23-4 君を恋ふ

 手の届かない人。お傍にいることはできない人。それでもいい。あの人ともう一度会えるのであれば。もう一度だけ。たった二人で……



いにしえの神々は、暁に消え残る、かの星々。残されしこの身は一人、君を恋ふ……」



 芳野はこの歌を無暗に歌ってはならないという。天つ乙女の歌であるから、ごく限られた祭りの場でしか歌うことは許されないのであると。だが、京姫の唇は自然とこの歌を口ずさんでいる。このところは殊に頻繁に。


 芳野がいなくなったせいではあるまい。昼間までの雨が嘘であったかのように晴れ渡った星空を見上げ、裳の裾がひろがる楽しさにくるくるとその場で回りながら、京姫はひとり桜陵殿のお庭で「自由」を謳歌していた。誰も諌める者がいないというつかの間の気楽さや、背徳感に伴うひそかな興奮を自由と呼んでよいならば――それが紫蘭の言った「自由」とは異なることを、姫君はまだ知らない。


「……姫さまは、自由になりたいとお思いですか?」


 月宮参りのあの日、紫蘭の君はそう京姫に訪ねた。京姫は屈託なくそうだと答えた。もし自由になれたのならば好きなところへと行けるから。今まさに自分が行きたいというところへと。たとえば、京姫を囲っている石垣の外へ、月修院のあの森へ、あの人のところへ。


「紫蘭さん……」


 そう胸で、唇で、つぶやいてみるときの不思議な心の揺動を、京姫は心地わるいような、快いようなどっちともつかぬ思いで受け止めている。半ば満ちた月の光が黒い庭の草々を照らし出す、そのつやめきが、紫蘭のつややかな長い黒髪を思い出させる。お庭に立ち込める夜闇が紫蘭の瞳を思い起こさせる。そして、樹々をそよがせ、頬を撫ぜていく風が涙を拭ってくれた紫蘭の指の感触を……京姫は回るのをやめた。足先から立ちのぼってくるような火照りと震えを鎮めようとして。あるいは受けとめようとして……?


 浅く呼吸をしている胸の上に両手を重ねて乗せてみる。京姫の心臓は雛鳥が小さな嘴で懸命に卵の殻をつつきわろうとするかのごとく、姫の胸を内側から叩き、ひらこうとしていた。姫は両手をあてることで無意識のうちにそれを胸のうちに閉じ込めようとしているのだ。この小さな鳩が生まれ出でてしまえば、何かが大きく変わってしまうようなそんな予感がする。京姫が石垣の外へと逃げ出してしまえば京の守りが崩れてしまうように。想いは唇から解き放たれる。


「いとせめて、眠れよ、吾子あこよ、めぐし吾子、水底の国、玉藻の国は、がためにこそ作りしものを……」


 ……京姫は一種空恐ろしくなるほど散りばめられた星々を見上げて切なげに瞳を揺らした。今日の宴でこの歌をうたったとき、紫蘭の視線を感じた。紫蘭は特に何も思っていないような、静かな落ち着き払った目で、ただしきたり通りのことを行う巫女として、姫を見つめているようだった。ほんの一瞬だけ二人の目が行き合ったような気がしたが、紫蘭の瞳はなにものをも語りかけてこなかった。


 私だけだったというのだろうか。あの日、桜の下で出会った日、胸をときめかせたのは。突如降り注いで、二人を狭い木の洞の中に留めた雨を、天の慈雨だと見なしているのは。


(せめてもう一度だけでも、言葉を交わせたらな……)


 そうしたら、この気持ちの正体がわかるかもしれないのに。紫蘭さんがあの日のことをどう思っているかも、また。なぜこんなにも紫蘭さんに逢いたくてたまらないのだろう。もう二度と逢うことが許されないと思うからだろうか。禁じられた物事ほどやってみたくなる、いつもの悪戯心のためだろうか。ならばどうして胸が痛むのだろう。


「天つ乙女、かくりたまひ、清らの御子、あめれましし、神のみこと、幼き御子、星の命を、涙の川に、降したまひき……」




「どうかされましたか、主上?」


 夜の庭先に顔を向けて何かに聴き入るように目を細めていらっしゃる帝に右大臣は尋ねた。


「姫の歌声が聞こえたような気がしました」

「京姫さまの?」


 右大臣が怪訝な顔をするのももっともなことである。後宮の最奥部にある桜陵殿は二人が差し向かいになる菊令殿きくりょうでんよりははるかに離れている。京姫の歌声が聞こえるということはまずありえまい。


 帝がお笑いになると、その右手におさまった小さな杯のなかの半ば干されかけた酒の水面がちらちらと灯りを受けて瞬いた。まるで星のかけらを杯のうちに収めたようであった。


義兄上あにうえはお堅くていけませんね。もちろんね、本当に聞こえたわけではありませんよ。きっと今、姫が歌っているだろうなってそう思ったのです」

「左様でございますか……」

「ふふ、まだ解せないというお顔をしていらっしゃいますね」

「いえ、決してそんなことは」


 義弟にからかわれても右大臣は眉ひとつ動かさない。傍目からみれば右大臣の態度はやや堅苦しいほどであったが、帝は慣れきっているらしく、恭しく酒を注ごうとするその手が上品な漆塗りの酒器には不似合いなほどに大きく角ばって見ゆるのにも今更おかしみを感じられぬご様子だ。このいかにも精緻なものにふさわしくない手が、実に細やかな仕事をもやってのけるのを、帝はご存知なのである。


 部屋には女房たちのものであるらしい、香のにおいが充満していた。今は部屋の隅に控えているらしい、女どものかすかな身じろぎで、小石がひろげた水面の波紋のように、香は再び広がり、酒の味を圧した。右大臣は辟易してそっと顔を背けたが、帝はまるで構わぬ様子で、酔いのためか瞳を潤ませながら、義兄の横顔をじっと眺められていた。


「……義兄上は心より女性を愛したことがおありですか?」


 帝はにわかに尋ねられた。


「急になにを仰せになりますか」

「いえ、義兄上は頑なに姉上お一人を守っていらっしゃるでしょう?でも姉上を愛していらっしゃるようには私にはみえないのです」

「主上がそう仰っては私も立つ瀬がありません」

「責めているわけではありませんよ。わたくしは姉上を尊敬しているけれども、妻としてはとても扱いにくい女性であることは知っています。姉上が貴方を軽んじていることも。それは不当なことだと私は思いますが」

「……間もなく三人目の子供が生まれるはずです」

「えぇ、わたくしも楽しみです。次は姫君でしょうか」


 帝は注がれたばかりの杯を勢いよく傾けた。右大臣は眉をひそめた。いつもの帝らしからぬおふるまいであった。酔いの感覚があまりお好きでないと以前に仰ったのを覚えている。普段から酒を過ごされるということは決してなく、かほど乱暴な飲み方をされるのもみたことがない。もっとも右大臣とてこの義理の弟としょっちゅう杯を交わすわけではないからもっと内輪の親しい者同士で集まるときにはどうであるかはわからないけれど、ご同輩の友人がいるとも聞かないから、そもそもお酒を召されること自体が少ないのではなかろうか。


「主上、まだ召し上がりますか?」


 銚子が空になったころ合いを見計らっていたのか、部屋の隅の薄闇から女房の声が尋ねた。右大臣は控えめに申した。


「主上、僭越ながら、もうおめになさった方が……」

「えぇ、そういたします。申し訳ありませんが、これにて退がらせていただきます。義兄上も道中お気をつけて……誰か見送りを」


 あっさりと帝が引き下がったのが右大臣にはいささか以外であった。酔漢の執拗さは身にしみてよく知っている。だが、帝は本来のご気性が控えめな方だから右大臣の忠告もすなおに肯われたのであろう。お若いのによくできた御方だとつくづく思う。


 ……しかし、酔っていたにしても今宵の帝はどこかおかしかった。右大臣と女二の宮の夫婦仲が冷え切っていることはもはや世間に知れ渡っていることとはいえ――三人目の子があと三月ほどで生まれる予定ではあるが、すでに二の宮の降嫁から十年もの歳月が過ぎ、右大臣が他に妻を持たぬことを思えば、もっと子宝に恵まれていてもおかしくはないのである。夫婦は至って健康なのであるし――本人の目の前で口にするほどのことではなかろう。なぜあんなことを仰ったのか。


「義兄上は心より女性を愛したことがおありですか?」


 話はその問いからつながっていった。三十四年間にわたる我が人生を一瞬のうちに振り返ってみて、右大臣は即座に「ない」と断言できた。たったひとりだけ、神秘のように思いなしている女性はいる。しかし、その御方を心から愛しているかと問われれば違うと言わざるを得ない。帝はどのような立場から尋ねられたのだろう。愛の経験者として右大臣を憐れんだものか、はたまた無垢なる者の境地から興味を持って尋ねられたのか。京姫との愛を誇示されようとなさったのであろうか。離れていてもその歌が聞こえるという――


(なにを馬鹿なことを)


 女房に先導されて歩み進みながら、右大臣は一蹴した。


(主上と京姫とはどれほど仲睦まじくとも形だけの妹背だ。その愛は兄といもうとの睦まじさであって、男と女のそれとは違うのだ)


 そうだ、帝はあの問いを発した時、京姫のことを考えてはいらっしゃらなかった。現実の夫婦の愛を信仰の夫婦の愛と引き比べて何になる。帝はそれを理解できるぐらいの聡さをお持ちである。では、一体、どうして主上は……



「主上、足元が……」

「えぇ、少し飲み過ぎたようですね」

「いいえ。少しではなく、だいぶ、のまちがいですわ」


 闇のなかで女房の息だけがあたたかく頬にかかる。肩に重みを預けつつ歩いていると、女房の衿元から漂う香気が鼻腔をくすぐり、酔った頭のなかを妖しくかき乱す。それはまるで頭のなかに無限に花が咲き乱れるかのような心地であった。


「さっそく恥ずかしいところをみせてしまいましたね。許してください。いつもはこうではないのですよ。今宵はあなたが側にいるのだと思ったらなんだか緊張してしまって」


 女は恥じ入るようにうつむいた。前髪を透かしてその額が闇のなかに、まるでひとつの生き物のようにひらめいた。


「あら、なぜ主上がわたくしなぞに緊張など……緊張するのはわたくしの方ですわ。とんだ田舎者の世間知らずですもの。陰でどれだけ人に笑われていることやら」

「そんなことはありません。あなたは立派に務めています」

「まあ、お優しい主上……」


 女房は微笑んだ。


「嘘ではありません。私はあなたを呼び寄せてよかったと思っています。ただ、あなたには色々な苦労をかけましたし、これからも苦労をかけるだろうという、それだけがひどく気がかりです」


 酔いの不思議な作用のためか、帝はもつれることなくそう言いきられた。女房の両肩に手を置いて、正面から真剣に見据えながら。そして言い終えたあとで幼子が母親に縋るように、女の衿元に顔を寄せられた。


「私はあなたを苦しませることしかできないのかもしれない。この上なくあなたを愛しているというのに……!」

「いいえ。一度世を捨てた人間に何の苦しみがありましょう」


 痛いほど抱きしめられているにも関わらず、女は苦痛に眉を寄せるでもなく、帝の頭の後ろへと手を伸ばして慈愛深く撫でた。


「これまでのわたくしの懸念といえば月修院さまがお認めくださるかというそのひとつに尽きました。けれども、月修院さまはわたくしの還俗を快くお認めくださったのです。わたくしは翼の生えたような心地がいたしましたわ……ああ!何の苦しみも痛みもなくわたくしはあなたさまのお側に参ることができました。かくなる上はわたくしの全てを主上に捧げるだけ……あなたさまがわたくしをお見捨てになる、その日まで」

「どうして見捨てるなどと言うのです?わたくしはあなたほど美しい女性をみたことがない」

「見かけの美しさは見せかけと申すではありませんか。なんの教養も礼儀もないわたくしを、主上が長く留め置かれるはずがありますまい」

「いいえ。確かに世にはいつわりの美があふれている。だが、あなたの美しさは違います。あなたの美しさは内面の美しさがあらわれたもの。一目みたときに私にはそれがわかりました……そうでなければ、いつまでもあなたの面影がこの目を離れないなどということがありましょうか。帝たる私にさえ、あなたは決して手に入らないはずの存在だったのだから。こうしてこの腕のなかにあなたを抱いているのさえ夢なのではないかと思われます。お願いだ。どうか決して、決して、私のそばを離れないでください」


 帝の手が激しくわななきながら女の顔を挟み、指先で前髪を払いのけると、女は瞳の色をつぶさに見つめられることを恐れるように目をつぶった。帝の影に覆われてもなお女の唇は玉虫色に輝いていた。帝の唇は光に吸い寄せられた、狂える白い蛾のように、その唇を塞がれた。後には捕らえられた蛾の猛った羽搏はばたきの音だけが闇をかすめていく。次第に低く、次第に重く。その間にも、帝は女の名を繰り返されていた。


「芙蓉……」





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