23-5 「幸せになるよりも」

 ようやく梅雨の明けた喜びから、玄武はいつもの修練も怠ってかわいい女童めのわらわを二人庭に立たせ、その姿を筆で描きとっていた。女主人の周りには女房たちが寄り集まって、女童の立姿と玄武の筆先とをものめずらしそうに交互に見遣っている。


 玄武が人前で絵を描くことを躊躇しなくなったのは、さる花の月の十二日、北の方の出産のために月宮参りを欠席した兄のために、月修院の風景を描いて送ったとき以来であった。兄のお邸では何をしようと構われなかった玄武であったが、この家では女主人のすることなすことが女房たちの関心の的なのである。最初はなかなか慣れずに居心地の悪い思いもしたものの、女房たちの好奇心は決して悪意のあるものではなかったので段々と気にならなくなってきた。玄武の警戒も次第にゆるんでいき、絵を仕上げるころには女房たちが邪魔にならないようにこっそりと覗きにきても、慌てて描きかけの絵の上に屈みこむということはなくなった。


 じっとしているということを知らない年頃であるから、双子のようによく似た女童たちは風が吹いてもくすぐったそうにくすくすと笑ったり、互いに顔を見合わせては身をよじらせてみたりして、玄武を困らせていた。そこへ雪乃がしずしずとやってきて、黙って玄武の傍らに立った。玄武は雪乃の痩せた体を見上げた。


「どうかした?」

「御方さま、すっかりお忘れですね。今宵は蛍の行幸ではありませんか」

「……あっ」


 雪乃に呆れられつつ玄武は筆を置いた。


「御車の手配はできています」

「ありがとう」

「そろそろお着替えをなさりませんと。さあ、奥のお部屋へ……あなたたちもご苦労でした。中に入りなさい」


 雪乃はこういうときも女童に対する配慮を忘れなかった。故に、雪乃は今では主人よりもはるかに主人らしくこの家を取り仕切り、また家中の尊敬を集めてもいたのである。



 雪乃のすばやい手配のおかげで玄武は夕暮れ前に玄武門付近の邸を出て、桜陵殿に至ることができた。後宮に接しているということもあり、北門からの参内を許されるのはごく限られた者ばかりである。そのごく限られた者のうちに四神が含まれていた。門をくぐるとすぐ目の前に桜陵殿を囲う石垣がそびえ立っている。門のうちに馬車を入れることは許されないから、玄武はそこから馬に乗り替えて(乗馬の技術もようやく習得したのである)四神の間を目指した。四神たちはこの部屋より出発することになっていたのである。


「すごい、玄武きれい!」


 玄武が部屋に入った瞬間、青龍はぱっと手を合わせて叫んだ。この日のために雪乃が作った黒地に水仙の花の模様の入った衣装も、短く切った黒髪の右耳の上のあたりにきらめく花の髪飾りも、どちらも玄武によく似合っていた。玄武は照れて立ち止まった。


「そ、そうかなあ?」

「わあ、ほんとだ。すてきだね!」


 京姫も白虎の腰元より顔を覗かせて褒めた。


「いいなあ。私も衣裳ぐらいはすてきなのを着せてもらえばよかった。そうしたら気分だけでも味わえたのにね」

「姫さまはそのままでお綺麗ですから」


 袂に甘えかかられて、いつにも増して優美な袴姿の白虎は、京姫の頭を撫でた。この部屋に集ったなかで着飾っていないのはただひとり京姫だけであった。


 蛍の行幸は毎年蛍の月の朔日ついたちに行われる行事であり、行幸とはいっても京の東を流れる東雲川しののめがわを、帝を先頭にした一行が徒歩かちでめぐるだけののどかなものである。この遊行には四神たちが参加することとなっていたが、内裏を出られぬ京姫はひとり置いてきぼりにされるので、この日になるとぐすぐすと泣いて拗ねるのが恒例であった。ところが、京姫は今年になってようやく涙を封印することに決めたらしく、皆を驚かせているところへ、ちょうど玄武が到着したのだった。


「今年は泣かれないのですね」

「だって、もう大人だもの。あっ、でもおみやげは忘れないでね!」

「えぇ、わかっておりますとも」


 「おみやげ?」と玄武が聞き返すと、蛍のことだと京姫は嬉しそうに答えた。


「玄武も捕まえてきてね。お庭に放すんだから」

「ああ。姫さまはお庭で蛍狩りをされるのですね」

「そう!でも一人だとつまらないの。主上がいらっしゃればいいんだけど、このところちっとも来て下さらないし。月宮参りの時のことまだ怒っていらっしゃるのかな。左大臣はそう言うんだけど」

「まさか。そんなはずはありません」


 白虎は京姫の髪を指で梳きながら慰めたが、その瞳が姫を離れて床の上をさまよっていることに玄武は気づいていなかった。


 間もなく出立の時刻が来た。四神たちの迎えにきた左大臣に京姫が飛びついて左大臣が腰を抜かすささやかな一幕が繰り広がられたあとで(姫曰く「久しぶりだったんだもん!」左大臣曰く「ほんの五日ぶりではございませぬか?!」)、姫君に見送られて一同は出発した。京姫はおみやげの念押しを忘れなかった。


「まったく、少しは成長したかと思いましたのに子供っぽいところは変わりませぬな」


 そう言って肩をすくめつつも、左大臣は京姫から渡された虫籠をきちんと提げているのである。




 帝を筆頭に、今年の行幸には左右大臣以下二十名ほどの臣下どもが参加していて、一同は南門から内裏を出て、車と馬とで東雲川へと向かった。


 この頃、被衣をするのが億劫になってきた玄武は夕闇をよいことに顔を晒していた。だって、青龍も白虎もそうしているのだし、何らおかしいことはない。車から降りると、涼しい夜風が玄武の頬を撫ぜて駆け過ぎていく。玄武は心地よさに思わず息をついた。やはり雪乃の反対を押し切ってきて正解だった。どうせきぬ越しでは蛍も楽しめないことだし。


 川のにおいを帯びた風が再び吹きつけてきたその時、夕風とともに玄武の元へ駆け寄ってきて、さっとその手を取った者がいた。青龍であった。玄武は何も言えぬまま、薄闇のなかに固く結んだ唇を白く浮かばせている友の横顔を眺めていたが、やがて青龍の手が玄武を一行から遠ざけ、対岸に導いてしまうと、そこにようやく年ごろらしく胸をどぎまぎさせている少女おとめの姿を見出した。それを照らしだしたのは蛍をおびやかさないという、朱雀の用意した特別な灯籠の灯であった。


「どうかしたの?」


 玄武が尋ねても青龍はしばらく答えなかった。川辺を覆う背の高い葦の群れに阻まれて、次第に人々の声は消えていく。あとには薄曇りの夜空と、足元を流れる暗い川面のせせらぎと、二人の間でにじみだした手汗の温もりだけが残された。青龍は恥じたのか、ぱっと玄武の手を離すと着物の裾で拭った。つゆ草色に白で波模様を描いた美しい衣裳であるのに。


「青龍?」

「縁談の相手がいたの」


 青龍はひとりごとのように言った。玄武の方を見ようとはしなかった。


「左大臣の甥ごさんの乳母子めのとごなの。以前にも会ったことはあるんだけど、どうも気恥ずかしくって……」


 縁談の話はすでに聞いていた。数日前のこと、青龍が玄武の結婚生活のことなどを突然訊き出すからなにかと思えば実はこういう話があるのだとすなおに白状したからだ。玄武は驚くには驚いたが青龍が前向きにとらえているものだと思い込んで、自分の決して幸福ではなかった結婚生活の話など聞かせてよいものかと思い悩んだが、すぐにそれは杞憂であったことがわかった。縁談を断ろうという青龍の意志はゆるぎなかった。ただ、友人の意見も聞いておきたかったのだと言う。玄武は四神のなかでももっとも年齢が近く、唯一結婚生活の経験があったからだ。


「そういえば、芳野殿は説得できたわけ?」


 まさかこの数日で片がついたとは玄武も思っていなかったが、青龍はやはり首を振った。


「ううん。最近は少しあきらめかけてきてるんだけど、でもまだ粘ってる」

「そっか……」


 なんともいえない奇妙な感覚に玄武はおそわれた。それは友が自分の意志を貫いたことへの称賛でもあり、満足感でもあり、もどかしさでもあった。この度の縁談に対する青龍の態度はあまりにも頑なで、その拒み方はあまりにも必死で、不自然なようにみえた。そこまで必死にならなければいけない理由が玄武にはいまひとつ理解できない。玄武の半生は諦観によって成り立っていて、必死に何かを拒まなければならないということはついぞなかった。というよりは、拒んだところでまったく無意味であったのだ。両親の死も、結婚も、夫との死別も、四神として選ばれたことも、兄との離別も、とらえようもないほどに大きなものの手によって成し遂げられたものであり、非力な玄武には到底抗いようがなかったのだ。


 ただし、青龍の場合は違うのかもしれない……玄武は青龍の横顔を眺めつつ思う。意志の強さと利発さとが少女らしい可憐さの下に透けて見えている、凛々しい横顔であった。きっと自分たちは生き方が違うのだ。玄武は流れに身を任せきっている。不幸や悲しみは避けられないがひとり鬱々としている間に景色は移り変わる。全ての労力は感情の動きに費やされ、心は耐えず揺動しているがその身が傷つくことはない。青龍は自ら道を切り開いていく。突き進まなければ次なる景色は訪れないが、その景色は青龍自身が決められるのだ。無論、意外なる景色があらわれることもあるだろうが、立ち止まることも、急いで駆け抜けるのも青龍の自由である。草をかきわける手足は傷つき、歩み疲れた肺は軋むことだろう。だが、青龍はいつの日にか強く望んでいた場所へと至りつくはずだ。その時の喜びたるや、それはきっと……


 だが……


「ねぇ、青龍」


 ためらったのちに玄武が語りだしたのは、青龍が進む道を過たないように。あるいは自分の生き方を弁解するために。


「誤解させたかもしれないから言っておきたいんだけど、あたしの結婚生活も決して不幸だったわけじゃないよ。むしろあたしは恵まれてたと思う。旦那さまは本当に優しい方だったし、雪乃もそばにいてくれたし……あたしがそれでも幸せになれなかったのは、あたしの方で幸せになる気がなかったからなんだと思う。あたしは優しかった兄上のことばかり慕って、兄上とまた一緒に暮らせないかっていつもそればかり考えてた。自分の幸せは兄上のところにしかないんだって、そう思い込んでたんだ」


 川沿いを歩き続けていても蛍の影はない。玄武は左手に燈籠。青龍は右手に虫籠。片手は微熱を冷ますためにあけたままだ。玄武はぬるい風を吸う。


「だからつまり、何が言いたいかっていうと、あたしが幸せになれなかったのは、結婚自体が悪かったわけじゃないんだよってこと。たとえそれが強制された結婚だったとしてもね。青龍はさ、自分で自分を幸せにできる力があるし、自分にとっての幸せが何かもちゃんとわかってる……とあたしが勝手に思ってるだけかもしれないけど。でも、きっとそうだから。自分がそうしたいと思うことをするべきだよ」


 微熱が冷めきらぬうちに、そっと青龍の手を取った。青龍は横顔で空を見つめている。その唇が開きかけて閉じ、また開くのが燈籠の灯のなかに影絵のように浮かび上がってみえた。唇は小さく「ありがとう」と呟いたが、瞳はなおもこちらを向かない。玄武は肩透かしを食らったような気がして、やや悄然とした。青龍の手を包む右手から力が抜けていく。あたしの言葉はちゃんと伝わっているのだろうか。それとも生き方の違うこの友には無意味なのだろうか。あたしの言葉など。


 二人の沈黙に蛙が鳴いていた。夕闇のなかには影を失うものと影を得るものが混在し、実在と非実在を区切る、非情なほどに明快な真昼の摂理は極めて弱まっていた。二人の目は自らの衣裳の色さえ忘れる一方で、葦の根元にわだかまっている暗がりのなかにありもしない幻の生き物の存在を見取った。確かに初夏の風にはあらゆる生き物の呼吸が濃密に溶かし込まれていたけれども……たったひとつ確かなのは、互いの手の感触であった。一方には冷たく、一方には温かく。


「……玄武の言ったこと、よくわかってるよ」


 青龍は沈黙を薙ぐことを恐れるように静かにそう切り出した。


「結婚したら幸せになれるとかなれないとか、そんなの関係ないんだ。たとえこの結婚でこの世で一番幸せになれたとしても、それでも、あたしは駄目なの……」

「どうして?」


 青龍は答えない。それでも玄武は食い下がった。全てを流れにまかせる玄武であったにも関わらず。


「……ねぇ、青龍にとって、幸せになるよりも大切なものって何?」


 小さくも確固たる口調で青龍はまっすぐに前を見据えつつ答えた。


「……正義」

「正義?」

「そう。正しくあること。まっすぐに生きること。悪を罰し、善を成すこと。あたしにとっては正義が一番大事。正義を守ることが一番大事なの」

「でも、それと結婚ってどう関係が?」

「正義を守るためにはあたしはまだ人の妻になれないってこと……だって、忙しいからね!」


 玄武に向かって、ふわりと青龍は笑った。青龍がこんな風に儚げに笑うのを初めて見たが、玄武はそこになにかしらはっとさせられるものを見出した。それは真面目な言葉への照れ隠しのように思われるけれども、実はもっと深い真摯な感情を押し隠しているのではなかろうか。きっとその感情こそが、青龍の行動のすべての柱となっているのである。


 玄武は更に青龍の内部に分け入っていきたいような気がした。葦をかきわけて川岸を進むように。灯りを掲げて闇の向こうを照らし出そうとするように。何のためにこの手をつないでいるのだろう。温もりをわけあっても、皮膚と皮膚はやはり別個の肉体を包んで溶けあわない。


「あっ、蛍」


 青龍の指さした方を何気なく向いた玄武は、ひとつ、またひとつとまたたきだした鶸色ひわいろの光をどことなくうつろな気持ちで認めた。




 正義が水のように世界に流れさえすれば、きっとあの人のことを守れるだろう。


 いかなる奸計も邪知も正義によって打ち砕かれる世界であれば


 あたしがそうした世界を守りさえすれば


 あの人はきっと……

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