23-6 「……蛍にみちびかれて」


 最初は帝のお近くを歩いているつもりであった。お近くといっても、護衛が取り巻くその後ろあたりを。もしかすると、兄が振り返って気づいてくださるかもしれないと思ったのだ。二言三言でも言葉を交わせればそれで充分だ。とにかく主上が自分の存在を認めてくださるならば。昔のように親しげに微笑んでくださるのならば。


 左大臣が先ほどから騒がしいのは、蛍を見つけて捕まえてくるようにとお付きの者たちに命じているのらしい。右大臣はまるで自分自身の影と入れ替わったかのように黙りこくっている。決して無口というのではないが無駄口は叩かぬ方なのでいつも通りといえばいつも通りだが、それでも今宵は異様な寡黙さだ。紫蘭とて人のことを言えた義理ではないとはいえ。


 いつの間にやらどこぞの橋を渡ったとみえて、対岸に四神たちの姿がちらちらしている。朱雀と白虎が先を、玄武と青龍がそこから離れたところを歩いている。燈籠の橙色の灯のほかに時おりひわ色の光が女どもの手元を照らすのは、どうやら蛍を虫籠に集めているらしい。蛍は静かに明滅をくり返しながら、淡く濃く川辺を飛び交ってはいたが、今年はさほど多くはなかった。昨年や一昨年の、体の感覚さえも奪われていくような、空恐ろしくなるほど幻想的な風景をまだ鮮やかに記憶している一行には、今年の蛍狩りは幾分退屈であった。今宵の興は蛍よりも親しい者同士の会話の方に置かれつつあった。


 帝もその例に漏れなかった。帝は時おり大臣たちに話しかけはするけれども、他はお供に連れている薄色の髪の女房と語りあうのにご熱心で、ついに紫蘭の方は顧みられなかった。浅い失望が、紫蘭を一行から遠のけた。



 ……とはいえ、紫蘭だけがその蛍に気がついたというのは後々になってからよく考えてみれば奇怪なことである。鶸色の光の群れから薄紫の光がひとつ飛び立つのをみた紫蘭は、不思議な色に興味をひかれてつい瞳でその動きを追った。宵闇の瞳は似通った蛍の色にたちまち染まった。蛍は紫蘭の頭の上でゆらゆらと揺れたあとで、葦の頭をかすめて姿を消し、かと思えば再び紫蘭の目の前にあらわれた。紫蘭の足は知らぬ間に蛍の光に従っていた。もはや人々のささやきかわす声も、燈籠の色も紫蘭の世界からは消え去っていた。


「おや、紫蘭の君は?」


 蛍は闇を縫うように飛んだ。紫蘭はただ無心にその後を追っていった。何の考えもなく、ただ帝に顧みられなかったことのへの失望の名残りを、心の受け皿に湛えて、駆けるとともにこぼしながら。感情は足跡を濡らして滲んだ。


「兄上!」


 兄上?一体誰のことを……


「兄上、いらしてください。すごいものを見つけたんです!」


 ああ、そうだ。主上を兄上と呼んでいた時代もあったものだ。懐かしい。


「お庭に美しい鳥が来ております。三条のお母さまが持っていらっしゃる、くしろのような色なのです。早くいらっしゃらないと、飛び去ってしまいますよ!」


 ああ、なんて愚かな僕。幼い僕。かわいそうな僕なのだろう。


 あの時、主上は振り返っておっしゃった。いつもと変わらないお優しい笑みで。


「それは翡翠かわせみですよ、紫蘭……ごめんなさい、私はこれから勉強があるのです。もう行かなければ」



「待って、兄上……!」


 自分の声に驚いて目をしばたいた紫蘭は、ゆるやかな覚醒のなかで自分が闇のなかに立ち尽くしていることを知った。ここはどこであろう……?見知らぬ道のまんなかに紫蘭は突っ立っているようだ。東雲川をよほど離れていることは川のせせらぎが聞こえぬことからも明らかである。目を凝らしてみると道の左右には壁のようなものが道沿いにまっすぐに続いていて、紫蘭が今向き合っている方には石垣のようなものがそびえ立っている。手に持った燈籠を掲げてみると、そのところどころには草が生えていて、積み上げられた石も雨風に吹き晒されて白く色褪せている。見覚えのない光景だ。それから紫蘭は背後を振り返り、背の高い瓦屋根のある壁が白くぼんやりと浮かび上がっているのを見た。その瞬間、紫蘭は衝撃を受けた。これは内裏のなかではないか。


 では、自分は東雲川から知らず知らずのうちに青龍門をくぐり抜け、京を横断し、内裏のなかへと忍び込んだというのだろうか。それも徒歩かちで?ばかな。そんなことがあり得るはずがない……!仮にそうだとしたらとんでもない時間が経過してしまったことになる。今宵は月が出ていないから鐘の鳴らぬかぎりは確かめる術もない。


 紫蘭はふと、月のない夜なのに見通しがきくのは石垣のうちから灯りが漏れ出ているからだということに心づいた。かすかに人の気配も感じられる。恐らくここは後宮のどこかであろう。紫蘭はかつて子供であったとき、当時は三条のお母さまと呼んで慕っていた牡丹の女御のお許しのもと、後宮を自由に歩き回っていたものだ。そんな紫蘭にも見覚えがなく、そして石垣に囲まれている場所――


「……誰?」


 紫蘭は驚きのあまり飛び上がりそうになった。狩衣の袖で燈籠の灯を覆い、慎重に後ずさって声から離れようとする。声は、石垣の内より聞こえてきた。


「誰かいるの?」


 可憐な少女の声だった。紫蘭の記憶を揺さぶり起こす声。ここがどこであるかという紫蘭の推測とぴたりと符牒する声。


 紫蘭は返事をしたものかと迷った。どのような理由であれここにいるというだけで死罪に値するのだ。命が惜しいというならばさっさと立ち去るにかぎる。殊に人に感づかれたともなれば一刻の猶予とてない。しかし、今呼びかけている声の主はかの少女である。知らぬ顔ではないのだし、少女にとって紫蘭は恩人だ。うまく丸め込めさえすれば人知れずこの場を脱出する手伝いをしてもらえるかもしれない。姫君の幼さを利用すれば……いや、あの幼い姫君はそこまで知恵がまわるのだろうか。


「あっ」


 声は二人の口から同時にこぼれた。少女は蛍の光によって、闇のなかに青年の顔を見出した。そして青年は石垣の隙間に玉のようにきらめくものを見出した――三条のお母さまの持っていらっしゃる釧のような色……


 翡翠かわせみだ、と紫蘭は思った。


「……紫蘭さん?」


 しばしの沈黙ののちに少女が尋ねた。


「そのお声は京姫さまですね」

「どうして……どうしてこんなところに。誰かに見つかったら……」


 京姫の声はか細く震えていた。少女がうるさく騒ぎ立てないでいることに、紫蘭はまず安堵した。他人の動揺はいつも紫蘭を平静な気持ちにさせるが、他ならぬ紫蘭自身よりも京姫の方がはるかに動揺している今この時も、姫の声が紫蘭を不思議と落ち着かせた。紫蘭は見えもしないのに、京姫の瞳がひらめいたあたりに微笑みさえも浮かべてみせるほどだった。かくなる上はやはりこの少女を上手く利用するしかないのだから。


「……紫蘭さん?」

「はい」

「ほんとうにそこにいるの?」

「えぇ」


 紫蘭は袖で覆ったまま燈籠をかかげると、頬の横まで持ち上げたところで袖を離した。蛍の光よりももっとあざやかな橙色の明かりが紫蘭の顔を照らし出した。それとともに、石垣の隙間からのぞく京姫の瞳も輝いた。京姫が息をのむ音が聞こえた。


「ほんとうに紫蘭さんだ……!」


 微笑みながら見つめているうちに京姫の瞳がゆらめきだした。このゆらめきを紫蘭はよく知っている。これまで一体いくつの女たちの瞳が紫蘭の姿をとらえてこのようにゆらめきだしたことか。女たちはゆらめきをともした瞳を紫蘭に向けてあるいは微笑み、あるいは顔を逸らし、あるいは取り澄ましてみせたものだ。京姫はそのいずれの所作もしなかった。ただ、まるで紫蘭の姿を閉じ込めようとするかのように瞳を閉ざした。みずみずしい翡翠色の瞳を。


「信じられない。また会えるなんて思ってもみなかったから……でも、どうしてここに?」

「……蛍にみちびかれて」


 「えっ?」と京姫は訊き返した。紫蘭はさすがに赤面した。何を言っているんだ、僕は。僕までもがこの少女の感傷に取りこまれてどうする。


「いいえ……月のない夜ですから道を誤りました。どうかどなたにも仰らないでください、姫さま。わたくしは死罪になってしまいます」

「わ、わかった……!」


 死罪という言葉が少女に及ぼす作用を見届けて、紫蘭はようやく元の自分に立ち返れた気がした。さて、あとはどうにかしてここから脱出する術を探るだけである。紫蘭は身を屈めると石垣へと顔を寄せて声をひそめた。燈籠をおろしても闇に慣れた目は少女の瞳をまっすぐに捉えることができた。


「姫さま、ここからどうやって出ればよいのか知りませんか?」


 京姫は困惑したようすである。


「ごめんなさい、私、ここから出たことがないからわからないんです……あっ。でも、四神のみんなが来るときはいつもあっちから来るの。私、いつもここからこっそり見てるんです。だから多分あっちに北門があるはず」


 あっちと言いながら、姫は石垣の隙間から手を出して、姫から向かって左側、紫蘭にとっての右側を指さした。紫蘭はそちらに一瞥をくれた。


「北門から誰にも見られずに出ることは可能でしょうか」

「どうかなあ。北門は警備がすごく厳しいって聞いたことがあるけれど。後宮に一番近い門でしょう?誰か悪い人がお后さまのところに入ったら大変だからって。でも……」


 京姫の目は紫蘭の視線にならって北門のある方を向いていたが、急に口ごもると紫蘭をまじまじと眺めはじめた。不審に思った紫蘭が見返しても、京姫は先のように瞳をゆらめかすでもなく何かじっと考えに耽っているようであった。


「入るのは難しいけど、でも出るのは簡単かもしれない」

「一体なにを……」

「ちょっと待っててくださいね!」


 京姫は言うなり石垣のそばを離れて脱兎のごとく走り去っていく。紫蘭が止めるひまさえなかった。一体何を考えついたというのだろう。「誰か悪い人がお后さまのところに入」るというその意味も知らなさそうな京姫が……紫蘭は不吉な予感がした。何を考えついたにせよ、所詮ろくなものではあるまい。それに誰かに感づかれたら一大事である。京姫が戻ってくるより前に何か自分で策を講じた方がよさそうだ。


 北門に門番がいるのはまず必定のことである。気づかれずに出るのは不可能だ。となると、このまま石垣を左手側にまっすぐ伝い、後宮の庭抜けて東宮のおわします青桐舎に至り、東門から内裏を出た方がよさそうである。ひどく時間がかかるであろうし、警護の者に見つかる恐れはあるが、ここで朝が来るのを待っていても仕方がない。誰にも咎められずにここに来たのであれば、出ることも可能なはずだ。しかし、全くどうやって自分はこんなところに迷い込んだのだろう。


 京姫の声が進みかけた紫蘭を呼び止めた。無視して歩き続けるという手もあったが、それはあまりにも非礼にあたると思いなおして紫蘭は引き返した。京姫ができるだけ小さな声で紫蘭を呼び止めるべく、何度も何度も名前を呼ぶのがいじらしくもあったので。


 石垣の隙間のところへ戻ると、紫蘭は慇懃に頭を下げた。


「失礼いたしました、姫さま。しかし、この場に長くとどまっているわけには参りませぬので……」

「ねぇ、これ、使って……!」


 ふわりと石垣を越えて舞い降りてきたものが紫蘭の視界と言葉を遮った。やわらかな布地のようなものである。紫蘭が頭からそれを取りのけて闇のなかで広げてみるとそれは女物のうちきであった。


「これは……?」

「それを被って女房のふりをすれば北門から出ていけると思うの。門から入るのは難しいけれど、出ていくのはそんなに厳しくないはずだから」


 よどみなく言い切る京姫に紫蘭は当惑した。


「しかし、さすがに気づかれるのでは?男が女のふりをするのですよ。門番とて不審に思いましょう」

「大丈夫。今夜は暗いから、男か女なんてはっきりと見えないはずだもの」


 紫蘭は広げた袿を前に思案した。袿にかつて焚かれていたらしい香のにおいが初夏の風に吹かれてかすかに鼻孔をくすぐった。突飛な案とはいえ、京姫の提案は決して無下に退けたものではない。門番ひとりの目をごまかせばよいのであるし、人目におびえながら内裏のなかを延々とさまよい続ける必要もないのだから。問題はその門番ひとりを出し抜けるかということである。もし正体が露呈したらその場で一巻の終わりだ。


 闇は紫蘭の正体を包み隠してくれるだろうか。敵対する時には手ごわいものが味方になると頼りなくなることはままあることだ。それに、出ていく者には門番も注意を払わないという京姫の言葉も信じてよいものか。話にはいくらか聞いているのかもしれないが、姫自身は北門をくぐったことはないのである。


 紫蘭の不安を察したものか、賢しげなきらめきを灯していた京姫の瞳はみるみるうちに翳っていった。


「だめかな?いい案だと思ったんだけど」

「いえ、よい案だと思われますが……」


 紫蘭はそれ以上の言葉に窮した。思考も感情も言葉にしたところより深くは進んでいかなかった。よい案だとは思われる。だが、どうしても不安が残る。


(……しかし、東門に行き着くまでにどれだけの時間がかかると思っている。第一、誰にも見つからずに東門へと辿り着けるか怪しいものだ。夜も更ければ門から出ることもかなわなくなる。今はまだ姫も起きているのだから、そんなに遅くはないはずだ。女房が急な用事で出かけていってもさほどおかしくはないだろう。とはいえ、この袿ひとつで本当に門番を出し抜けるだろうか……)


 紫蘭はなにか温かいものを頬の上に感じて、袿より顔を上げた。京姫の指が紫蘭の頬に触れている。姫の指は頬を過ぎて耳に、それから紫蘭の長い黒髪に触れた。紫蘭が戸惑い見守るうちに、懸命に伸ばされた京姫の二つの指が紫蘭の髪飾りの端をつまんだ。紐がほどかれた。


 結わかれていた黒髪が流れ出し、つややかな夜の川が氾濫するように狩衣の肩の上にかかって背の方まで広がった。桃色に上気した姫の指先は水晶の珠をはさんだまま、なおも宙に伸べられていて、その飛沫を浴びた。紫蘭の黒髪の一房が、姫の人差し指にもつれて絡んだ。その光景は小さな足をとられて飛べなくなった小鳥を、紫蘭に想像させた。


 あの日、兄ともども紫蘭を見捨てて飛び去った翡翠かわせみが思いがけずこの手に飛び込んできたのだ!指先から伝わる小鳥の戦慄――京姫の恋は小鳥を掌に抱いてその小さな速い鼓動を感じるよりも明らかだ。姫君がまだ恋を自覚していないことさえも、経験においても狡知においても姫に勝る紫蘭にはたやすく見透かせてしまうのであった。


「髪、ほどいたほうが……女性らしく見えると思って…………」


 京姫が見知らぬ感情におぼれつつも、必死になって、とぎれとぎれに呼吸をしているなかで、紫蘭もまた優越と当惑とのはざまで途方に暮れていた。少女がただの少女であれば紫蘭は向けられた感情を冷たく突きかえすこともできたであろうし、優しく受け容れるふりをして持ち帰りあとでこなごなにすることもできただろう。それらは所詮ひな遊びの恋であるから良心も痛まずに済むというものだ。


 この少女の場合とてひな遊びの恋であることには変わりない。ただ世の少女の恋が生まれて砕け散るさままでひな遊びのなかで完結し得るのに対し、この少女の恋は違っている。この少女は京姫なのである。玉藻の国を統べる帝の妻、帝さえも手を触れてはならぬ神聖なる姫巫女なのである。そうした姫君に愛されることの罪深さ。罪深さに比例して高まる驕り。なにか計り知れぬものがこの手の上に預けられたような恐怖。この恋は遊びもののようなものとはいえ、紫蘭の身を、また姫自身をも破滅させ、帝を傷つけ、この国を揺るがしかねない。並の少女ならばひいなにままごとをさせるのにも空想の炎で我慢するよりほかないが、この少女の場合は本物の炎を与えられているから厄介だ。ままごとの火は家屋に燃えひろがり、本物の生活を脅かしかねない。


(僕は慎重に立ち回らなければならない。己惚れも優越心も徹底的に殺すのだ。たとえ主上のものを、いや、主上さえ手に入れられぬものを手にした喜びが僕を惑わせようとも……)


 紫蘭は目を細めた。それが姫の目にはいかにも意味ありげに、憂いを帯びてみえることなどまるで心づかずに。


(それは鳶の喜びだ。人のものを掠めとる卑しい喜びだ。いずれこの少女も地に堕ちる。京姫の地位を失い、信仰も尊敬も失い、帝の庇護をも失って、ありふれたつまらぬ女になるのだ。他ならぬ僕の手によって……)


「……紫蘭さん、私、そろそろ戻らないと」


 少女の声は煩悶を乗り切ったらしく、少し落ち着きを取り戻していた。紫蘭もまた我に返った。


「これは失礼いたしました。もうおやすみの時間でしょう」

「うん、女房がもう呼んでるから。紫蘭さんも人に気づかれたら大変だし……ねぇ、紫蘭さん。これ、私が預かっててもいいですか?」


 京姫が「これ」と呼んだのは指先ではさんでいる紫蘭の髪飾りであった。いつか紫蘭が姫君に差し上げるといって断られたものである。今更になって欲するというのは、恋の形見がほしいというのか。紫蘭は眉をひそめた。無論差し上げる分には構わないが、姫の恋心を余計に煽り立てることにはならないだろうか。


 紫蘭の表情を誤解したらしく、姫は慌てて言った。


「ち、違うの!きっとお返しします。ただ、紫蘭さんが無事に門を抜けられるように助けられるんじゃないかなって思ったんです。私、いちおうは京姫ですから……この髪飾りを通して、紫蘭さんに護りの術をかけておきます。そうしたら絶対に無事に帰れますから」


 信仰を否定する心は微笑みとなってあらわれた。取り合う必要もない、だから拒むほどのことでもないというのが紫蘭の理論である。決して決して、自分は京姫の護りなどというのを信じたわけではない。


「それはとても心強いことです。ありがとうございます」


 紫蘭の返事に京姫も微笑んだ。


「よかった。じゃあ、紫蘭さん、どうかご無事で……」

「姫さまもお元気で。今宵のご恩は決して忘れません」


 紫蘭の言葉にはまんざら嘘が含まれていなくもなかった。そのせいだろうか。桃色の指先を長い髪からはずしてもらって、水晶の飾りを大事に抱きしめた京姫がゆきかけた足を止めて、再び石垣のすきまへと舞い戻ってきたのは。


「紫蘭さん……!」


 哀切なひびきであった。すでに石垣を離れていた紫蘭は袿の下から振り向いた。


「……おやすみなさい」

「おやすみなさいませ、姫さま。よい夢を……」


 夜の風はこの上なく幸福な少女とかつてなく優しい心地に浸っている青年とをわかち、石垣と城壁のあいだを吹き抜けていった。



 終焉まであと八月やつき――


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