嘘だ。本当は朱雀が桜陵殿に来ているのだと聞いて、それでやってきたのだ。紅の髪の一房が風に揺られるさまを見るためにここにやってきた。朱雀は「そう」とだけ応えた。
「君こそどうしてここに?」
「姫さまに呼ばれたのよ。午前中は青龍と玄武が面倒をみていたようだけど、二人は午後から
「ずいぶんと気が早いな」
「玄武にとっては初めてですもの」
その時、京姫が小さく声を漏らされたので、朱雀と白虎とは口を閉ざした。しばらくの間、二人は黙って姫の寝顔をうかがっていたが、朱雀の態度には沈黙がそのまま続こうとも一向に構わないといったような無頓着さが見て取れた。
たとえその沈黙が、白虎に唇をすくいとられたためという無理強いされたものであったとしても、朱雀は無頓着さを片時たりとも手放さなかったにちがいない。この春、
……川は浅く、黒い水は流れるというよりは川底を這うようにゆるやかに進み、踏みしめた足元を洗っていた。
朱雀は言葉少なであり、こうした行事のときにも無暗にはしゃごうとしないのが、
感情の方では容易に動かされない朱雀であったが、川端の歩きにくい道を進まねばならぬので、白虎が次の足場へと導こうとするのにはすなおに従った。かさばる大きな花のような朱雀の体は白虎の手にすっかりゆだねられていて、引き寄せれば引き寄せるだけ白虎の胸元に近づいて、ある時ふと溶け入ってしまうのではないかとの幻想を起こすほどであった。白虎はそれでもこの誰よりも大切な友、そして心より愛する女性を相手に図々しい真似をする気にはなれなかったので、いつもごく自然な、微妙な距離をあけたところに朱雀の身を置いていた。朱雀の呼吸が(時にそれは夜風であることもあったが)衣をかすかにそよがせて白虎の頬にかかると、それに呼応するように抱えている腰元が沈み膨らんだりする。そんな感触の方が、身を寄せ合っているよりも執拗に、悩ましく、息づく朱雀の体を伝えてきた。
ところで、白虎がずっと気になっていたのは、自分たちより後方、少し離れたところを伴の者を従えつつも陰気なほど黙然と歩を進めている右大臣一行なのであった。
白虎はもとよりこの男が気に入らなかった。その野心、抜け目のなさ、剛毅、筋の通った冷徹さ――この男の政治家としての才能を政治的力量へとまっすぐに流し込んでいく、これらの性質が気に食わなかった。だが、柏木家などという無名の家に生まれながらもこの男が若くして出世の道を駆けのぼった理由は、単に才と性質のためばかりではない。恐るべき強運が彼をここまで導いたのである。
二条の乱――白虎にとってはこの世の何よりも忌まわしい事件――を未然に防ぎ、逃げ散る二条家の者どもを捕らえたかどで、この男は帝の覚えめでたきところとなった。松枝帝は後裔すでに絶えし神代の武人の名である
なんたる身の程知らずであろうか……!
降嫁のとき、朱雀は十四、白虎は十三であったが、すでに白虎がこの美しい
友はこの手にうちに(というよりも松枝帝の手のうちに)残り、右大臣夫妻の不仲の噂だけが後ろ暗く漂うばかりであったけれども、この時以来の憎悪と嫉妬とを、白虎は
朱雀を優しく抱き下ろしたとき、藺笠の衣が白虎の髪にもつれて、その端が一瞬、白虎の肩の上に留まったままになった。すると、一匹の蛍が衣の内へと入り込んできて、朱雀の顔を間近で照らし出そうとした。
「あっ」
という声は朱雀と、白虎の口から共にこぼれた。対岸の人に顔を見られることの危惧が同時に二人の胸を押したのであった。それとともに、白虎を襲い来たのは恐怖であった。なじみ深くも厭わしい恐怖。
(あの男にこの
白虎は咄嗟に朱雀の後頭部に触れた。そのまま自分の肩で朱雀の頬を覆い隠すつもりでいたのだ、きっとその時は――ああ、今思い出してみてもなぜあんなことをしてしまったのかがわからない。きっと蛍が照らし出してしまったから。純粋なる驚きのために瞠られた瞳を。彼女にはもっともふさわしからぬと思っていた、けれども実際には愛らしくて仕方のなかった、あどけない瞳を。
気がついたとき、白虎はその鼻梁の影で朱雀の鼻梁を、頬で頬を、唇で唇を覆っていた。
蛍火がかき消え、朱雀の手から灯籠がすべり落ちた。二人を照らし出すものはなかったから、対岸の人には二人の身の寄せ方は、芦辺で眠る水鳥の
「白虎、虫篭が落ちていてよ」
「白虎、扇が落ちていてよ」
無頓着な沈黙は破られた。朱雀の全く無頓着な言葉ひとつによって。白虎は長い夢からさめたように目をしばたかせた。そこはまばゆいばかりの夏の午後であった。
「ああ、すまない……」
拾い上げた扇で白虎は京姫の額を再び扇ぎだした。だが、なぜだか手元が覚束ない。いびつな風を受けている京姫も不快そうにかすかに声を立てられている。見かねて朱雀も言った。
「貴女も暑いのではなくて?」
「君は暑くないのかい?」
「暑いわ」
と朱雀は言い放った。その調子が白虎をまたまごつかせた。
(彼女はたとえ暑くとも傍目には少しもそれと見せぬのだ)
白虎はその一事だけを幾度も幾度も胸に繰り返した。
(朱雀は隠しこそすれども嘘はつかない。ずっと一緒にいたから私は知っている。「暑い」という彼女の言葉は真実で、そうとは見えない私の目も恐らくは正しくて。ああ、ともすると、曖昧になるのは蛍の御幸の記憶の方だ……)
はたして二人は触れ合ったのだろうか。朱雀は触れ合ったという事実を認め得たのだろうか。唇が触れ合うことは「暑さ」ほどの意味をも持たないというのだろうか。
(いっそ怒ってくれればよかった。たとえあれきり彼女が私に口を聞いてくれなかったとしても……いや、駄目だ!彼女に憤りなどふさわしくないから。まるで何事もなかったかのようにふるまうことこそ、まさしく高貴な彼女らしい。それでも、私の行為は「暑さ」ほども、蛍火ほどの意味もないのだという、その事実だけはどうしても……!)
彼女は言ってくれたのに。凍えるほどに寒かった真冬のあの日――「心配ないわ。貴女のことは私が助ける……絶対に」。言葉通りに救ってくれたのに。優しく微笑みかけてすすり泣く自分を抱きしめてくれたのに。
否!否!それよりも今現に、これほど彼女を愛しているというのに……!
「白虎、また扇が……」
京姫の額を拭いつつ瞳ももたげずにつぶやいた朱雀の言葉は途切れた。朱雀の唇が涼やかな彼女自身の言葉の代わりに押し当てられたのは、蛍火よりも暑熱よりもずっと熱いものであるはずだった。固くつぶった瞼を透かして京姫の体に染み入る、黄金の雨のような日差しよりも。乱れて吐かれる京姫の息よりも。その腿の内側に震える汗の玉よりも。でも、姫君の薄い胸のなかにうずまく感情よりは……?
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